本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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表題の通り半年ぶりのブログ更新である。
昨年の8月以降原因不明の「眩暈」「腹部膨満感」「便秘」「息切れ」「胃もたれ」などの様々な症状を伴う体調不良が続いていた。
さらにここ2、3か月についていえば「食欲」が極端に低下していた。
今回の入院と手術により、それら症状の大半がこの疾患によるものであることが朧気ながら見えてきたようにも思えるのである。
最終的な病理診断は今月半ば以降になされるようなのだが、退院通知にも記載されているように手術により「寛解」(オペ前でのフェーズは限りなく4に近い3か?)状態とされてはいる。
「寛解」といえば、例の「悪性新生物(所謂癌)」ではあるのだが、リンパ節を経由した「転移」の可能性も無くは無く、いよいよ「余命」というものと真摯に向き合わざるを得ない局面でもある。
そうはいっても、あと数か月というような「余命宣告」が為されたわけでもなく、ここ暫くは非常に曖昧な感覚でのリハビリの日を送ることとなるようにも思えるのである。
尤も退院2日目の今日は、確定申告書を2通仕上げて他に古い不要な書類の整理を行い、退院後の食事制限は特にないことから、昼食は近くの回転ずしにて寿司7巻を食するまで回復はしてきているのである。
先月21日の緊急入院から2週間目の本日、漸くめでたく退院の日を迎えることとなった。
少額の差額室料を伴うものではあったが、病院への支払総額は約8万円ほどであったことから、加入していた医療保険の請求により十分に賄える程度となった。
2週間の入院経験では、医師を始めとした看護師さんほかの医療スタッフ皆さんの活動を間近に感じ取ることができ、改めてその献身的な業務姿勢に心を打たれることとなった。
この日は時折術後の「疼痛」が顔を覗かせていたため余り歩行動作も儘ならず、帰宅の途中で立ち寄った地元のスーパーでは10歩歩くと一休みというような按配でこの先のリハビリの重要性を痛感した。
この1か月ほどの間に合計11キログラム近く減じた体重(約13%減)、皮下脂肪も減少している一方で筋肉はもっと減じてしまっている。
特に脹脛では外周約45cmから32cmまで減少している。
これは正に「フレイル」そのものであろう。
※2024年3月6日記述
少額の差額室料を伴うものではあったが、病院への支払総額は約8万円ほどであったことから、加入していた医療保険の請求により十分に賄える程度となった。
2週間の入院経験では、医師を始めとした看護師さんほかの医療スタッフ皆さんの活動を間近に感じ取ることができ、改めてその献身的な業務姿勢に心を打たれることとなった。
この日は時折術後の「疼痛」が顔を覗かせていたため余り歩行動作も儘ならず、帰宅の途中で立ち寄った地元のスーパーでは10歩歩くと一休みというような按配でこの先のリハビリの重要性を痛感した。
この1か月ほどの間に合計11キログラム近く減じた体重(約13%減)、皮下脂肪も減少している一方で筋肉はもっと減じてしまっている。
特に脹脛では外周約45cmから32cmまで減少している。
これは正に「フレイル」そのものであろう。
※2024年3月6日記述
そういえばこの日は都内から当地へと転居後満60年という日であった
当時の世の中は後に高度経済成長時代と呼ばれることとなった真っただ中であったような
マイホームブームの先駆けとなる別名「都落ち」とも云われることとなった都内23区北西部からの転居であった
都内時代も一応は自宅ではあったのだが、土地に関しては所謂「地上権」のみを保有していたに過ぎず、当時の売却額は200万円程度と聞かされていたような
当初は京浜東北線南浦和駅近くの鹿手袋と呼ばれた地に転居する予定であったのだが、結果的には今後の住宅にかかる返済計画に鑑み50万円の手付金を放棄し、当地に土地建物合わせて200万円相当の不動産を取得することとなった
結果的にこの折の判断は正解であり、のちにこの地は京浜東北線と後年に開通した武蔵野線と貨物線に周囲を取り囲まれた住環境としては余り相応しくはない地帯となってしまったのである
転居もオート三輪2台に家族4人とともに家財道具が積載され、脳裏今でもには足元のステップの間からアスファルトの舗装路面が直に見えていたというどうでもよい光景が今でも克明に思い出される
これもまたどうでもよい話なのではあるが、数年後の後平屋から2階建てに増築された
この際にしばらくの間ではあったのだが8畳の自室からは西南の方角には霊峰富士の姿が克明に眺めることができていた
当時の「村」の人口が約6000人(現在は合併を経て約12万人)、隣の「村」(後に奉職することとなった)の人口が約4000(現在は約4万人弱)人という時代
「都民」から「県民」となり、しかも「村民」という正しく「都落ち」という刻印の代償として、小さいながらもマイホームという「楽しい我が家」を取得するに至った典型的な家族の物語でもあったのだろう
この当時は同村内には所謂「新興住宅地」なるものは他には存在していなかったという事情もあったことからなのであろうか、郵便物に地番の記載が欠落していても「〇〇村と姓名」の記載だけで配達されていたという記憶もある
なおこの年の10月には戦後経済復興の象徴でもある東京オリンピックが挙行されている
当時の世の中は後に高度経済成長時代と呼ばれることとなった真っただ中であったような
マイホームブームの先駆けとなる別名「都落ち」とも云われることとなった都内23区北西部からの転居であった
都内時代も一応は自宅ではあったのだが、土地に関しては所謂「地上権」のみを保有していたに過ぎず、当時の売却額は200万円程度と聞かされていたような
当初は京浜東北線南浦和駅近くの鹿手袋と呼ばれた地に転居する予定であったのだが、結果的には今後の住宅にかかる返済計画に鑑み50万円の手付金を放棄し、当地に土地建物合わせて200万円相当の不動産を取得することとなった
結果的にこの折の判断は正解であり、のちにこの地は京浜東北線と後年に開通した武蔵野線と貨物線に周囲を取り囲まれた住環境としては余り相応しくはない地帯となってしまったのである
転居もオート三輪2台に家族4人とともに家財道具が積載され、脳裏今でもには足元のステップの間からアスファルトの舗装路面が直に見えていたというどうでもよい光景が今でも克明に思い出される
これもまたどうでもよい話なのではあるが、数年後の後平屋から2階建てに増築された
この際にしばらくの間ではあったのだが8畳の自室からは西南の方角には霊峰富士の姿が克明に眺めることができていた
当時の「村」の人口が約6000人(現在は合併を経て約12万人)、隣の「村」(後に奉職することとなった)の人口が約4000(現在は約4万人弱)人という時代
「都民」から「県民」となり、しかも「村民」という正しく「都落ち」という刻印の代償として、小さいながらもマイホームという「楽しい我が家」を取得するに至った典型的な家族の物語でもあったのだろう
この当時は同村内には所謂「新興住宅地」なるものは他には存在していなかったという事情もあったことからなのであろうか、郵便物に地番の記載が欠落していても「〇〇村と姓名」の記載だけで配達されていたという記憶もある
なおこの年の10月には戦後経済復興の象徴でもある東京オリンピックが挙行されている