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凸龍源寺環濠/群馬県前橋市粕川町膳
2021年11月11日 見学
13時20分から13時35分
各種情報を総合すると桐生市の山上多重塔からは南東方向に直線で約300mほどの地点に所在する龍源寺境内とその周辺が該当するらしい。
とはいうものの最短ルートるでアプローチしたものの、道程では約700m前後の歩行距離であった。
概ね下り坂基調となるとはいえこの辺りから足回りに疲労感が鬱積してきたらしい。
因みに前進する足取りも遅いが歩幅も狭くなる一方で、この時の歩行速度は何と分速70m前後となっていた。
然もこの後は善城に移動しての見学を予定しており、夕刻までの残り時間を考慮すると気ばかりが焦るという状況であった。
このため本来歩くべきルートを誤ったり、確認すべきポイントを見逃したりというように、傍目には半ば高齢者の徘徊に近いような探訪であったように思われる。
従って肝心の境内西側方面の地表観察は行ってはいない、というか行えなかったという方が正しい表現であるように思われる。
■北西方向からの遠景
この画像の左側に地面の凹凸部分が写りこんでいるが、同環濠跡との関連の有無については不明である。
■境内西側の崖線地形
同寺境内の西側はこのような人工的な崖線地形を呈しているのだが、同様に環濠跡との関連は不明である。
なお境内北側部分についても概ね同様の人工的な崖線地形が形成されているように見受けられた。
つまりは境内地自体については少なくとも西側と南側については堀窪められているということになるように思われるのである。
■南側山門付近の様子
山門外側の「結界」を示す石造物で、画像の手前境内地の南側辺縁部には際立った地表面の凹凸は確認できなかった。
■同寺境内の無縁仏の墓石等
西日の強い時間帯の撮影のため明暗が極端であることから、大幅にコントラスト等を調整しております。
◎参考資料
「マッピングぐんま」
「群馬県の中世城館跡」⇒同報告書によれば、かつては堀、土塁、虎口の形跡が存在していた旨が記されている。ただしそれが善城に関係するものであるのかについては示されてはいない。
「角川日本地名大辞典」⇒「粕川村郷土史」からの引用として同寺の縁起、沿革について記載がある。これによれば「曹洞宗龍源寺は明応元年(1492年)新里村村山上之郷五万堂の地に建立され、開基は三善越前守、開山は下野国大中寺二世培芝正悦大和尚禅師、赤城山慈院龍源寺と称し、寺領300石余であった。永正7年野火により焼失後、膳城主である善備中守が当村に再興した。元亀3年膳城落城の際に焼失、天正2年に再建され泰雲山と改称し、末寺は25を数えた」とされている。ただしこの辺りの経緯についてはあくまでも出典の精査等が必要と思われる。
国重要文化財指定(建造物/石造文化財)
1943年6月9日 指定
2021年11月11日 見学
13時00分から13時20分
粕川月田近戸神社から東へ直線にして僅かに約400mの距離である。
なお行政区分は前橋市(旧粕川村)から桐生市(旧新里村)へと変わるが、善城方面へのルート上に位置していることもあり立ち寄ることとした。
しかし行く手には赤城山中腹を水源とする兎川とその支流となる小河川が南流している。
加えて最短ルート自体も大きく曲折して約700mほどの距離となり、また累計比高差も20mほどとなることから足取りは次第に重くなっていったのである。
それでもほぼ1週間毎に体を動かすというルーチンに慣れ始めていたらしく、行動不能となるような疲労感を抱くようなことは無かったと記憶している。
尤も北側の市道を東方向へ向けてトボトボと歩いていたこともあり、多重塔らしき景観を目にした
時にはホッとしたことも事実である。
桐生市のホームページによれば、上毛鉄道善駅(無人駅)からは北北西に約4km、徒歩40分程度とされている。(ただし新里町デマンドタクシーを利用できると記されている)
しかし駅からは緩やかな登り坂となることから、歩きなれていないという場合には辛いものがあるのかも知れない。
また同所には専用の駐車スペースは確認できなかったが、交通量も余り多くは無くごく短い時間であれば南側の沿道の端などに駐車することは可能かもしれない。
なお専用のトイレも完備しており見学者には誠に有難いものがある。
■赤城山を遠望できるロケーション
■詳細な説明の記された現地解説版
延暦20年(西暦801年)建立したとの文字が刻まれた「上野三碑」と並ぶ著名な供養塔である。
■ガラス越しの撮影のためこれが限界・・・
なお頂部に相当する「相輪部分」に何らかの不具合が生じているようにも見受けられたのだが、近年の事情によるものなのであろうか。
■近傍に所在していた馬頭観音像
「馬頭」の文字が確認され、かつ文字のみの石造物であることから一般的には近世中期以降の比較的新しい造立であることが推定される。(※逆光により「馬頭」の文字が見辛いため相当に画像加工してあります)
無論文化財の指定などもなされる可能性のないごくありふれた石造物かもしれないのだが、その立ち姿は折からの秋の夕日を浴びて神々しささえ感じさせてくれるのであった。
この日は早朝始発からの移動乗換に始まり、途中乗換トラブルも加わり疲労の色は次第に色濃くなってきた。
多重塔到着の時点で時刻もすでに正午を過ぎてはいたが、予定も押し気味であったことから昼食は近戸神社境内での一口羊羹一個と水分補給のみという塩梅であった。
この時はその2日後の夕刻に訪れた極度の体調不良を想像するには至らず仕舞いであった。
◎参考資料
「桐生市ホームページ」
「石仏巡り入門」(大法輪閣)
「民間信仰辞典」(東京堂出版)
※諸般の事情により、この稿は2021年11月28日に作成しております。