本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
カレンダー
10 2024/11 12
S M T W T F S
1 2
3 4 5 8 9
10 11 12 13 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
最新CM
(07/01)
(11/09)
無題(返信済)
(12/17)
(10/13)
(03/22)
最新記事
(11/14)
最新TB
プロフィール
HN:
武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
性別:
男性
職業:
定年を過ぎました~
趣味:
「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
バーコード
ブログ内検索
アーカイブ
最古記事
アクセス解析
フリーエリア
[560] [559] [558] [557] [556] [555] [554] [553] [552] [551] [550]

須賀川城 福島県須賀川市 午前8時から午前8時30分

近世の絵図などによれば、須賀川市内の市役所北側400mほどの地点に所在する二階堂神社付近が主郭跡と推定されている模様。
現地には城跡であることを示す解説版も設置され、かつ社殿には高さ2mほどの段築が施されていることからかつての城跡の残滓なのかも知れず。
しかしこれを除くと現状の地形からは市役所方面と比べ全体として比高差3mほどの微高地を形成していることがわかる程度。
主郭部分から見て東側の方も幾分微高地となっているのでかつての郭跡であるようにも思えるのであります。
何れにしても市街地のど真ん中に所在していることから、それ以上の収穫は見込まれそうにもなく。

須賀川城主郭
須賀川城主郭



越久館 福島県須賀川市 午前8時50分から10時20分

30年近く以前に刊行された「日本城郭大系」によれば小丘陵上の竹林に状態の良い遺構が所在するとの記述が。
とはいえ大分昔の調査であることと6月中旬という季節を勘案すれば、ここはひとつ所在地の確認程度で誤魔化そうなどとも。
そうはいっても寺院(無住)と神社付近だけでも確認しておこうと、取敢えず寺院の石段をヨタヨタと上へ。
確かに寺院境内なので削平されて平場には相違なく。
次に西側の一段高い神明社の平場へと移動...このとき何時もの如く右足首に激痛が。
このためやむを得ず横歩きの要領にて僅かばかりの斜面を恐る恐る登り、さらにもう一段上の物見台跡とされる平場へとどうにか移動することに成功。

前掲著によれば、この場所が最高地点との記述。
しかし、どう見ても南西側の郭の方が明らかに高いという印象が濃厚。
さらにその間には上幅10mから15m、深さ最大7mはあろうかという空堀も樹木の間から垣間見え明らかにテンションが上昇傾向に。
比高差20m足らずの小丘陵ということもあり、この際足回りのことは気にせずに薮蚊・蜘蛛の巣を払いつつ竹木が叢生する空堀跡を前進。
けれども前進を阻む倒木類を跨ぐという動作は、実に膝と足首に負担を強いるものなのでありまする。

搦手と思われる郭の切岸部分は最大8mにも及ぶ個所も所在し正に見上げるような高さ。
竹藪が濃密なため確認できない部分が多いものの、戦国期の城館跡としては驚くほどに遺構状態が良好であることに率直に感動を。
ただし前掲著の縄張図は近世の村絵図のごとく余りにも簡略で、位置関係も余り正確ではないよう模様。
冬季に再訪できる機会があれば是非とも再確認したい城館跡なのでありました。

越久館の空堀
越久館の空堀



下宿御所館 福島県須賀川市 午前10時50分から12時頃まで

「日本城郭大系」によれば、岩瀬氏との関わりが想定されるものの歴史的な背景は不明とのこと。
越久館同様に全く期待しない城館ではありましたが、時間をかけて執拗に捜索した甲斐があったのでありました。
見どころは平場ないし郭西側の大がかりな二重の土塁と堀跡。
特に内側の土塁の高さは最大8mに及ぶ個所も。
堀幅も上面で10mから15mはあろうかという規模。
なお残念ながら西端の空堀跡は宅地化などにより概ね消失したものと思われます。
また西側と南側については、この時期に安易に踏み込めるような状態からは程遠く。

2の郭とされる平場には伐採による切株が各所に点在。
北側にカーブした内側の土塁には近年削平された跡も生々しく。
この切株に腰を下ろし、近くのコンビニで購入したサンドイッチにて昼食。

尤もこの場所にたどり着くまでには、情けないことに二度も場所を間違えた上に斜面で転倒し完全に横倒しに。
それでも光量不足対策用の三脚付装備のデジカメだけはしっかりと支えておりました。
幸い体の方も左側面が斜面と平行になっただけで打撲などの症状もなく皆無。
この上体の頑丈さを足周りに分与できぬものかと思った次第なのであります。

下宿御所館
下宿御所館



星ヶ城 福島県郡山市 午後1時から1時20分

坂上田村麻呂が築いた?と伝わり、戦国期には二階堂氏に関連する城館跡とされている模様。
比定地に関する情報の入手が全く不足。
このためとりあえずは、御代田小学校北西に所在する菅布禰神社の丘陵を含む一帯と推定することに。
一応は社殿の北側を中心に切岸状地形が確認できるものの無論確信などは全く無いも同然なのであります。

星ヶ城
星ヶ城



守山城 福島県郡山市 午後1時45分から2時30分

城跡は谷田川と黒石川に挟まれた段丘上に占地し、主郭部は東側の小高い位置に所在。
近年において蒲生氏時代の野面積みの石垣が発掘調査により確認された城跡で、主郭と推定される通称城山八幡にも郭と土塁が残存。

二の郭石垣の高さは4mから5mほどで西側から南側へと回り込んでいる様子も確認できます。
また、主郭北西隅には櫓台跡のような高まりも明確に残されておりました。
三の郭と推定されている城跡の西側部分は守山小学校の校庭および民家の宅地が広がり、城域の範囲が掴みにくくなっておりました。
なお時間が許せば周辺をじっくりと歩きながら観察したいところではありましたが、この時点で既に3か所もの感動的な遺構と対峙することが叶い本日の目標はおおむね達成されたも同然。
何れ近いうちに再訪することを深く心に刻んで次の目的地へと移動。

守山城
守山城



守山陣屋 福島県郡山市 午後2時35分から2時50分

宝暦年間に水戸家の支藩として松平家2万石の陣屋がおかれたもので、当時の遺構は残存していないとのこと。
それでも陣屋跡とされる北西付近には大きく曲折した道路が残っておりました。
城下町などによく見られる道路形状ですが、そのまま関連遺構と断定するには余りにも資料不足で。
なお、地元の集会施設には葵の御紋が掲げられておりました。

守山陣屋跡
守山陣屋跡



市野関館 福島県須賀川市 午後3時55分から4時まで

水郡線川東駅南側の独立丘陵なので場所は間違えようもなく。
元々殆ど遺構が無いとのことで、あくまでも所在地の確認と遠望のみの城館。
数稼ぎとの指摘がなされれば、誠に御尤もにてございまする。
たまたま見かけた水郡線の車両と直ぐ西側を流れる阿武隈川のゆったりとした流れがとても印象的なのでありました。

市野関館
市野関館



石見館 福島県須賀川市 午後4時20分から4時30分

雨田地区の蔀久保に所在。
西側の水田面からは比高差にして35mほどの独立小丘陵。
縄張り図等からは単郭で土塁、小口が残るととのこと。
とはいえ思いのほか規模が大きく木々の緑の深さとアプローチなどの問題から、こちらも遠望するに留めましてございまする。

石見館
石見館



三城目城 福島県矢吹町 午後5時10分から5時25分

東西南北共に400mほどの規模を有することから所在地はすぐに判明。
しかも入口の道路脇には説明板までも設置されておりました。
しかし残り時間と著しい資料不足のため、ごく手前の部分畑付近を拝見するに留めました。

三城目城
三城目城



観音山館 福島県矢吹町 午後6時25分から6時50分

近くまでは直ぐに行けたものの、途中でものの見事に方向感覚を喪失し幾度も方位磁石のお世話に。
原因は二叉路を右に進んだことによるものらしく確実に30分以上のタイムロスに。

このため漸く神社の鳥居のある入口に到着した時には辺りはすでに夕やみに包まれておりました。
鬱蒼と草木が生い茂る全く人気のない林の中へ侵入する姿は普通に考えればどうみても不審者かとも。
仕事柄か歳のせいかは分からねども、暗闇と超常現象の類は全く気にならず。
ほぼ暗闇に包まれどこか重たい空気さえ感じる200mほどの曲がりくねった参道を西へ。

土橋の両側には意外なほど大きな空堀跡が残存。
あらかじめ想定していたものの三脚付でなければとても撮影不可能な暗さ。
デジカメのシャッタースピードは、ISOを800に切り替えても「0」を表示。

3の郭とされる八幡神社の辺りは幾分林が開け取敢えず参拝。
すると右手の石段がおいでおいでと手招くようにも(汗)
その手に乗って名称の語源と思われる観音堂が所在するはずの2の郭へ。
途中、草木に覆われた2の郭の南側には規模は小さいものの空堀跡の暗闇も確認。

しかしその先に所在すべき観音堂らしき建物が全く見当たらず。
そのまま雑草に覆われた2の郭を横目に坂小口を登ると三峰神社の小祠が鎮座する主郭へと到達。
この時点でほぼ日没となり、これ以上の遺構確認は困難と考え撤収開始。
帰りがけに2の郭にて建物の残骸と思しき古材の塊を発見。
位置関係からすれば、どうやらこれが「観音堂跡」である模様なのでありました。

観音山館
観音山館




このあと、耕地整理により辛うじて主郭だけがぽつんと残っているはずの「国神城」へ。
ところが元々正確な所在地を把握していないため未確認のままタイムアップ。
こうなると素泊まりの予定のため途中のエコス(スーパー)で夕食やペットボトル飲料を買い漁っていた時間が恨めしく。
とはいえ予定していた11か所のうち10か所を回れた(⇒正しくは「見た」!)ことはそれなりに評価せねば。
かくして1時間遅れでどうにか郡山のビジネスホテルへと滑り込み、またしても深更まで翌日のプランの練り直しに勤しんだのでありました(苦笑)

拍手[0回]

Comment
Name
Title
Color
Mail
URL
Comment
pass
守山城
先越されました(笑)
去年のGWに訪れる計画を立てていましたが急遽美濃~伊那に予定が変更になりそれ以来放置状態です。
見事な石垣ですね。
今年の夏休みにでも訪れたいです。

須賀川城ですが2度ほど訪れておりますがお恥ずかしい話なのですが石碑拝んでおりません(笑)
かなり探したのですがわかりませんでした。
保土原館の石碑で我慢しておりました。

ホテルの部屋に重い資料を車から運びこんでそれを眺めながら一日を振り返り
明日の予定を考える。
究極の至福のときでありますね。
これ以上贅沢な、幸せな時間はないのではないでしょうか。
史進 2008/06/21(Sat)23:41:35 編集
Re:守山城
お先に失礼をいたしました(笑)

当初は城址公園化された近世城郭のみを視野に入れておりましたが、やはり土塁と空堀の誘惑に負け戦国末期の城館跡にも手を染めましてございまする。

守山城の見所は発掘された石垣と本丸土塁が中心となりますが、、時間があれば周辺の地形も入念に観察しておくべきだったかと反省しております。

須賀川城の主郭とされる二階堂神社は、須賀川市保健センター入口の東側50m付近になります。
遺構は殆どありませんが、一応簡単な解説板と城址石碑だけはあります。
なお余談になりますが、石碑の位置は向かって左側から右側へと移転した模様です。

重い資料を抱えて...見透かされましたか(汗)
最近は仕事でもあれほど真剣に資料を眺めたことなどはなく。
とても良い思い出になりました。

なお実は万一に備え予備の一眼デジカメを別に2台、一脚も1台携行しておりました。
このため撮影可能枚数は最低でも4000枚まで対応を(爆)

今回の訪城で中通りの南半分につきましては、あくまでも大まかですが各城館跡の配置、市町村・道路等の位置関係、地形の特徴などが把握できました。
南奥は何とか端緒についたばかりかと思います。
今後の楽しみも増えましてございまする。
適切なアドバイスをありがとうございました。
【2008/06/22 22:24】
Trackback
この記事にトラックバックする: