本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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川島町「上伊草堀の内」の所在地を、何時ものことながらものの見事に勘違い。
この上井草地域は戦後に治水対策が完備するまでは、越辺川の洪水などの水害に度々見舞われた結果としての肥沃な水田地帯で、また至るところにかつての堀跡のような用水路が所在しているためなど...貧弱な経験を頼りにして見苦しい言い訳。
自分の勘違いを気づいたきっかけは「道祖土氏」の存在。
その「道祖土氏館」について纏めようと「川島町史 資料編 古代・中世」(2002/川島町)をの中世のページをじっくりと調べていると、何と471ページに地租改正後の明治13年に作成された「道祖土氏屋敷図」が掲載されていることを発見。
元来が資料編のため内容の殆どが古文書と板碑関係。
このためかなり辟易しながら眺めていたこともあり、その意外な展開に欣喜雀躍。
訪城時に撮影した堀跡もその形状とともに明確に記されていました。
実を言うと、A4サイズ2段組み845ページ、総重量2.14kgという分量に圧倒され、事前に良く見ていなかっただけのことですが(汗)
しかし26点の古文書が伝わる道祖土家文書の全文を逐次確認していると、586ページに「上伊草堀の内」の屋敷周辺図が掲載されているのに出くわしました。
小生が「川島町の地名」(1999/川島町)、ゼンリンのウェブ地図と国土地理院の2万5千分の1の地形図から推定した場所とは明らかに異なり、無常にも200mほど北側の旧家の辺りを示していました。
今でも、できることなら見落とすべきだったと後悔(笑)
小字としての地名と「堀の内」と推定される所在地にの間には、どうやら微妙なズレが存在していたようです。(明らかに言訳)
こうなると、もう意地でも「堀の内」は複数個所存在していたと言い張りたい所。
しかし歴史の改竄が許される筈も無く...どうやら、この画像の手前約150m付近一帯が本来の「堀の内」の所在地のようです。
「掲載図」の一覧(目次)があれば、直ぐに気が付いたのですが、、、などと再び言い訳を。
この上井草地域は戦後に治水対策が完備するまでは、越辺川の洪水などの水害に度々見舞われた結果としての肥沃な水田地帯で、また至るところにかつての堀跡のような用水路が所在しているためなど...貧弱な経験を頼りにして見苦しい言い訳。
自分の勘違いを気づいたきっかけは「道祖土氏」の存在。
その「道祖土氏館」について纏めようと「川島町史 資料編 古代・中世」(2002/川島町)をの中世のページをじっくりと調べていると、何と471ページに地租改正後の明治13年に作成された「道祖土氏屋敷図」が掲載されていることを発見。
元来が資料編のため内容の殆どが古文書と板碑関係。
このためかなり辟易しながら眺めていたこともあり、その意外な展開に欣喜雀躍。
訪城時に撮影した堀跡もその形状とともに明確に記されていました。
実を言うと、A4サイズ2段組み845ページ、総重量2.14kgという分量に圧倒され、事前に良く見ていなかっただけのことですが(汗)
しかし26点の古文書が伝わる道祖土家文書の全文を逐次確認していると、586ページに「上伊草堀の内」の屋敷周辺図が掲載されているのに出くわしました。
小生が「川島町の地名」(1999/川島町)、ゼンリンのウェブ地図と国土地理院の2万5千分の1の地形図から推定した場所とは明らかに異なり、無常にも200mほど北側の旧家の辺りを示していました。
今でも、できることなら見落とすべきだったと後悔(笑)
小字としての地名と「堀の内」と推定される所在地にの間には、どうやら微妙なズレが存在していたようです。(明らかに言訳)
こうなると、もう意地でも「堀の内」は複数個所存在していたと言い張りたい所。
しかし歴史の改竄が許される筈も無く...どうやら、この画像の手前約150m付近一帯が本来の「堀の内」の所在地のようです。
「掲載図」の一覧(目次)があれば、直ぐに気が付いたのですが、、、などと再び言い訳を。
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