本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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定年を過ぎました~
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「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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幕末の史跡についてサイト更新をしようとしたところ、自宅の蔵書では参考になりそうなものが殆どないことに気付きました。
中世や城郭関係はそれなりに揃っていますが、通史でもあったのは僅かに「日本の歴史」(1966/中央公論社)のみという侘びしさ。
当時は歴史ブームの火付け役となり一斉を風靡した名著ですが、偶々立寄ったブックオフでは105円の棚にズラリと並んでおりました。

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現在はおもに5本目の遠近両用(近距離用)を使用。
二本目の時、ほんの少しだけの間眼鏡なしでテレビが見えたような気が...
只今は特にPC作業用の場合に度が合いませぬ~
「近々」や「老眼鏡」を掛け替え、時には裸眼で何とか更新中。
かくて打ち間違えは、今やその数を知らず(汗)

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史跡間の移動時間、滞在時間などを考慮し、本来の予定を大幅に縮小変更

村井貞勝邸址 6時30分

推定地は三条通商店街のど真ん中。
無論遺構跡の痕跡などは皆無。
日中は人通りも激しいため、朝日に照らされた無人の商店街の風景を撮影。


本能寺信長廟 6時45分から7時00分まで

複数所在する信長廟のひとつで、現在の本能寺境内本堂の東側に所在。
この地を訪れたのは高校の修学旅行当時なので、たぶん43年ぶりのはず。
当時宿泊した記憶のある本能寺会館の宿泊施設も健在。
信長、信忠父子とともに討死を遂げたとされる家臣名簿を確認。

本能寺信長廟
本能寺信長廟


京都御所
 9時20分から9時45分まで

昨日に続く再訪。
今度は確実に発掘された石垣の復元遺構と対面。
下立売御門よりもひとつ南側の門跡、御苑側から見て向って右側の土塁部分に所在。
石柱にはめ込まれた説明板も所在。

足利義昭邸石垣
足利義昭邸石垣


花の御所
 9時50分から10時10分まで

足利義満の時に栄華を誇った将軍家の御所跡。
現在は理容店のある南西角に石柱が設置されているのみ。


淀古城 11時20分から11時30分

京阪本線を利用しての移動。
観光地の喧騒とは無縁の小鳥がさえずる静かな佇まい。
秀吉の側室となった淀君の産所とも。
妙教寺こじんまりとした鐘楼前には、ひっそりと城址碑が設置されておりました。


淀城 11時40分から12時00分

今回の遠征?では唯一城郭本などに掲載されているそこそこ著名な城跡。
内濠の一部と天守台などの石垣遺構が残存する城址公園。
周辺は宅地化が進み石垣自体にも各所に痛みが散見されましたが、内桝形などに近世城郭としての雰囲気は残されています。

淀城の水堀と石垣
淀城の水堀と石垣

ここで白ネコの城ネコさんと恒例の御対面。
残念ながら大坂城や山形城ほどには懐いてはくれませんでした。
とはいえ脱兎のごとく逃走もされず、石垣上の植込みの中でじっと気をころしていました。


この時点で昼食や京都駅までの往復時間を考慮し、徒歩往復6kmの勝龍寺城を計画より除外。
単独行ならばそのまま昼食抜きで歩きぬくことも考えておりましたが、同行者もありタクシーも見つからず断念。

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所用が予定よりも早く済み、2日目の午後からは京都市内の史跡を探訪。
いわゆる観光地には余り接近せずに、あくまでも概ねひたすらに石碑、石柱を求めて歩くという構図。

東本願寺
烏丸通を北上するというルートの必然から撮影をしてみたまでです。

本能寺跡 12時55分から13時05分

かの有名な事件の現場。
最も最初に訪れたかった史跡でもありました。
無論、遺構などは皆無。
また所在地も町名(元本能寺町)などからの推定の模様。
堀川高校の周囲に石柱、石碑が各1か所設置されておりました。
跡地とはいっても、著名な事件の史跡としてはやや寂しい印象がなくもなく。 

本能寺跡
本能寺跡


茶屋四朗次郎邸跡 13時15分から13時20分

徳川家康に関与した著名な京都商人の邸跡。
南蛮寺を探していたら、偶然民家の塀沿いに説明板が設置されていた。


南蛮寺跡 13時30分から13時35分

信長が庇護したイエスズ会のキリスト教寺院跡とのこと。
所在が分かりにくく、地元の方に伺っても不明だったのは想定の範囲。
通りの名称から追っていき、ようやく確認に成功。
然し肝心の石柱は自転車とバイクの陰に隠れて埋もれて...


二条御新造跡 14時55分から

織田信忠が数百名に及ぶ家臣団とともに討死を遂げた史跡。
京都国際マンガミュージアム(旧龍池小学校)の校門脇に石柱。
現在史跡であることを示しているものはこれだけらしい。
 

二条殿址
二条殿址


妙覚寺跡 15時05分から

本能寺の変当時に織田信忠の宿所となっていた日蓮宗寺院跡なのですが、現在の町名で残されている以外には往時を伝えるものは無さそうでした。


東三条院殿趾

詳細は分からねども史跡は史跡(汗)


妙顕寺城跡 15時10分から15時15分

秀吉が築いたとされる二条城東側の城跡ですが、西福寺境内の南側(押小路通)に石柱と解説板が設置されているだけです。
通りからは二条城の南東櫓も見えましたが、サクラのライトアップをしているような観光シーズン。
ある程度の混雑が予想されることから、遠くから一瞥したのみで東方向へとUターン。 

妙顕寺城跡
妙顕寺城


足利義昭邸跡 15時40分から15時45分

平安女学院北西の一角付近に石柱と解説板。
当該解説によれば東は京都御苑の敷地の一部にかかるほど広大な規模を有していたようです。
以前はフェンス越しの御対面だったようですが、現在では画像のように改善されておりました。


京都御所

足利義昭邸の復元石垣遺構を探しに行ったのですが、終始分からず仕舞いのまま(汗)
止むを得ず蛤御門へと移動し、禁門の変の戦跡見学へ。
たしかに旧式銃と思われる弾痕らしき窪みが門扉や門柱のそこここに散見。

蛤御門
蛤御門


在原業平邸跡

ボーッと信号待ちをしていたら、目の前に石柱が設置されておりました。
本日3度目ですが、それだけ歴史的な史跡の密度が高いことの現れなのでありましょう。


同行者は諸事情により途中でリタイア。
この日の歩行距離は凡そ約20kmほど。
2年ほど前の頃に比べて、膝ベルトの未装着も影響したのか愈々足回りの方は確実に衰えが...
史跡の所在地の特定と移動に予想以上の時間を消費することが判明。
このため翌日の予定を大きく変更することを余儀なくされました。

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手持ちの資料には食用・薬用として記されているノゲシ(キク科、別名をハルノノゲシとも)の若葉。
自宅のに葉には例年になく豊作(草むしりをサボっているだけ)
なお生でも食べられるとありますが、流石に苦みがきつすぎて敬遠(家内が実験台)
よく水で晒して昨日、本日とあくまでもほんの少量ですが、其々塩茹でとバター炒めで食べてみました。
予めよくゆでた後に水で晒せばさらに苦みが消えそうです。
黄緑色の新しい葉ならばどちらの調理法でもそこそこ味わえることを実体験してみました。

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