今年4回目となる9月以来の城館探訪となりました。
以前に比べればものすごく探訪頻度が減少したとはいえ、極度の目眩発症のため2012年は一度も出かけることができなかった状況に比べれば、多少は元気になったとも言えるのかも知れません。
向かうは茨城県結城市内の比高差のほとんど無い平地の城館跡。
山城方面は未だに時期尚早かつ現状体力に鑑み不向きと判断。
凸三蔵神社館 8時10分から8時40分
この地域は白菜の栽培が盛んらしく辺りの農地には白菜の畑が一面に広がっていた。
東西南北120メートルほどの方形館で、城域は西側に向かい緩斜面を形成している西仁連川東岸の河岸段丘に占地。
南側からは南北方向に伸びる神社参道沿いに平行にのびる土塁とこれに連なる南辺の土塁が目をひく。
これとは別に北側と東側の一部を中心として堀跡ならびに高さ3メートルほどの土塁が残存している。
神社社殿は比高2メートルほどの段差が認められるが、社殿造営の際に造成されたものである可能性も想定される。
田間公民館北側の方形部分は約80センチメートルほどの盛り土がなされ、かつ北辺東側には土塁の切れ目であるやや幅広な小口状の地形を認めることができるものの判断に迷う。
さらに分からないのは西側低地の人工的な池沼の存在である。
中世当時からの庭園の一部にしては館の広さに比して規模が大きすぎる。
現在でも渇水期であるにもかかわらず豊かな湧水がわき出ているらしく、枯渇している部分は極めて少ない。
凸毛呂郷代官屋敷 8時50分から9時10分
鎌倉時代末期頃からの代官屋敷跡(現住)とされている。
別名を水書氏屋敷ともいわれる山川氏に関連した居館。
北側の元ゴルフ場は森林伐採と整地がなされて、いわゆるメガソーラー発電の太陽光パネルが設置工事中であった。
このため屋敷北東にあるはずの「山の神神社」の所在が分からず。
しかし宅地周辺に生えていた竹林が伐採され屋敷を取り巻く水堀がはっきりと一望できる環境となっていた。
それほど多くの屋敷を見ているわけではないが、構え堀の規模としてけっして大きい方ではなく屋敷面積そのものは5000平方メートル前後だが水堀の幅は8メートルから10メートルはありそうに思えた。
■水野忠邦の墓所 9時40分から9時50分
付近の用水路を越える際に道を誤りいささか時間を浪費。
天保の改革で有名な水野家一族の墓所で詳細な説明版が設置されている。
大分以前に整備されたと思われる立派な水洗トイレが所在している。
凸山川綾戸城 10時から午前10時25分
結城氏の一族である山川氏の本拠地と推定されている城跡で低台地に占地。
城域は県道や市道に分断された農地と集落のなかにある。
しかし遺構らしきものは僅かに城跡中心部の一条の土塁残欠と堀跡状の地形のみ。
それでも一応は小さな城跡である旨の簡易な説明版が設置されている。
北方の農地に盛り土の形跡が認められるものの、聞き取りによれば産廃の埋立あととの由。
半世紀前にはもう少し土塁が残存していた由を別途現地にて聞く。
隣接する細長い水田はかつての堀跡のような趣を呈している。
地元旧家には自分と同姓の家名があって、ことによると自分の父方の先祖もこちらの方面から江戸初期に移住してきたというような可能性を考えてしまった。
凸山川館 10時40分から11時10分
東持寺境内が館跡。
東西約200メートル、南北150メートルの方形館で、四方に土塁と堀跡が現存している。
とりわけ北側の土塁と堀跡の遺構の保存管理状態はきわめて良好。
北西角の土塁には櫓台状の段差も認められる。
この日に探訪した城館跡の中では最も見応えのある遺構であった。
たまたま地元小学生の社会科見学が行われていた。
凸城の内館 11時35分から12時
山川館に比べると一回り小さな方形館となっている。
北辺土塁は消滅寸前で堀跡の宅地化などによりその幅は半分ほどが消滅している。
西側土塁も形状は確認できるものの遺構としての劣化が進んでいる。
南側は比較的良好に保存されているものの、草木が生い茂っているためやや見づらくなっている。
一応は整備されているのだが、経費の関係と推定されるが中途半端さが災いしているものと思われた。
凸結城城 12時30分から13時20分
北東の実城部分を中心として堀跡、切岸などが確認できるが、城域全体として宅地化されていることからその全容を探ることは難しくなっているようである。
なお、諸事情により西部、南部および内堀跡の踏査はしていない。
城跡となる低台地の比高は5メートル前後であるが、少なくとも中世までは周囲は沼沢地であったものと考えられており南西側の一部を除いて天然の要害を形成していたことが窺えるようである。
歴史上著名な結城合戦の舞台ではあるが、往事の城域については遙かに狭隘であったことが推定されるが、とはいえ現在の遺構から類推することは難しそうであった。
凸結城長塁 13時40分から14時15分
まずは東側の直線土塁の方を東側の農地伝いに徒歩にて探訪。
民家北側の竹林内に高さ1メートル以上の土塁およびこれにともなう堀跡を確認できた。
西側の鷲神社境内に隣接した二重土塁もどうにか健在であった。
これらの遺構は本来は一続きのものとして考えられているが、すでに真言宗薬王寺以東の遺構が消失しているため即座には実感しづらい状況であったが、たしかに一直線上に存在していたことは視認できた。
いずれにしても、東の田川と西の江川を結ぶ結城城北辺の防御を担うための防御線(陣城)のような存在であったのかも知れない。
この時点で7城館と1史跡探訪。
時刻も未だ午後2時半前で、日没まではまだまだ2時間以上の余裕。
南方の八千代町方面へと移動することも予定してはいましたが、夕刻からの天候の変化、足回りの疲労度、ならびに市立図書館へ立ち寄る予定等も勘案して本日の城館探訪は終了に。
そこそこ歳もいっているので、このあたりがと妥当な年代となってきた模様。
歩行距離はわずかに12キロメートルに届かず。
いまのところ踵の痛み防止のため中敷きの効果はまあまあ。
しかし探訪時に使用する靴については再考した方がよさそうな塩梅。
税別1800円
東京都内の地名を題材にしてその地名の語源、由来を推察する論考である。
山手線の駅名にはじまり都心部、中央線の一部、下町、旧武蔵野地域、奥多摩、伊豆・小笠原諸島などの地名の成り立ちについて論究している。その手法は角川書店「日本地名大辞典 東京都」をベースに「大日本地名辞書」「地名の研究」(柳田國男)を引用しつつも、著者の長年にわたる研鑽に基づき独自の比較対照による解析を行った力作である。
阿須和、百目鬼、垣内(カイト)、上荒久、ハケ上、根古屋などの地名についての論究もありがたい。
その分野からはいくぶん専門領域における研究書というような趣があるものの、地名が有する豊かな歴史、文化、民俗の側面がわかりやすく著述され一般的な読み物としても十分に通用する構成となっている。
地名は音にはじまり、次第に転訛し、美称を含めてさまざまな漢字を充て地名の持つ本来の字義から遠ざかっていくという事例について、先人の事績に学びつつ民俗学等の手法を用いて解明していく過程はおおいに興味深いものを感じさせるものがある。
地名の成り立ちに関して「安易なアイヌ語、朝鮮語語源説を否定する見解」についてはもう少し著者の見解を披瀝して欲しいところだが、これについては別書である「日本の地名」2011年 (河出書房新社 刊)を参照すれば補える模様である。
なお余談ながら地名辞書代わりに使用する場合においては、巻末の参考文献一覧、引用文献一覧とあわせ掲載地名の索引が欲しいところではあるがこの価格では難しいのかも知れない。
著者は元共同通信社勤務で、従来の学術団体には帰属しないフリーの民俗学・地名研究者である。
気がつくと前回から早4年もの歳月が流れてしまいましたが、タチアオイから3位までの順位に変動はありませんでした。
アクセス件数は2014年10月25日午後11時45分現在のものです。
この間の更新は皆無に近く、またGoogleなどの検索エンジンのサーチ方式が大きく変更されたことによりアクセス件数に大きなブレーキがかかったように見受けられます。
なおこの間に追加した植物は最近の6件のみとなっております。
ヒマワリは長期低落が止まりませんが、11位以下の次点は秋桜の3090アクセスなので当分この順位に大きな変動は無さそうに思われます。
その一方でオリズルランの健闘が目立ちます。これは栽培方法が詳述されていることによる影響が大きいものと考えられています。
タチアオイ 1位 25910
アジサイ 2位 15288
ムクゲ 3位 13550
コブシ 4 位 9372
ゴマ 5 位 8856
ハクモクレン 6位 7940
ヒマワリ 7位 6905
オリズルラン 8位 6237
オオイヌフグリ 9位 5219
ゼブリナ 10位 4827