本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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本日も利根川越え。
利根川に架かる芽吹橋の渋滞等を避けるべく午前5時の出発。
目的地は茨城県筑波郡旧伊奈町(現つくばみらい市)
早い話が6年前に亡くなった父親の生地。
このため旧谷和原村等を含めて親類が各所に。
凸小張城 (茨城県つくばみらい市、以下同様) 7時00分から8時25分
■愛宕神社の土塁
推定されている本来の小張城からは北東方向に400mほど離れた台地の南端部に所在。
伊奈台地自体もさほどの比高差がある訳でもなく、この個所の比高差もその麓から凡そ6mほど。
土塁遺構は愛宕神社東側で南北方向に延長約50mほどの規模。
高さはおよそ1.5mで、北側部分に小口状の切れ目を確認できるもののその詳細は不明。
町史によれば小張城に関連する屋敷跡と推定されております。
近世初期に松下氏の小張藩がおかれていた時期もあることから、これに関連した遺構なのかもしれず。
■山王台
愛宕神社の土塁遺構が所在する台地の西側約200mに所在しています。
同町史の記述によれば小張城の推定所在地の一つとして紹介されている台地。
愛宕神社の台地との間には水路が流れ地形を分断。
麓からの比高差はおよそ5mほど。
現況は台地続きの平坦な畑の南端部で表面観察からは遺構の確認は不可能。
■鹿島神社の土塁
小張の集落が所在する台地の北端で山王台とは真向いの位置関係。
神社東側に南北方向に侵食谷が大きく入り込み、谷縁から西側50mほどの位置に土塁が南北方向にのびています。
しかし、愛宕山の土塁遺構に比べ耕地化、宅地化などにより地形の改変が顕著。
また道路、畑等の区画からは見て、本来は200mほどの長さがあったのではないかとも推定されます。
■小張城
町史によれば市立小張小学校付近の台地を城跡の最有力地として推定しています。
尤もその場合には戦国時代の城主とされる岡見氏の臣只越(ただこし)氏、天正年間に城を攻略した多賀谷氏或は近世初期の松下氏の小張藩との関わりを整理する必要がでてきますが、その辺りについては町史でも明確には言及していません。
確かに南側から見上げた小学校の台地は城跡に相応しい景観を有していますが、何といっても表面上の遺構は皆無に近いので推論の域をでるものではないようです。
凸板橋城 8時45分から9時40分
小張城推定地の東南東約1kmに所在する、通称「城山」地区が城跡とされています。
しかし当地には明確な遺構は現存せず、北側の台地続きの部分を隔する外郭の土塁が部分的に残存しています。
概ね土塁のラインに沿って公道があり、遺構状態を観察するには好都合でもあります。
城跡よりも遥かに有名なのが「板橋の不動尊」ですが、この地を訪れたのは何と半世紀ぶりのこと。
当時の寺院はもっと竹林に覆われた印象がありましたが、現在では半ば観光地のような景観に変貌しておりました。
凸三条院城 9時55分から11時25分
前の2か所に比べると更に知られていないのがこの城跡。
遠目にはきれいに伐採された浅間神社の付近を除いて、如何にも竹藪等が凄そうに見えたのでありました。
先般まとめた「藪突入基準」に基づくならば、如何にも速やかに撤退することが望まれるような外観。
しかし遺構状況は東側の土取りによる破壊を除き、郭、土塁、腰郭、空堀、小口、舟入等がその規模の大きさと相俟って大変良好な状態で現存。
竹藪そのものも南側の外見からは予想できないほど見通しも良好。
とはいえ訪問できるのは12月上旬から3月下旬かと。
遺構としての状態は取手市の高井城と同様のレベルかと。
歴史的背景が不詳とはいえ、現状保存のためにも文化財の指定が欲しいところです。
なお探索ルートは3か所ほど。
南側の用水路を渡る橋から主郭土塁へと向かうルートが最も無難。
北東角の竹藪からも入れますが、足下伐採根が残り些か危険。
舟入の北側から主郭北西へ進むルートは所々に伐採された真竹が地面と水平に残存。
「惟任日向守の最期」を彷彿とさせるものがあり、これはかなり危険かとも(冷汗)
凸三条院城南東の遺構(塙の土塁) 11時45分から12時00分
三条院城の南東約500m、伊奈東中の南東に隣接した畑の一角に高さ2mほどの段築地形が所在。
竜神を祀った最上部には小祠が所在していることから、周囲が雑草に覆われているようなこともなく観察には最適の環境。
とはいえ委細不明の渦巻型の段築遺構。
町史でも中世城館関連遺構としての可能性を示唆しているだけに過ぎすず委細不明の地形。
ことによると土浦の航空隊との関連で、戦時中の高射砲の陣地である可能性は...などとの憶測も。
尤もそれならば地元の年配の方々がご存じのはずかとも。
なお、周辺にはこれ以外にも2か所ほどの謎の段築が存在し、こちらの方はさらに不明の要素が強く...(苦笑)
凸足高の浅間山 12時30分から13時00分
足高城東側300mの水田地帯に所在。
竪堀状地形、腰郭状地形、小口状地形、土塁状地形、小口郭状地形、削平された郭状地形等が比高差10mほどの小さな独立丘陵上にひと通り存在しております。
町史でもふれているように古墳の可能性も大。
古墳を利用した足高城の物見のような砦跡である可能性も。
凸足高城 13時10分から14時30分
比較的名の知られた戦国期足高岡見氏の居城。
遺構は広範にわたるものの城跡の大半は宅地化。
また遺構は残されているものの見学不可能な物凄い竹藪もしくは宅地の内側。
ということで最も見学しやすいのが城中八幡付近に所在する土塁、空堀等の遺構かと。
空堀の深さは自然地形を含むと10m以上の規模が。
また北側の外郭付近にも明確な土塁遺構が数か所に分かれて現存。
城跡としての領域をどのように捉えるかによりその広さに大きな違いがあるようです。
凸瑞源寺館 14時40分から14時55分
その立地条件からは足高城の一部とも考えられます。
しかし足高城とは機能的にみて幾分異なるようにも思われる伊奈台地西端の方面に所在。
遺構は曹洞宗寺院境内の西側に所在する延長約40m、高さ60cmほどの低土塁のみ。
寺院特有のお供え物を地中処理する穴に伴う盛り土の方が目立つくらいの大変地味な遺構。
町史でも近世の寺院の構えによるものかと示唆しています。
相続手続き以来となる3年ぶりの訪問。
市立図書館の閉館時間には未だ3時間ほどの余裕もあり、龍ヶ崎市史等周辺の自治体史を閲覧・複写。
なお、父の七回忌供養の意味も込めて「旧伊奈町史」等を購入。
旧伊奈町役場は「つくばみらい市役所」と看板が変わったものの、築34年を経過した庁舎は些か老朽化が目立ってきたようにも。
さて父方の親類からは自分の顔つきが亡父に実によく似てきたとの言が。
つまりは典型的な旧筑波郡系の容貌で、土地柄に馴染んだ姿形ということらしく。
どおりで地元の方々と全く違和感のないコミュニケーションが成立したのであります。
元来が早口で言語不明瞭気味。
これで語尾のイントネーションを上げて、「ぺ」をつければ完全に同化できること疑いなし。
利根川に架かる芽吹橋の渋滞等を避けるべく午前5時の出発。
目的地は茨城県筑波郡旧伊奈町(現つくばみらい市)
早い話が6年前に亡くなった父親の生地。
このため旧谷和原村等を含めて親類が各所に。
凸小張城 (茨城県つくばみらい市、以下同様) 7時00分から8時25分
■愛宕神社の土塁
推定されている本来の小張城からは北東方向に400mほど離れた台地の南端部に所在。
伊奈台地自体もさほどの比高差がある訳でもなく、この個所の比高差もその麓から凡そ6mほど。
土塁遺構は愛宕神社東側で南北方向に延長約50mほどの規模。
高さはおよそ1.5mで、北側部分に小口状の切れ目を確認できるもののその詳細は不明。
町史によれば小張城に関連する屋敷跡と推定されております。
近世初期に松下氏の小張藩がおかれていた時期もあることから、これに関連した遺構なのかもしれず。
■山王台
愛宕神社の土塁遺構が所在する台地の西側約200mに所在しています。
同町史の記述によれば小張城の推定所在地の一つとして紹介されている台地。
愛宕神社の台地との間には水路が流れ地形を分断。
麓からの比高差はおよそ5mほど。
現況は台地続きの平坦な畑の南端部で表面観察からは遺構の確認は不可能。
■鹿島神社の土塁
小張の集落が所在する台地の北端で山王台とは真向いの位置関係。
神社東側に南北方向に侵食谷が大きく入り込み、谷縁から西側50mほどの位置に土塁が南北方向にのびています。
しかし、愛宕山の土塁遺構に比べ耕地化、宅地化などにより地形の改変が顕著。
また道路、畑等の区画からは見て、本来は200mほどの長さがあったのではないかとも推定されます。
■小張城
町史によれば市立小張小学校付近の台地を城跡の最有力地として推定しています。
尤もその場合には戦国時代の城主とされる岡見氏の臣只越(ただこし)氏、天正年間に城を攻略した多賀谷氏或は近世初期の松下氏の小張藩との関わりを整理する必要がでてきますが、その辺りについては町史でも明確には言及していません。
確かに南側から見上げた小学校の台地は城跡に相応しい景観を有していますが、何といっても表面上の遺構は皆無に近いので推論の域をでるものではないようです。
凸板橋城 8時45分から9時40分
小張城推定地の東南東約1kmに所在する、通称「城山」地区が城跡とされています。
しかし当地には明確な遺構は現存せず、北側の台地続きの部分を隔する外郭の土塁が部分的に残存しています。
概ね土塁のラインに沿って公道があり、遺構状態を観察するには好都合でもあります。
城跡よりも遥かに有名なのが「板橋の不動尊」ですが、この地を訪れたのは何と半世紀ぶりのこと。
当時の寺院はもっと竹林に覆われた印象がありましたが、現在では半ば観光地のような景観に変貌しておりました。
凸三条院城 9時55分から11時25分
前の2か所に比べると更に知られていないのがこの城跡。
遠目にはきれいに伐採された浅間神社の付近を除いて、如何にも竹藪等が凄そうに見えたのでありました。
先般まとめた「藪突入基準」に基づくならば、如何にも速やかに撤退することが望まれるような外観。
しかし遺構状況は東側の土取りによる破壊を除き、郭、土塁、腰郭、空堀、小口、舟入等がその規模の大きさと相俟って大変良好な状態で現存。
竹藪そのものも南側の外見からは予想できないほど見通しも良好。
とはいえ訪問できるのは12月上旬から3月下旬かと。
遺構としての状態は取手市の高井城と同様のレベルかと。
歴史的背景が不詳とはいえ、現状保存のためにも文化財の指定が欲しいところです。
なお探索ルートは3か所ほど。
南側の用水路を渡る橋から主郭土塁へと向かうルートが最も無難。
北東角の竹藪からも入れますが、足下伐採根が残り些か危険。
舟入の北側から主郭北西へ進むルートは所々に伐採された真竹が地面と水平に残存。
「惟任日向守の最期」を彷彿とさせるものがあり、これはかなり危険かとも(冷汗)
凸三条院城南東の遺構(塙の土塁) 11時45分から12時00分
三条院城の南東約500m、伊奈東中の南東に隣接した畑の一角に高さ2mほどの段築地形が所在。
竜神を祀った最上部には小祠が所在していることから、周囲が雑草に覆われているようなこともなく観察には最適の環境。
とはいえ委細不明の渦巻型の段築遺構。
町史でも中世城館関連遺構としての可能性を示唆しているだけに過ぎすず委細不明の地形。
ことによると土浦の航空隊との関連で、戦時中の高射砲の陣地である可能性は...などとの憶測も。
尤もそれならば地元の年配の方々がご存じのはずかとも。
なお、周辺にはこれ以外にも2か所ほどの謎の段築が存在し、こちらの方はさらに不明の要素が強く...(苦笑)
凸足高の浅間山 12時30分から13時00分
足高城東側300mの水田地帯に所在。
竪堀状地形、腰郭状地形、小口状地形、土塁状地形、小口郭状地形、削平された郭状地形等が比高差10mほどの小さな独立丘陵上にひと通り存在しております。
町史でもふれているように古墳の可能性も大。
古墳を利用した足高城の物見のような砦跡である可能性も。
凸足高城 13時10分から14時30分
比較的名の知られた戦国期足高岡見氏の居城。
遺構は広範にわたるものの城跡の大半は宅地化。
また遺構は残されているものの見学不可能な物凄い竹藪もしくは宅地の内側。
ということで最も見学しやすいのが城中八幡付近に所在する土塁、空堀等の遺構かと。
空堀の深さは自然地形を含むと10m以上の規模が。
また北側の外郭付近にも明確な土塁遺構が数か所に分かれて現存。
城跡としての領域をどのように捉えるかによりその広さに大きな違いがあるようです。
凸瑞源寺館 14時40分から14時55分
その立地条件からは足高城の一部とも考えられます。
しかし足高城とは機能的にみて幾分異なるようにも思われる伊奈台地西端の方面に所在。
遺構は曹洞宗寺院境内の西側に所在する延長約40m、高さ60cmほどの低土塁のみ。
寺院特有のお供え物を地中処理する穴に伴う盛り土の方が目立つくらいの大変地味な遺構。
町史でも近世の寺院の構えによるものかと示唆しています。
相続手続き以来となる3年ぶりの訪問。
市立図書館の閉館時間には未だ3時間ほどの余裕もあり、龍ヶ崎市史等周辺の自治体史を閲覧・複写。
なお、父の七回忌供養の意味も込めて「旧伊奈町史」等を購入。
旧伊奈町役場は「つくばみらい市役所」と看板が変わったものの、築34年を経過した庁舎は些か老朽化が目立ってきたようにも。
さて父方の親類からは自分の顔つきが亡父に実によく似てきたとの言が。
つまりは典型的な旧筑波郡系の容貌で、土地柄に馴染んだ姿形ということらしく。
どおりで地元の方々と全く違和感のないコミュニケーションが成立したのであります。
元来が早口で言語不明瞭気味。
これで語尾のイントネーションを上げて、「ぺ」をつければ完全に同化できること疑いなし。
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