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この日は一昨日よりも30分以上早く出発。
にも拘わらず到着時刻は全く同じ。
すなわち往路の所要時間は2時間45分以上。
つまりは往復5時間前後を要し、自宅から群馬県吉井町を一日おきに往復しているという構図。
遺構の残存状態に比して、この時間と労力は如何と自問自答を。
といって午前6時前に出発するという元気も無く(苦笑)
凸神保植松城 午前10時15分から12時
上信越道自動車道建設に伴い遺構の中心部分を含む大半が消滅したといわれている城郭。
北東の腰郭そのものは郭、切岸とも側道工事等によりほぼ消失しているという印象が濃厚。
僅かに東側から入込む谷と、かつて腰郭などが存在していた北東方向にのびる舌状台地に城跡としての名残をとどめているのかも知れず。
とはいえ以前に、儀一殿などから「高速道路南側に遺構が残存する」との貴重なる情報を思い出し。
念のため植松陸橋を南へと渡ることに。
先ず目に入るのは「への字」形の折を有する土塁。
高さは最大3m、延長60mほどの規模。
その南側に続いて深さ約1m、幅約12m、長さ40mの耕作地化された空堀跡も。
この二つの遺構を挟んで南北に郭跡と見られる削平地及び切岸も現存。
つまりは高速道路建設以前の関係資料に記された遺構のうち、少なくとも全体の4割ほどに相当する南側部分については概ね現存しているということに。
予め以前の縄張図上に高速道路の想定位置を書き込んだ前日の急造資料が役立ち、予想以上の展開は当初の予定時間を大きく上回る結果に。
凸天久沢陣城 午後12時20分から13時10分
全域が公園化されていることから藪と薮蚊には悩まされず。
主郭上のトイレもこの類のものとしては驚くほど綺麗に管理。
しかし整備されすぎたというのが正直な印象。
詰まるところ主郭周辺を除いて、その現状からはかなりの地形改変が行われた模様。
眺望自体は丘陵先端部のために尾根続きの西側を除き極めて良好。
しかし臨時の陣城としても、東西100m、南北50mの規模は余りに小さいという印象も。
また西側の尾根続きには堀切の防御が欲しいところかと。
凸天王原屋敷 午後13時15分から13時50分
上信越自動車道を挟んで天久沢陣城の北西約200mの地点に所在。
南側の一部は道路建設により消失しているとのこと。
また北側部分も現状は耕作地等のため屋敷跡としての面影は皆無
あくまでも道すがらで数合わせのような探訪とはいえ、この光景を目前にしてテンションのゲージは大きく低下。
止むを得ず天王原の陸橋上の防護策越しに「多胡下城」の遠景を撮影。
本日を含めてこの吉井方面は6回目かと。
少しはこの方面における相互の城館の位置関係が呑み込めてきたのかも。
凸矢田城 午後14時00分から午後14時30分
上信越道の側道から多分この辺りかと道路の幅員が広がりをもつ部分で車を止め現在位置の確認。
幾分度の合わなくなり始めた遠近両用眼鏡を額の上に上げ何とか焦点を合わせ資料を確認。
ふとなにげなく道路の反対側に目を転じると、屋敷林に囲まれた大きな屋敷構えの民家が。
西側の道路沿いには紛れもない空堀を前面に配した4mほどの高土塁が...
西側と北側の一部とはいえ、これだけの壮大な規模の遺構に遭遇するとは予想だにせず。
個人宅地内のため道路沿いから遺構を拝んだのち西側の郭の周囲をぐるっと一周。
そのままほぼ隣接した北側の代官所跡へ。
凸矢田代官所 午後14時30分から午後15時00分
道路沿いの西側の入口には文化財の案内標識が設置。
こちらも民家の宅地内のため、道路上から屋敷門と石積みで補強された土塁などを拝見。
資料の通り北側の裏門方面には空堀・土塁も現存。
中世末期の城郭、近世の陣屋そして近世代官所と、これだけの遺構現存するとともに近接して存在していることに驚きを禁じえないのでありました。
この日も日没にはまだ2時間近いゆとりが。
しかし僅かばかりの土塁や古墳の昇り降りの影響か、右膝に気のせいとは思えない違和感も発生。
ある程度運動せねば、足回りリハビリのみならず心肺機能維持、皮下脂肪燃焼にも悪影響。
さりとてここで無理をしても元も子もないことも事実。
一昨日と同様に、途中で早めの夕食を摂るべく速やかに帰途についたのでありました。