本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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二ツ山城の再調査のため先月30日に続いて富岡市へ
前回の経験からストック、ヘルメット、ゴーグル+αという装備に変更

藤田城(富岡市) 10時00分から10時25分

二ツ山城への経路のため必然的に通過。
そのついでに堀切跡と南尾根腰郭並びに削平地(戦後の植林等に伴うものか)を確認。


二ツ山城(富岡市) 10時35分から13時10分

前回は消化不良気味に終始したので、再訪にあたり地形図を詳細にチェック...したはず。
しかしその結果は捗々しいとはいえず。
乏しい成果の内訳は、前回の地形の北西に続く「堀切1条」(下記画像)と「削平地」(8m×25mほどの郭状の地形)だけでした。

二ツ山城の堀切
二ツ山城の堀切

今後における気力・体力を勘案すると、この先3度目の調査は無いものと思い、標高約550mの「二ツ山」そのものの山頂部自体も確認しましたが、山崎一氏作成の縄張図に相当する地形はとうとう見出せませんでした。
都合2回の調査結果を概念図に表しますと、完全に2か所の遺構群に分かれてしまうことから益々同氏の縄張図(単郭、腰郭)からは遊離していくのであります。
ことによると、「中世城館報告書」の編纂過程で何らかの齟齬があったというのも一つの見方なのかとも。
こうした点については藤岡市の三ツ山城に酷似しているようにも。

未だ日差しは高く、風もなく穏やかな日和。
日没まではたっぷり時間があったものの、急斜面を連続して上り下りしたことにより足回りが限界に。
このため以上2か所の再訪のみに。

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あ、飲食店の掲示ではありませぬ。
先月30日に訪れた富岡市の二ツ山城の話題です。
その後、関係資料を精査して所在地を推定。
「中世城館報告書」に記された位置からは、さらに北西に400mほどすすんだ地点に所在する標高550mピーク付近が如何にも怪しそう。
等高線の形状、複数の腰郭の位置と方向などから見る限りではまず間違いがなく。

いままで山城分野については所在地の推定を誤った経験はほぼ皆無。
そういう意味では群生する棘に行動を阻まれたとはいえ、今回の一件はかなりの恥辱なのかとも。
ただいまフル装備で再挑戦を果たそうと準備中。
ただし発症中の腰痛さえ軽減されればの話ですが(汗)
現地は多少標高がありますが、棘もふくめた草木の生育環境に鑑みれば探訪可能なのは4月半ば頃までと推定を。
こうしている間に山城の季節はうつろっていくのでありましょうか。

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所用のため今月の中旬に大阪に出かける予定。
このさいなので、所用の方はとっとと済ませる方針。
即ちあわよくばと、京都市内の史跡探訪を計画。
ただし行動可能時間は新幹線の都合で約6時間前後。

絞り込んだ探訪先は左京区を中心に精選17か所。
うち城郭関係は約10か所。
移動のための時間を無視しても、1カ所当たりの時間配分は20分程度(呆笑)
瞬間移動でも行わない限り不可能なことは自明の理。
石碑だけのところは夜間巡回という選択肢ありうるが、観光地とはいってもこれは常識的に考えるとかなり怪しいかも知れない(爆)

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仕事に関連するブログは久しぶりかと。
本日3月末日付を以てようやく定年退職。
大学卒業前から勤務していたこともあり、勤続年数は38年2ヶ月に。
昔はこのあたりの線引きが、おおらかであったのかも知れず。

別段これといって感慨深いものもなく、走馬灯のようにかつての記憶が頭をよぎることもなく本日という日を迎えたのでありました。
このさい記念品や花束はその一切を辞退することとし、相当額につきましては東北地方を中心とした大地震災害の方へ寄付することといたしました。

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ようやく燃料満タン。
天候もまずまず。
加えて計画停電も中止...それにしても妙な表現かと。
かくて世間に申し訳ないと思いつつも、午前6時40分過ぎに自宅を出発。
ようやく3度目となる2011年の城館探訪。
富岡市と甘楽町境の藤田峠(標高約520m)に到着したのは9時30分頃。

藤田城(群馬県富岡市) 9時45分から10時35分頃まで

事前の情報よりも近年の林道整備などに伴いさらに主郭(推定)付近の地形が大きく改変され、遺構もある様な無い様な表現が難しい事態に。
キャンプ場にともなうハイキングルートの整備により、東側からの尾根筋のルートも山崎一氏が踏査した頃の面影は消失しておりました。
烽火台と推定されている標高631.4mの山頂部へといたるルートもなかば荒廃。


二ツ山城(同上) 10時35分頃から12時30分

所在地がいまひとつ不明確なので、藤田峠西側の藤田城からそのまま敢えて歩きやすい林道を避け足元の悪い尾根筋経由でアプローチすることに。
山頂から北西にのびる尾根筋を約280mほどすすんだ標高600m強のピークまで降下。

ここからさらに北西尾根筋へとルートをとり、直線距離にして約500m、2か所目の標高約550mのピーク付近の「城跡」へ到達。
しかし、ここも予想通り明確な城郭遺構は確認できず。
強いてそれらしいものを挙げれば幅8m×長さ約30mほどの痩せ尾根上の平坦地なのかと。
北東側にのびる腰郭風の尾根筋の位置も資料と対比するかぎりでは些か曖昧。
念のため標高544mのピークまで移動して地形を確認。
その途中土塁の様な地形と堀切のように見えなくもない自然地形などを確認するも城郭遺構と関連付けるには余りに無謀(苦笑)

踏査中は連続する棘の出現に気力・体力ともに喪失。
帰路の林道の棘にも失笑するほど。
尾根筋を誤ることは考えられないので、残る可能性としては時折あるように「中世城館報告書」に記された所在地自体に誤りがあることくらいだろうか。


大島下城(同上) 13時20分から13時35分

上記のような事情のため急遽追加で探訪。
といっても耕地化された平城跡。
現存している石塁は川原石を使用していることを除きその時代背景は不明の一言。
よく見ると南端部の宅地側にも土塁(石塁)遺構が現存。
という次第で耕地化された平城が本日の最大の収穫に。

大島下城の石塁
大島下城の石塁


やはり還暦を過ぎたからなのか、足回りの筋力が大幅に低下している模様。
加えて腰痛、右膝痛、神経痛...来年の今頃が正直怖い様な(汗)

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