本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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広木城比定地とされる台地先端部の南側には切岸のようにも見える人工的に切り落とされたような斜面が散見されます。
探訪時期が5月中旬という非常識な季節であるため斜面には草木が叢生。
さて人間の目というものは便利なもので、必要な情報だけを視認することで草木の間の僅かな地面の形状を読み取ることが可能なようです。
それに引き換えデジカメで撮影した結果は、いつものことながらどう見てもただの藪としか見えないのであります。


切岸のようにも見えなくも無ない台地の斜面
広木城付近の台地斜面
2007/05/14 撮影

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広木城の辺りで最も堀跡にふさわしそうな用水路がこちらかと。
台地と南麓の境界部分を台地の地形に沿って蛇行し、幅は1間未満で深さも1m程度の規模かと思われますが、当方のような視力に問題のある者にとっては、雑草覆われているため注意して歩かないと嵌る恐れも無きにしも非ずといった塩梅です。
尤もすぐ南側には灌漑用水池が所在するので、これに伴い新たに開削されたものかもしれません。


広木城付近の用水路
広木城付近の用水路
2007/05/14 撮影

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広木大仏城の一部と推定される台地上の民家の脇からL字状にのびている溝跡。
堀跡かといえば歴史的な遺構にしてはどことなく新しそうな印象もあり多分違うような按配。

幅は1間、深さ80cm、延長40m以上(先の方が篠竹の藪に向かっているため地面の形状の目視が不可能)という規模。
民家の排水関係の溝にしては溝の底部が宅地部分よりも高く、かつ90度の角度で曲がるという必然性を欠いています。

溝が存在する意味としては
①境堀
②耕作のための畦堀
③排水路
④山道(里道)
などが想定されますが、
①の場合に台地上に設置する意味が不明
②の場合には耕作地の面積としては些か狭隘に過ぎる観が。
④の場合にもL字型に曲がる意味が不明


広木城付近の台地上の溝
広木城付近の台地上の溝
( 2007/05/14 撮影 )


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本日午後6時頃にお蔭様でアクセス累計が14万件に到達致しました。

この一年間は体調不良が続いたこともあり、更新頻度ならびに訪城回数も激減の一途。
加えて、「城館まがい」なども堂々と掲載するといういい加減さ。
このようなコンテンツであるにも拘らず、リンクいただいている皆様をはじめとして多くの方々にご覧いただきあらためて心より感謝申し上げます。

下記の画像は収穫直前の麦の様子ですが、何処か自分の人生と重ねあわせるような年代になってしまったと思う次第なのであります。


新倉館の麦畑
新倉館の麦畑
2007/05/14 撮影

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先月の中旬に訪れて以来。
暫し体調を崩していたこともあり城館探訪も3週間ぶりとなったような次第。
行先は前回に引き続き児玉郡美里町。
もちろん遺構などとは縁のなさそうな名も無き平地の城館跡ばかりにて。


広木大仏城(埼玉県美里町 以下同様)10時45分~11時45分

一色氏の時代のものと戦国時代末期のものとがあるとの情報で、大興寺の北側付近の台地を含む一帯が城館跡とされている由。
周辺の地形を確認するため南側の円良田湖方面より接近。
円良田城、猪股城の山城を南に配し、殆んど消滅した印象の白石城も指呼の間。

南北に伸びる細長い台地の先端部分は比高差20mを有する要害を形成。その西側は畑や用水路などが複雑に入り組んでいるため当時の地形を確かめることは難しい状況。
それでも、一目見て地形的に特徴のある台地と用水路に当時の面影が伝わってくるのは気のせいなのでありましょうか。

なお、台地上の民家脇に総延長で40mほどの鍵の手状の溝が所在。
無論遺構というよりもかつての排水路、畦堀のようなものかも知れず。
ただ排水のための溝にしては民家の宅地よりも高い位置に所在すること。
鍵の手状であることなどに些かの違和感が。
また同様に台地上の人工的削平を思わせる平坦地に加えて、切岸状の斜面も所在するなど興味深い城館跡ではあります。
然し何分元々篠竹の藪が密生している個所が多いことと合わせて、この季節では如何ともしがたいのでありました。

トータルな印象としては、あくまでも推定地とはいえ武田・北条の両軍合わせて2千からの兵力による攻防戦が繰り広げられたとは俄かに信じがたい実にのどかな県北の田園風景が広がっておりました。

広木大仏城
広木大仏城
2007/05/14 撮影


御所内館 11時55分~12時40分

中世の城館跡というよりは古代の防人を務めたとされる支配階層の住居跡で、遺構とされる区域は幅1間、深さ数十センチに満たない堀跡に囲まれた微高地を形成(下記の画像の奥の部分が遺構とされています)。
なお当然のことながら、時代が下って戦国期には在地領主階層の居館となっていた可能性もあり、当時の遺構がそのまま存続しているはずも無く。
周囲の草叢の中には小さな水路も所在するのでこの時期には要注意。






新堀屋敷 12時50分~13時00分

八高線と牛舎を経営されていた農家などが所在するのみ。
予めこの場所が城館跡であるという情報が無ければ通り過ぎてしまうような水田の中の平坦地。
圃場整備により往時の地形は消失しているとのこと。
そうしたなか、西寄りの個所に所在する用水路が気になるといえば気になる程度。
また、「美里町史」と「埼玉の中世城館跡」とでは所在地に微妙な相違があり、「美里町史」のほうがやや八高線の南側に比重を置いているのであります。
然し何れにせよ現状の地表上の地形からでは何とも判断のし様がないのでありました。





新倉館 13時20分~13時45分

下記の画像は東側の民家寄りの北東の角から撮影したもので、圃場整備に伴う発掘調査により二重堀の館跡が確認されているとのことであります。
なお、たまたま農作業中の地元の方がおいでになり、十数年前までは明確な堀跡が現存していた旨、およびこの場所が新倉と呼ばれていることなどを確認することができました。
然し現状の地形からは微高地を形成しているという事実と、猪股城方面からお互いに眺望が優れるという以外には得るべきものがありませんでした。

新倉館
新倉館
2007/05/14 撮影


桜沢氏館 13時50分~14時15分

堀跡、土塁跡などの遺構が遺されているかも知れないという僅かばかりの可能性を求めて該当地域を一周半。
確かに東側と北側の水路は堀跡の名残のような印象が濃厚。
小山川の堰堤近くの水路には錦鯉が棲息し一瞥した限りでは趣のある佇まいを見せておりましたが、よく観察するとコンクリートの擁壁に囲まれた水路なのでありました。
また土塁跡については宅地化の進行により判別が難しく、西のはずれに所在する稲荷神社周辺に人工的な盛り土を確認できる程度なのでありました。
なお、城館跡名と同一姓のお宅も周囲に所在している模様でありました。






首筋から背中の痛みだけはある程度薄らいできたものの、左半身を中心とする痺れ感は一進一退の状況。
このような次第で身動きが儘ならなずもたもたとしているうちに、季節はあっという間に初夏へと変貌。既にやや季節はずれの感がなくもない鶯、そして今が盛りの雲雀の囀りがのどかに響き渡る県北の田園風景を舞台に漸く城館めぐりの再開にこぎつけたのでありました。

さて、時刻は未だ午後2時を過ぎたばかりで、無理すればあと数ヶ所の探訪は可能。
然し、呼吸器系統は未だ完全復活には程遠い状況。
ここ数年の間に極度に暑さに弱い体質に変質したため、水分補給に留意しながらの行動。
いずれにせよ先々のことを考慮して潔くこれにて撤収。

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