本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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定年を過ぎました~
趣味:
「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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2009年3月頃から、ボチボチと作成し始めた概念図。
昨年末現在までに作成した件数は約80か所ほど。
現状の更新遅滞要因であると共に、探訪時間の浪費要因ともなっております。

手法としては、概ね俯瞰図と平面図に分類。
表現方法を習得するには、模倣が手っ取り早いとはいうものの余りに安易な手段。
純粋に現地情報をベースにして作成したものは半数以下という低レベル。

平地、台地に占地している場合には、押並べて比較的作成が容易。
つまりは誤魔化しが効きやすく(汗)
然しある程度の規模を有する山城の場合が色々な意味で一番の難関。
まず、俯瞰図、平面図何れの場合にも共通する城郭遺構以外の自然地形の表現方法。
これを平行線で描くのか、ボカシの手法で描くのか、等高線表示で誤魔化すか等々の問題が。

TPOも視野に入れ筆記用具は何がベストかという問題も。
県地でのメモ用としては今までの体験から、耐寒性を考慮し0.5mmの水性ボールペン(Blue)を使用。
しかしこれは非常に鮮明に分だけ、訂正の際の上書きが効かず(苦笑)

新府城の概念図
新府城概念図(Ver.1)

さて概念図用として、最近の何枚かはデッサン用シャープ・ペンシルの硬度B/0.9mmを使用。
以前は硬度B/0.5mm、この間までは同じく0.7mmを使用。
因みに今までに硬度H、HB、B、2Bの4種類、芯径は0.5mm、0.7mm、0.9mmで試し書き。
変遷の理由は指の疲れ、筆圧、ラインの均一性などによるもの。
また水性ペン、水性ボールペンでは事実上修正が困難(笑)

城絵図や村落絵図を眺めていると、省略法と墨の濃淡を取り混ぜた水墨画のような手法もあるのかとも。
と、長い前置きをしたうえで漸く出来上がったのが「新府城」(Ver.1)。
ご覧のように、前置きの如くに北東方向の斜面の描写を誤魔化しております~
無論原図となった縄張り図は、「戦国武田の城」(中田正光/有峰新社)収録のもので、けっして管理人のオリジナルではありませぬ。
但しこれらを含む3枚の概念図の作成だけで、大晦日と元日の両日にわたる作業時間は延々6時間以上に及び...(爆)

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2009年の更新件数は僅かに53件にとどまりました。
そのうち48件が新規で、修正・追記が5件。
パソコン環境の不具合、加齢に伴う記憶力の減退・老眼の進行、持病に伴うミニ入院、さらには下手なお絵描き等が影響したということで何卒宜しくご理解のほどを。

その一方先ほど集計したところ、探訪件数は新規だけでも161か所に。
尤もその9割近くは上半期に集中。
いうなれば未更新在庫が肥大化・増殖の真っ最中。
つまるところ収支バランスは完全に悪化の一途。
このような事情からなのか、11月以降の探訪日数は僅かに4日間で計17か所のみという情けなさ。

このようなサイトでございますが、一年間のご愛顧を賜りましたことを心より御礼申し上げる次第にございます。
あわせて謹んで皆様方のご多幸とご健勝を祈念申し上げ...
これでは恰も企業&団体の年末挨拶のような...(苦笑)

不況の折から明るい話題が乏しい年末ではございますが、皆様どうぞ良いお年をお迎えくださいませ。

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本日は、モナー軍曹どの、史進どのに導かれ山梨県の韮崎市へと遠征。
珍しく前日の就寝が早いこともあり午前4時30分起床、自宅出発時刻は午前5時25分。

甘利氏館(山梨県韮崎市) 10時40分から10時50分

大輪寺を中心とした区画が甘利氏居館跡とのこと。
とはいえ現存しているのは寺院境内と民家の宅地。
なお駐車スペース確保のため寺院周辺を一周半。

甘利氏館
甘利氏館


扇子平城山梨県韮崎市) 11時10分から13時05分

大型哺乳類除けの柵の向こう側の谷筋に作られた平坦地からのスタート。
この個所からの直登での比高差は約120mほど。
ここで健忘症が進行中の管理人は車内に忘れ物。
このため比高差60mを往復し約20分ばかりのご迷惑を(謝)

3か所の堀切を含む良好な遺構が残存。
基本的には烽火台の機能も兼ねた単郭構造の砦というような印象で、やや緩斜面の残る主郭部分を中心として、およそ50名を超える程度の兵力が常駐することは可能と推定。
また遺構が続く尾根筋の北側部分にも腰郭状の地形が4、5個所ほど散見されます。

扇子平城
扇子平城主郭西側の堀切

なお南西方向にのびる谷筋の林道を進み砂防ダムを渡り対岸の斜面に取りつくのが、本来の道筋と分かったのはあくまでも帰路でのこと。
この方面から斜面を登ると直接の比高差は60mほどなのかとも。


白山城(山梨県韮崎市) 13時30分から15時20分

武田神社駐車場からのスタート。
このため実質的な比高差は80m前後。
さほど息が上がらないまま、北側の馬出しの手前部分に到着。

主郭と北側馬出し付近の堀跡は良好に残存。
なお資料に掲載されていた帯郭から続く放射状の縦堀群については、残念ながらその大半が藪に覆われ枯葉に埋没中。

白山城
白山城の土橋と堀跡

また南西方向の尾根筋に約100mほどの距離を隔て、南東側を意識して構築された腰郭群との相互関係が気になります。


新府城(山梨県韮崎市) 15時45分から17時00分

冬至を過ぎてから日没時刻がほんの僅か遅くなってきたようにも。
そうはいっても既に白山城からの下山時点で早くも夕日は山の端へ顔を隠蔽。
それでも釜無川西岸から「七里ケ岩断崖」の景色を悠然と撮影する三人の男たち。

堀跡地形全体が埋没していたためか、有名な北側出桝型土塁は当初の予想とは相違が。
また北側の水堀跡は一部凍結中。

新府城
新府城の修復中土塁と水堀

郭内に足を踏み入れた時点で、既に西日の残滓だけが頼りとなった黄昏時の訪城となりました。
南側の丸馬出と三日月堀を訪れたときには、そろそろ月明かりが頼りという時刻に。


なお本日の往復走行距離は約328km、同所要時間は8時間30分で帰宅時刻は午後11時過ぎ。
また燃費は上り坂が少なくなかったにもかかわらず、交通量が少なかったことも幸いして1L当り14.55kmを達成。
それほどの疲労感が無かったのは比高差に配慮いただいたことが最大の要因かと。
そのほか足回り環境の整備とダイエットなども、心なしか息切れの軽減に有用であったようにも。

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金曜日、土曜日と2日間を要しての荷物の移転作業が完了。
この2か月ほどは、財源の確保を含めた事前の準備と課題の整理などに没頭...した心積もり(笑)
思えば30歳代の半ばは兎も角として、40歳代半ばと比べても頭の回転と記憶力の低下現象が顕著に。
加えてこの夏頃より明確に老眼が進行中。

それでもどうにか足回りだけは元気なので、「探訪件数>更新件数」という図式との成立とともに、「夥しい物忘れ+老眼の進行+気力の低下=未更新在庫の山積み」という公式が確定。

また現在使用しているトレッキングシューズのフィット感がいまひとつ。
踵骨変形症の方は中敷きなどを色々と試し克服傾向に。
ただし現在は足の第五指の問題もあり今回は5本指の靴下をテスト中。
たぶん4Eから5Eのゆったりタイプがベストなのだが。

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珍しく本日は午前6時40分に自宅を出発。
なおここ暫くは仕事上の理由から車での通勤が続くのであります。
体脂肪の燃焼に寄与すべく、今回も可能なかぎり徒歩での移動。
ところが当てにしていた手賀の丘公園の駐車場は午後4時30分に閉鎖とのつれない表示が。


泉城(千葉県柏市-旧沼南町) 9時00分から9時45分
台地上は果樹園と野菜畑と宅地。
そうした状況で少しでも可能性があるとすれば、台地南東側の空堀状地形と帯郭状地形とも見えなくもない部分。
勿論こうした地形については、手賀沼干拓の事業拡大に関連するものとの可能性もまた否定できないようにも。
こうして画像の編集を行ってみると台地を横断する空堀の延長の縦堀のようにも思え、さらにこの堀跡状の地形からは細長い帯郭状地形が続いていたのでありました。

泉城
泉城の空堀状地形


泉妙見城(千葉県柏市-旧沼南町) 10時10分から10時40分
泉妙見社境内とその周辺に土塁状の地形が数カ所存在しています。
しかし、神社境内以外は民家の宅地内に所在している物が大半。
このため現実的には外部からそっと観察する以外に方法がないのであります。


柳戸砦(やなどとりで、千葉県柏市-旧沼南町) 11時40分から12時35分
六所神社東方に神社境内に付属している土塁とは明らかに洋装の異なる城館関連の空堀、二重土塁(但し遺構の一部のみ)が確認されます。
また土橋状地形、帯郭状地形が一か所ずつ認められますが、遺構の南側部分は宅地化、耕地化等により消滅しているものと考えられます。
下の画像で見える部分は最も見通しが良好な個所ですが、全体として目測ではその東西方向の延長距離は計測が不能。
止むを得ず歩測を行いましたがやたらに障害物が多いことも禍して、あくまでも推定で凡そ60m前後と大雑把な表現に止まります。
なお東西の両端部ではそれぞれ南側に直角に折れ曲がっていますが、西側では20m足らず、東側でも30m足らずでその痕跡を辿ることが困難となります。
また無名に近い遺構ではありますが、保存状態そのものについては予想以上に良好です。

柳戸砦
柳戸砦の空堀と二重土塁


高野館(千葉県柏市-旧沼南町) 14時00分から14時55分
鬱蒼とした孟宗竹の林の中に方形の土塁とこれを取り巻いていたと推定される外郭土塁が現存しています。
内郭部は東西に小口状地形を有していますが、やや塁線が不明確な個所も見受けられると共に郭内の地表部が外郭よりも低いところに些か違和感を禁じ得ないのでありました。
遠近両用の眼鏡のためか、はたまた止まるところを知らない老眼の進行の故かは不明ですが、見通しが良好な割にはなかなか距離感が掴みづらく、ここでも歩測を実施し漸く土塁外部を含め南北約50m、東西約40m長方形の内郭であることを確認。
なお、南側の内郭のラインに平行する形で低土塁を伴う空堀状地形も見て取れます。

高野館
高野館


布瀬館(千葉県柏市-旧沼南町) 15時05分から15時35分
地蔵堂の周辺にそれらしい地形の名残りを2、3個所ほど認めることができますが、それ以上のものではありませんでした。
長屋門を有する旧家の辺りには土塁の痕跡と言えなくもない地形が散見されることから、県道282号柏印西線北側にも及んでいたものと思えますが、いまひとつその範囲を絞り込むことには無理がありました。
なお「中近世城館調査報告書」では「布施館」と表記していますが、近世の庚申塔に刻まれているように「布瀬」の地名表記の方が正しいものと考えられます。

松前館(千葉県柏市-旧沼南町) 15時40分から16時00分
見事なまでに舌状台地が削平されて殆どその面影がありません。
沈みゆく西日を受けた逆光の荒涼とした台地の黒い影を撮影して本日のスケジュールを終了。

本来はこれに「手賀城」と「布瀬城」が加わるべきところでありましたが、日没時間が余りにも早いために6か所どまりとなりました。
県道282号柏印西線沿いの最終探訪地からは歩道部分が殆ど皆無で約3.5kmばかりの道程。
この次も柏市南部の如何にも遺構がなさそうな地域を予定(苦笑)



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