本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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先月14日以来、久しぶりの訪城。
天気は、暑くも無く寒くも無く中世城館跡の散策には絶好の日和。
体調については顔面と左半身の痺れが強く、相変わらずの過呼吸症状。
然し概ね歩行自体そのものには支障が無さそうなので、川島町の再訪を手始めに白岡町へと彷徨。
凸上伊草堀ノ内(川島町)午前10時25分~11時10分
前回は事前調査不足のため、その推定所在地について本来の堀ノ内から南側約150m地点付近あたりだと完全に誤解。
その後、川島町関係の資料からその明らかな誤りに気づき再訪。
確かに旧家の趣を伝える長方形の屋敷の地形がそのまま残された1画が
現存。
現在国道254バイパス沿いに建設途上の大型ショッピングセンターの丁度後ろ側となる場所。
東西方向で約200m、南北方向で約100mから150mほどの規模。
東側の幅2間、深さ1mの用水路はその位置から堀跡の様相。
南側の用水路はコンクリートの蓋で暗渠となっているものの、こちらも同様に堀跡の可能性が。
北側と西側には堀跡の形跡を辿ることのできるような要素があまり見られず、わずかに西側の南端部分の低地にその名残が。
また、北側の道路から50mほど南側に幅1mほどのコンクリート製の用水路が現存するも堀跡との関係は不明。
上伊草堀ノ内の西側付近2006/10/13 撮影
前回訪れたときに水流のきれいな個所に鯉が放流され元気に回遊。
しかし館跡の東側の堀跡はさほどきれいな状態ではなく、透明度50センチほどの水質であるにも拘わらず、体調40センチから50センチの鯉が悠々と遊泳中。
そういえば牛舎からの排水の臭気が気になる深谷市の城館跡の澱んだ水路でも大層元気に跳ね回っていたことが脳裏に浮上。
凸道祖土氏館(川島町)午前11時20分~11時55分
白岡町方面に向かうにあたり目の前を通過することと、前回の訪城時に北側の堀跡の状況を十分に把握していないことなどもあり再訪。
先日まで長雨や大雨のあった関係で東側の堀跡の水量は特に豊富で、構堀としての規模の大きさを改めて実感。
北側の堀跡(用水路)はだいぶ狭く埋まりかけている印象ですが、少なくとも50m以上は続いていることを確認。
しかし、そこから先は雑草が蔓延り足元に不安等もあり自粛を。
なお、幅1.5m弱の用水路を渡る時に何とか飛び越えることに成功。
膝その他の足回りに弱点の多い小生としては、人気の全く無い雑草の生茂る水田跡で思わずガッツポーズ。
道祖土氏館東側の水堀
2006/10/13 撮影
凸南条氏陣屋(白岡町)午後13時~13時10分
大崎村から慶長12年(1611)に分村した新田で、大番を勤めた旗本南条氏の近世初期の陣屋址と推定されている個所。
現在は南彩農協の大山支店の倉庫・事務所などが所在しその面影は全く無し。
加えて農協の支店も閉鎖されている様子で侘びしさがつのる光景。
隣の商店の自動販売機に挟まれて全く目立たず、空き缶置き場としか見えない郵便ポストの風景も郵政事業の将来を暗示するような印象。
町立大山小学校の校門前の橋の名称に「陣屋前橋」と記されていたので取り敢えず記念撮影。
小学校の敷地内に併設されている町立民俗資料館は休館日のため入館できず。
南条氏陣屋
2006/10/13 撮影
凸北鬼窪氏館(白岡町)午後13時20分から13時50分
「白岡町史」などによれば、篠津の久伊豆神社(浅間神社)が北鬼窪氏の館跡の候補地の一つと想定されているとのこと。
本殿の向かって左側には高さ3mほどの浅間塚が築かれ浅間神社が鎮座。
明治末期の合祀を反映してか諏訪神社などの摂社、末社が10社ほど所在。
以降らしきものは、強いていえば本殿の右奥に土塁にも見えなくも無いような高さ約1mから1.2m、長さにして20mほどの盛り土が所在。
杉木の根の状態から見る限り、ある程度古そうなもののようにも思えるものの、どう見ても鎌倉初期まで遡及できるような古さを感じさせません。
どう古くても戦国期のものか、近世以降のものであるような印象が。
北鬼窪氏館
2006/10/13 撮影
凸諏訪山館(白岡町)午後14時15分~14時30分
目指す方向は東武どうぶつ公園の北西の端。
フェンスに遮られて立ち入りができないかと懸念していたものの、諏訪神社の境内地なので集落からの道を辿り無事到着。
東側には乗馬クラブが、西側に関係の駐車場に挟まれた細長い境内で人気は全くなし。
小高い丘陵を想定していたものの、南側に向かって緩く傾斜のかかる地形。
東武どうぶつ公園の建設に伴い周辺の環境が大きく改変されているものと考えられ、当然遺構のような存在は確認できず。
2本の大杉の存在が、この地の歴史の古さを伝えているのみ。
しいていえば神社に向かって右側に僅かばかりの地面の盛り上がりと、左奥に雨水の流路のような浅い溝が遺されているものの、中世城館の遺構に結びつけるのにはやや強引な印象。
諏訪山館
2006/10/13 撮影
凸丸山城(白岡町)午後14時40分~14時55分
「埼玉の中世城館跡」などでは、漠然と鎌倉期の遺構とされているもののその詳細は不詳。
折りよく梨園の農作業をされていた地元の方に、「丸山」の地名の範囲を伺えたのが最大の収穫かと。
遺構らしき存在は耕地整理のために現存せず、ためしに西側の比高差5メートルほどの台地の麓から高台となっている風景を展望したところ、紅白に塗装された送電線が屹立。
このため送電線の存在が目立たない個所まで接近して台地を撮影。
また、丸山と呼ばれている地域は北側方向にも緩やかな傾斜を確認、台地の中でも全体として微高地を形成している様子。
丸山城2006/10/13 撮影
凸太田陣屋(白岡町)午後15時00分から16時00分
まずは目印となる大田神社へ。
しかし、遺構の所在していたのはこの場所ではなく北側の住宅地の間の平地林部分。
事前の予想通り延長100m弱の堀跡は立木付き、一部砂利敷きの駐車場に変わり完全に消滅しているという印象...と書いていると、意図も簡単に「堀跡の跡」の所在地を確認したように聞こえるが、実はその間30分近くは該当地を求めて方向していたのが実情。
太田神社の周囲にも何やら地面の盛り上がりが確認できるものの委細不明。
太田陣屋
2006/10/13 撮影
本日は気力・体力欠乏症の小生としては、珍しくも都合7ヶ所を回遊。
白岡方面は全く初めてなのでほぼ土地勘ゼロ。
加えて元来の方向音痴。
それでも道路地図などを手がかりに、何とか目的地周辺に辿り着けるようになったのは、試行錯誤の連続そのものである経験の積み重ねに相違ないものと自負。
事前の予想では低地部分が多いものと思っていたものの、名称のとおり白岡台地と呼ばれる低位台地が点在し、微高地に広がる低地林も目立つ予想外の地形。
確たる成果はあるような、ないような。
それでも一応は推定所在地を確認し、心地良い疲れと充実感を味わえたことだけでも意義のあることかと思う次第なのでありました。
天気は、暑くも無く寒くも無く中世城館跡の散策には絶好の日和。
体調については顔面と左半身の痺れが強く、相変わらずの過呼吸症状。
然し概ね歩行自体そのものには支障が無さそうなので、川島町の再訪を手始めに白岡町へと彷徨。
凸上伊草堀ノ内(川島町)午前10時25分~11時10分
前回は事前調査不足のため、その推定所在地について本来の堀ノ内から南側約150m地点付近あたりだと完全に誤解。
その後、川島町関係の資料からその明らかな誤りに気づき再訪。
確かに旧家の趣を伝える長方形の屋敷の地形がそのまま残された1画が
現存。
現在国道254バイパス沿いに建設途上の大型ショッピングセンターの丁度後ろ側となる場所。
東西方向で約200m、南北方向で約100mから150mほどの規模。
東側の幅2間、深さ1mの用水路はその位置から堀跡の様相。
南側の用水路はコンクリートの蓋で暗渠となっているものの、こちらも同様に堀跡の可能性が。
北側と西側には堀跡の形跡を辿ることのできるような要素があまり見られず、わずかに西側の南端部分の低地にその名残が。
また、北側の道路から50mほど南側に幅1mほどのコンクリート製の用水路が現存するも堀跡との関係は不明。
前回訪れたときに水流のきれいな個所に鯉が放流され元気に回遊。
しかし館跡の東側の堀跡はさほどきれいな状態ではなく、透明度50センチほどの水質であるにも拘わらず、体調40センチから50センチの鯉が悠々と遊泳中。
そういえば牛舎からの排水の臭気が気になる深谷市の城館跡の澱んだ水路でも大層元気に跳ね回っていたことが脳裏に浮上。
凸道祖土氏館(川島町)午前11時20分~11時55分
白岡町方面に向かうにあたり目の前を通過することと、前回の訪城時に北側の堀跡の状況を十分に把握していないことなどもあり再訪。
先日まで長雨や大雨のあった関係で東側の堀跡の水量は特に豊富で、構堀としての規模の大きさを改めて実感。
北側の堀跡(用水路)はだいぶ狭く埋まりかけている印象ですが、少なくとも50m以上は続いていることを確認。
しかし、そこから先は雑草が蔓延り足元に不安等もあり自粛を。
なお、幅1.5m弱の用水路を渡る時に何とか飛び越えることに成功。
膝その他の足回りに弱点の多い小生としては、人気の全く無い雑草の生茂る水田跡で思わずガッツポーズ。
道祖土氏館東側の水堀
2006/10/13 撮影
凸南条氏陣屋(白岡町)午後13時~13時10分
大崎村から慶長12年(1611)に分村した新田で、大番を勤めた旗本南条氏の近世初期の陣屋址と推定されている個所。
現在は南彩農協の大山支店の倉庫・事務所などが所在しその面影は全く無し。
加えて農協の支店も閉鎖されている様子で侘びしさがつのる光景。
隣の商店の自動販売機に挟まれて全く目立たず、空き缶置き場としか見えない郵便ポストの風景も郵政事業の将来を暗示するような印象。
町立大山小学校の校門前の橋の名称に「陣屋前橋」と記されていたので取り敢えず記念撮影。
小学校の敷地内に併設されている町立民俗資料館は休館日のため入館できず。
南条氏陣屋
2006/10/13 撮影
凸北鬼窪氏館(白岡町)午後13時20分から13時50分
「白岡町史」などによれば、篠津の久伊豆神社(浅間神社)が北鬼窪氏の館跡の候補地の一つと想定されているとのこと。
本殿の向かって左側には高さ3mほどの浅間塚が築かれ浅間神社が鎮座。
明治末期の合祀を反映してか諏訪神社などの摂社、末社が10社ほど所在。
以降らしきものは、強いていえば本殿の右奥に土塁にも見えなくも無いような高さ約1mから1.2m、長さにして20mほどの盛り土が所在。
杉木の根の状態から見る限り、ある程度古そうなもののようにも思えるものの、どう見ても鎌倉初期まで遡及できるような古さを感じさせません。
どう古くても戦国期のものか、近世以降のものであるような印象が。
北鬼窪氏館
2006/10/13 撮影
凸諏訪山館(白岡町)午後14時15分~14時30分
目指す方向は東武どうぶつ公園の北西の端。
フェンスに遮られて立ち入りができないかと懸念していたものの、諏訪神社の境内地なので集落からの道を辿り無事到着。
東側には乗馬クラブが、西側に関係の駐車場に挟まれた細長い境内で人気は全くなし。
小高い丘陵を想定していたものの、南側に向かって緩く傾斜のかかる地形。
東武どうぶつ公園の建設に伴い周辺の環境が大きく改変されているものと考えられ、当然遺構のような存在は確認できず。
2本の大杉の存在が、この地の歴史の古さを伝えているのみ。
しいていえば神社に向かって右側に僅かばかりの地面の盛り上がりと、左奥に雨水の流路のような浅い溝が遺されているものの、中世城館の遺構に結びつけるのにはやや強引な印象。
諏訪山館
2006/10/13 撮影
凸丸山城(白岡町)午後14時40分~14時55分
「埼玉の中世城館跡」などでは、漠然と鎌倉期の遺構とされているもののその詳細は不詳。
折りよく梨園の農作業をされていた地元の方に、「丸山」の地名の範囲を伺えたのが最大の収穫かと。
遺構らしき存在は耕地整理のために現存せず、ためしに西側の比高差5メートルほどの台地の麓から高台となっている風景を展望したところ、紅白に塗装された送電線が屹立。
このため送電線の存在が目立たない個所まで接近して台地を撮影。
また、丸山と呼ばれている地域は北側方向にも緩やかな傾斜を確認、台地の中でも全体として微高地を形成している様子。
凸太田陣屋(白岡町)午後15時00分から16時00分
まずは目印となる大田神社へ。
しかし、遺構の所在していたのはこの場所ではなく北側の住宅地の間の平地林部分。
事前の予想通り延長100m弱の堀跡は立木付き、一部砂利敷きの駐車場に変わり完全に消滅しているという印象...と書いていると、意図も簡単に「堀跡の跡」の所在地を確認したように聞こえるが、実はその間30分近くは該当地を求めて方向していたのが実情。
太田神社の周囲にも何やら地面の盛り上がりが確認できるものの委細不明。
太田陣屋
2006/10/13 撮影
本日は気力・体力欠乏症の小生としては、珍しくも都合7ヶ所を回遊。
白岡方面は全く初めてなのでほぼ土地勘ゼロ。
加えて元来の方向音痴。
それでも道路地図などを手がかりに、何とか目的地周辺に辿り着けるようになったのは、試行錯誤の連続そのものである経験の積み重ねに相違ないものと自負。
事前の予想では低地部分が多いものと思っていたものの、名称のとおり白岡台地と呼ばれる低位台地が点在し、微高地に広がる低地林も目立つ予想外の地形。
確たる成果はあるような、ないような。
それでも一応は推定所在地を確認し、心地良い疲れと充実感を味わえたことだけでも意義のあることかと思う次第なのでありました。
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