本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
カレンダー
01 | 2025/02 | 03 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 |
カテゴリー
最新CM
中城の歴史の引用について(返信済)
(07/01)
おつかれさまでした(返信済)
(11/09)
無題(返信済)
(12/17)
お疲れ様でした(返信済)
(10/13)
お疲れ様でした(返信済)
(03/22)
最新TB
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
アクセス解析
フリーエリア
先月半ばに首筋を痛めました。
ようやく回復したのは何と月末近く。
それならば足回りの鍛錬だけでもと定期的にウォーキング(夜間)を開始。
1月27日が12km。
1月28日が3km。
1月29日が16km。
1月30日が3km。
1月31日が4km。
2月1日は入間川の手前まで往復24km+3km(約3万8千歩)
本日が現時点で2.5km。
右膝は何時もの膝ベルト。
腰には新規導入腰椎ベルトを装着。
歩き始めの膝の違和感(鈍痛)を除けば、大きな痛みも無く、平地限定ならばある程度の長時間歩行も可能。
問題は先月5日にも生じた足のマメ(水泡)
昨日の24kmの影響で、ただいま両足の第五指並びに踵付近に発生中。
いくら節分が近いとはいえ、足のマメは避けたいところ。
現在はテーピングなどで水泡の破裂を防止。
この状態で登りはともかくとしても、道の無い斜面の下降に支障がない筈もなく。
思えば今を去ること3年前の11月大坂秋の陣。
大坂城周辺をほぼ2周してから真田山へと向い、大阪梅田駅まで徒歩で戻った折に生じた水泡。
マメな体質ではなく、単にマメが出来やすいという体質なのかも知れません(苦笑)
ようやく回復したのは何と月末近く。
それならば足回りの鍛錬だけでもと定期的にウォーキング(夜間)を開始。
1月27日が12km。
1月28日が3km。
1月29日が16km。
1月30日が3km。
1月31日が4km。
2月1日は入間川の手前まで往復24km+3km(約3万8千歩)
本日が現時点で2.5km。
右膝は何時もの膝ベルト。
腰には新規導入腰椎ベルトを装着。
歩き始めの膝の違和感(鈍痛)を除けば、大きな痛みも無く、平地限定ならばある程度の長時間歩行も可能。
問題は先月5日にも生じた足のマメ(水泡)
昨日の24kmの影響で、ただいま両足の第五指並びに踵付近に発生中。
いくら節分が近いとはいえ、足のマメは避けたいところ。
現在はテーピングなどで水泡の破裂を防止。
この状態で登りはともかくとしても、道の無い斜面の下降に支障がない筈もなく。
思えば今を去ること3年前の11月大坂秋の陣。
大坂城周辺をほぼ2周してから真田山へと向い、大阪梅田駅まで徒歩で戻った折に生じた水泡。
マメな体質ではなく、単にマメが出来やすいという体質なのかも知れません(苦笑)
とうとう明日は60回目の誕生日。
いわゆる還暦。
従って本日が50歳代最後の日に相当。
ところで満年齢とは誕生日の到来を指すのか、その前日を指すのかという素朴な疑問が。
いろいろ調べてみると、法律上の満年齢は誕生日前日の午後12時を以てその年齢に到達するとのことらしい。
何れにしても本日が五十歳代最後の日であることだけは間違いが無さそう。
学生時代頃、日本社会の将来像として近い将来には脱工業化社会、高度情報化社会、そして高齢化社会が到来する旨が盛んに喧伝されていたのがついこの間のことのようにも。
厚労省の統計上では、満65歳までは未だ労働人口扱い。
けれども老眼の進行、慢性の腰痛と右膝関節痛などがあり今春からのリタイア(再雇用制度によらない定年退職)を決定。
とはいえ高齢者人口が急増しているので、電車の優先席に平然と腰掛けるまであと10年くらいは持ちこたえねば。
いわゆる還暦。
従って本日が50歳代最後の日に相当。
ところで満年齢とは誕生日の到来を指すのか、その前日を指すのかという素朴な疑問が。
いろいろ調べてみると、法律上の満年齢は誕生日前日の午後12時を以てその年齢に到達するとのことらしい。
何れにしても本日が五十歳代最後の日であることだけは間違いが無さそう。
学生時代頃、日本社会の将来像として近い将来には脱工業化社会、高度情報化社会、そして高齢化社会が到来する旨が盛んに喧伝されていたのがついこの間のことのようにも。
厚労省の統計上では、満65歳までは未だ労働人口扱い。
けれども老眼の進行、慢性の腰痛と右膝関節痛などがあり今春からのリタイア(再雇用制度によらない定年退職)を決定。
とはいえ高齢者人口が急増しているので、電車の優先席に平然と腰掛けるまであと10年くらいは持ちこたえねば。
諸事情により約1年のブランクで漸く山城探訪を再開しました。
城館探訪自体は昨年12月から再開。
しかしある程度の比高差を伴う山城は本当に久しぶり。
凸茶臼山の砦(群馬県富岡市) 10時20分から12時20分
標高269m、上信越自動車道の南側丘陵地帯に所在する城郭遺構群のひとつです。
丘陵北側麓からの比高差は約100mほどありますが、南麓の公道からは比高差約60m前後に過ぎません。
中世城郭遺構としてよりも、北茶臼山古墳の古代遺跡としての方が有名で、城跡全体は古墳と共に富岡高校の林業関係の演習林となっています。
山崎一氏の調査によれば、古墳が所在する東側の稜線部に郭および腰郭群が存在していたことが判明しています。
しかし四半世紀以前の「中世城館調査報告」当時においても遺構の残存状況は不良と明記。
そうした中で概ね明確な遺構として捉えられるのは北東部稜線の幅の狭い腰郭群が挙げられます。
無論南東の稜線部にも腰郭状の10段近い幅の広い腰郭状地形が認められます。
ただしこれらについては林道の築造や植樹などによる相当の地形の改変も窺えます。
また主郭とも考えられる北茶臼山古墳の南斜面にも複数の大規模な腰郭状の地形が散見されます。
こちらについても、植林或いはその日照条件から耕作地の開墾によるものという可能性も想定されます。
尤も、そうした腰郭状地形を確認するために滑りやすい落ち葉の斜面などを幾度か往復しましたので、実際には比高差にして軽く100m以上は行動していたことになります。
そうした事情もあってか、下り道では右膝関節部に明らかな痛みを発症(苦笑)
この時点で時刻は12時を大きく回り、次の目的地は確実な駐車スペースがないことから、約2.5kmを徒歩で行かざるをえないという事情も重なり、安全面を考慮し即帰還という選択枝も頭に浮かぶ状態でした。
凸浅香入城(群馬県富岡市) 13時00分から14時15分
それでも次の目的地に進むという気力を支えたものは北茶臼山古墳から眺めた浅香入山方面の遠景でした。
遠望する範囲では該当しそうな山容は3か所ほど。
当初はそのまま徒歩で城跡南部の谷筋ルートからのアプローチを想定。
しかし、独立丘陵最北端に所在していた額賀神社への階段を目にして急遽予定変更。
神社へ階段を上がれば確実に比高差を稼ぐとともに初詣も叶うという充実したプラン。
この方面からの比高差は約110m。
ひたすら城跡方面に向かい南下する稜線ルートは眺望にすぐれないことを除けば快適そのもの。
途中で以前から気になっていた平場状地形(たぶん耕作地跡)、複数の堀切状地形(たぶん里道)、竹林の中の切岸、腰郭状地形(不明)を通過。
この途中で大型哺乳類に遭遇を。
始めはその跳ね跳ぶ姿から野兎のようにも見えたのですが、点在する糞や体格の大きさからカモシカに間違いなく。
なお麓の注意書きによりますと、イノシシの出没も少なくないようでした。
肝心の城跡遺構として目ぼしいものは主郭北部の堀切。
北部に残存している腰郭も自然地形との区分が不明瞭。
主郭とされる部分は山崎氏の縄張り図よりもやや幅広の地形。
予想外のものは城跡南側斜面の岩場。
斜度自体は大したことがないものの、落ち葉で滑りやすく掴まるものもなく...
一度尾根筋を下りかけ、再び城跡南西部の鞍部へと下り、沢沿いの藪の状況を確認。
再び東側の尾根筋方向へと戻り、沢筋の旧道跡まで孟宗竹に掴まり下山。
下山ルートの比高差は約80mほどですが、明確な踏み跡は殆ど消失していました。
下山の間際から右膝関節痛に加えて腰痛も発生。
これに左足親指爪先の痛みも再発。
歩数計上では僅かに1万3千歩足らず。
なお、急斜面などでの慎重な動作は歩数計に反映しないことも判明。
さして比高差のない低山さえも、この疲労困憊ぶりに我ながら茫然自失。
筋力、心肺機能など体力面での衰えは最早確定的といっても過言ではなく。
残るは僅かばかりの気力と余り当てにはならない経験くらいのもの。
ある程度のレベルでの山城探訪が可能なのは、それ程長くも無さそうにも思えるのでありました。
城館探訪自体は昨年12月から再開。
しかしある程度の比高差を伴う山城は本当に久しぶり。
凸茶臼山の砦(群馬県富岡市) 10時20分から12時20分
標高269m、上信越自動車道の南側丘陵地帯に所在する城郭遺構群のひとつです。
丘陵北側麓からの比高差は約100mほどありますが、南麓の公道からは比高差約60m前後に過ぎません。
中世城郭遺構としてよりも、北茶臼山古墳の古代遺跡としての方が有名で、城跡全体は古墳と共に富岡高校の林業関係の演習林となっています。
山崎一氏の調査によれば、古墳が所在する東側の稜線部に郭および腰郭群が存在していたことが判明しています。
しかし四半世紀以前の「中世城館調査報告」当時においても遺構の残存状況は不良と明記。
そうした中で概ね明確な遺構として捉えられるのは北東部稜線の幅の狭い腰郭群が挙げられます。
無論南東の稜線部にも腰郭状の10段近い幅の広い腰郭状地形が認められます。
ただしこれらについては林道の築造や植樹などによる相当の地形の改変も窺えます。
また主郭とも考えられる北茶臼山古墳の南斜面にも複数の大規模な腰郭状の地形が散見されます。
こちらについても、植林或いはその日照条件から耕作地の開墾によるものという可能性も想定されます。
尤も、そうした腰郭状地形を確認するために滑りやすい落ち葉の斜面などを幾度か往復しましたので、実際には比高差にして軽く100m以上は行動していたことになります。
そうした事情もあってか、下り道では右膝関節部に明らかな痛みを発症(苦笑)
この時点で時刻は12時を大きく回り、次の目的地は確実な駐車スペースがないことから、約2.5kmを徒歩で行かざるをえないという事情も重なり、安全面を考慮し即帰還という選択枝も頭に浮かぶ状態でした。
凸浅香入城(群馬県富岡市) 13時00分から14時15分
それでも次の目的地に進むという気力を支えたものは北茶臼山古墳から眺めた浅香入山方面の遠景でした。
遠望する範囲では該当しそうな山容は3か所ほど。
当初はそのまま徒歩で城跡南部の谷筋ルートからのアプローチを想定。
しかし、独立丘陵最北端に所在していた額賀神社への階段を目にして急遽予定変更。
神社へ階段を上がれば確実に比高差を稼ぐとともに初詣も叶うという充実したプラン。
この方面からの比高差は約110m。
ひたすら城跡方面に向かい南下する稜線ルートは眺望にすぐれないことを除けば快適そのもの。
途中で以前から気になっていた平場状地形(たぶん耕作地跡)、複数の堀切状地形(たぶん里道)、竹林の中の切岸、腰郭状地形(不明)を通過。
この途中で大型哺乳類に遭遇を。
始めはその跳ね跳ぶ姿から野兎のようにも見えたのですが、点在する糞や体格の大きさからカモシカに間違いなく。
なお麓の注意書きによりますと、イノシシの出没も少なくないようでした。
肝心の城跡遺構として目ぼしいものは主郭北部の堀切。
北部に残存している腰郭も自然地形との区分が不明瞭。
主郭とされる部分は山崎氏の縄張り図よりもやや幅広の地形。
予想外のものは城跡南側斜面の岩場。
斜度自体は大したことがないものの、落ち葉で滑りやすく掴まるものもなく...
一度尾根筋を下りかけ、再び城跡南西部の鞍部へと下り、沢沿いの藪の状況を確認。
再び東側の尾根筋方向へと戻り、沢筋の旧道跡まで孟宗竹に掴まり下山。
下山ルートの比高差は約80mほどですが、明確な踏み跡は殆ど消失していました。
下山の間際から右膝関節痛に加えて腰痛も発生。
これに左足親指爪先の痛みも再発。
歩数計上では僅かに1万3千歩足らず。
なお、急斜面などでの慎重な動作は歩数計に反映しないことも判明。
さして比高差のない低山さえも、この疲労困憊ぶりに我ながら茫然自失。
筋力、心肺機能など体力面での衰えは最早確定的といっても過言ではなく。
残るは僅かばかりの気力と余り当てにはならない経験くらいのもの。
ある程度のレベルでの山城探訪が可能なのは、それ程長くも無さそうにも思えるのでありました。