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窮屈な姿勢のために、連続して作業する訳にもいかないので休憩を取りながらの作業。
その時にちょっとした事件が発生。
天井裏へと続く僅かな隙間から2匹のネコが冒険へと出立。
翌日の餌やりで身柄を確保するも、再び障害物を頭を利用して押しのけて天井裏へ。
3度目の脱出のやりとりの後、可動式の天井板に5Kgほどの重量物を載せて決着。
天井裏は色々な道筋が、恰も迷路のように連続。
ネコの本性から考えても楽しいことこの上なく。
運動神経の良い「いちご」(雄6歳)の方は兎も角も、まず上がれそうもないと思っていたポミ(雌、6歳半)でさえも垂直の壁を登攀し冒険に成功したのでありました。
還暦を迎えた後、柔軟体操で右腰の筋肉を痛めたのがケチのつきはじめだったのかも。
その後は首筋の寝違え、右腰の神経痛、足のマメ、右膝関節痛、慢性気管支炎と余りの災厄つづきに茫然自失(汗)
ようやく本日2ヶ月ぶりとなる城館探訪を再開。
幸いいまのところ花粉アレルギーは小康状態を維持。
今日などは山火事と間違えそうなくらいまでに飛散した花粉で山並みが霞み、また履いていたトレッキングシューズの色は本来ならばダークグリーンのはずが、鮮やかなレモンイエローに変貌を遂げておりました。
凸西平城(群馬県富岡市) 9時30分から13時20分
比高差は約130m前後。
稜線が目前に迫ったあたりから道を誤り登攀ルート消失。
このため掴まるものとてないような斜面をジグザクに登攀。
これで本日の気力・体力の大半を消費。
肝心な遺構の方は良好な堀切が約3か所現存。
主郭南部には土塁遺構も残存。
城道が曖昧になっている部分が多く、腰郭経由のルートが追い切れず。
北側ないし東側を意識した防御構造となっていることだけは確実かと。
唯一の拠り所にしていた山崎一氏が作成されたと思われる縄張り図は、サイズが小さいこともあり等高線と遺構の書き入れが区別できないほどに不鮮明。
然も上信越道の建設により北側の一部が確実に消失。
このような事情から半ばゼロからの縄張り図作成をする羽目になり約4時間の在城を余儀なくされました。
ただし、気力・体力が枯渇してしまったために、東側の大手方面の残存遺構は全くの未確認のまま終わっています。
腰郭の上り下りを4回以上繰り返したため実質比高差200m以上に相当するのかもしれません。
なお、下山の時点では事前の足回りのテーピングが効果を発揮し、マメやクツヅレは皆無でありましたが、早くも右膝と両足首が疲労の限界に。
凸岩染城(群馬県富岡市) 13時30分から15時20分
前の1か所だけで帰還してのんびりと富岡市の図書館で資料調べをとも思いましたが、目指す目的地はすぐ目の前の小丘陵で比高差は実質的には50m前後かと。
北東方向からアプローチを試みましたが、丘陵地帯の北西部を中心に大がかりな耕地整備が行われたために稜線そのものが消失しておりました。
それでも城域の北限と推定された畑の端の斜面へと取り付き南西へ。
3か所の堀切のうち、北東側のものは耕地整備により消失。
残りの2か所も奇異な印象が拭えない後世の地形改変があるようにも。
そうしたなかで主郭小口手前の石積みは小規模ながらも城郭の面影を伝える要素となっておりました。
結果的に当初の予定通りに2か所を巡ることとなりましたが、右足踵の骨棘の痛みは別としても左足のテーピングにはさらに工夫が必要なようです。
還暦を過ぎ気力体力低下は愈々隠しようもなく、1日あたりの行程としては山城は2か所以内で比高差は200m前後までというガイドラインが設置された日ともなったようです(苦笑)
事実車を止めさせていただいた額田公民館までの1kmほどの道程が実際の距離以上に長~く感じられました。