本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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本日の午前中は、所用時間僅か2分間の説明のためだけに休日出勤の憂き目に。
説明そのものは午前11時前にはすんなりとけりがついたものの、その後事情により、職場に戻りイベントの連絡調整を急遽実施せざるを得ない破目に。
相手先とのコンタクトがなかなかつかず、結果的に体が空いたのは漸く12時半過ぎ。
さて予想外に日中は気温が上昇し始め、訪城の是非に際してやや迷いが...
それでも念のため水分補給だけは抜かりなく用意してあったこともあり、結局は先日に引き続いて予定通り川島町の城館跡へ。
目星を付けていた県道76号線の「道場橋東詰」と如何にも中世城館と関わりのありそうな信号付近のローソンにてお茶と軽食を購入して、まずは「上伊草堀ノ内」へ。
凸上伊草堀ノ内(川島町)午後1時30分から午後2時まで
越辺側の左岸地域で県道76号線の両側は元々規模の大きな用水路が存在する地域。
目当ての埼玉県信用金庫側の東側に所在する住宅の道路沿いにも用水路があちこちに。
現在でも大きく蛇行を繰り返す越辺川は、近代に入り治水対策が完備する以前には、大雨が降ると少なからず洪水が発生するといわれた水量の多い暴れ川であったという経緯があり、その後の治水対策や耕地整理により農業用水、排水路などが整備されていった模様で、東西南北方向に規模の大きな用水路が現存。
このためにひたすら目移りのしっぱなしで、「堀ノ内」の地名の語源となったと推定される堀跡の末裔となる用水路は、はてさて何処の辺りにおいでになるのやら全く見当もつかず。
ほとんどの地域が水田上の低地に宅地造成されているらしく館跡としての痕跡を辿ること自体がきわめて難しい状況。
その中で自然堤防上の微高地と推定される、現在は無住の西福寺の墓地周辺が、唯一最もそれらしい雰囲気が残されているような印象をもちました。
辺りの墓石を拝見すると「F氏」という姓がかなり目立ちましたので、この一帯の有力者階層に繋がる一族であったのかも知れません。
もっとも「堀ノ内」という地名が残るというだけで、その伝承・由来などについては全く不明なあくまでも多分に希望的城館跡推定地なのでありました。
このあと、北西に3㎞ほど車を走らせ県道76号線沿いのヤオコーに駐車させていただき、徒歩にて「中山陣屋」と隣接の「比企氏館」へ。
凸中山陣屋(川島町)午後2時05分から午後2時35分まで
中山地区の中山小学校の校庭付近が川越藩から出羽山形藩へ移封後もこの地域に6千石の所領を有していた秋元氏陣屋跡とされているようです。
校庭の周囲を一周半した限りでは陣屋址に関連しそうな堀跡などの遺構の形跡は皆無に近いような状態。
それでも北側の道路沿いの校庭の隅には、大正期に建立された「陣屋址」の石碑が所在。
尤も道路沿いとはいえ学校の正門の内側なので、一礼して敷地内に入ったのち、速やかに碑文を斜め読みしてデジカメで撮影後に即座に退散。
おりしもタイミングよく「怪しい人を見かけたら、警察や役場に連絡してください」という例の防災無線放送が流れていました。
さらに、小学校敷地の西側の戦没者の慰霊碑付近にも、見かけは実に侘しげな「秋元氏陣屋跡」と記されていたと推定される文化財標柱を発見。
あらかじめ何と記されているのかを知らないとまず読めそうもない、風化の進んだそれ自体が文化財といっても過言ではないような木製の標柱。
長年の風雨に晒され朽ち果てる寸前の、まさしく侘寂の世界を垣間見たような風合いでした。
先ほどデジカメで撮影してきた画像を拡大して、よくよく観察すると「秋元陣屋跡」と記されていた模様です。
また、陣屋の遺構とは恐らく無関係とは思われますが、小学校の東側の民家脇には構堀とも思われる堀跡風の溝が屋敷林に沿う形で所在していました。
しかし、これもよくよく考えれば畑の根切りのための溝(畦堀)かも知れません。
凸比企氏館(川島町)午後2時40分から午後3時10分まで
中山陣屋の東側に所在する金剛寺周辺の自然堤防上の微高地が「比企氏館」の跡とされています。
鎌倉初期に2代将軍頼家の外戚として大きな勢力を誇った比企氏の後裔の館跡とされている模様です。
その後戦国時代の比企左馬助政員は、岩付城主太田資正に仕えて坂戸の西光寺の所領等を安堵され比企郡代となったとされています。
さて、境内の東側には比企氏一族の近世の宝篋印塔が建立されており、加えて墓所の手前には空堀跡とも見えなくもないような深さ1.5m、幅2間、延長30メートルほどの溝も残されていました。
堀跡といえば確かに堀跡には違いないのですが、中世城館としての遺構の一部かどうかについてはややその判断に迷うところです。
その規模から考えると、頻発した越辺川の洪水などの災害から墓所を守るための溝跡のようなものにも見えてしまうのですが。
しかし、鐘楼などの建立に際して寄付をされた方々の名前が刻まれた石碑に「比企○○」の姓名を見つけたときには思わず、その歴史的な系譜に対して率直に尊敬の念を懐いてしまいました。
しかし本日は仕事先からの訪城のため、虫除けスプレーなどの用意はなく、このためものの見事に竹林の中の墓所にて薮蚊のゲリラ攻撃に晒され、何故か左手の甲だけがボコボコに刺されまくりました。
幸いにして、痒み止めだけは何故か3種類も常備していたので、この際ベタベタに塗りまくって事なきを得たのでありました。
「比企氏館」の付近に咲いていた幾分盛りを過ぎた「モミジアオイ」
2006/09/04 撮影
この日は日中は湿度はそれほど高くはなかったものの、予想以上に暑さが戻り、極めて暑さに弱い体質の自分としては僅か4km程度を彷徨していたにもかかわらず、ほぼ完璧なバテバテ状態に突入。
ここまで体力が低下しているとは自分でも茫然自失...
加えて駐車中の締め切った車中の室温は軽く摂氏60度を突破。
このためさらに一層、予定外の疲労困憊の仕儀と相成りました。
説明そのものは午前11時前にはすんなりとけりがついたものの、その後事情により、職場に戻りイベントの連絡調整を急遽実施せざるを得ない破目に。
相手先とのコンタクトがなかなかつかず、結果的に体が空いたのは漸く12時半過ぎ。
さて予想外に日中は気温が上昇し始め、訪城の是非に際してやや迷いが...
それでも念のため水分補給だけは抜かりなく用意してあったこともあり、結局は先日に引き続いて予定通り川島町の城館跡へ。
目星を付けていた県道76号線の「道場橋東詰」と如何にも中世城館と関わりのありそうな信号付近のローソンにてお茶と軽食を購入して、まずは「上伊草堀ノ内」へ。
凸上伊草堀ノ内(川島町)午後1時30分から午後2時まで
越辺側の左岸地域で県道76号線の両側は元々規模の大きな用水路が存在する地域。
目当ての埼玉県信用金庫側の東側に所在する住宅の道路沿いにも用水路があちこちに。
現在でも大きく蛇行を繰り返す越辺川は、近代に入り治水対策が完備する以前には、大雨が降ると少なからず洪水が発生するといわれた水量の多い暴れ川であったという経緯があり、その後の治水対策や耕地整理により農業用水、排水路などが整備されていった模様で、東西南北方向に規模の大きな用水路が現存。
このためにひたすら目移りのしっぱなしで、「堀ノ内」の地名の語源となったと推定される堀跡の末裔となる用水路は、はてさて何処の辺りにおいでになるのやら全く見当もつかず。
ほとんどの地域が水田上の低地に宅地造成されているらしく館跡としての痕跡を辿ること自体がきわめて難しい状況。
その中で自然堤防上の微高地と推定される、現在は無住の西福寺の墓地周辺が、唯一最もそれらしい雰囲気が残されているような印象をもちました。
辺りの墓石を拝見すると「F氏」という姓がかなり目立ちましたので、この一帯の有力者階層に繋がる一族であったのかも知れません。
もっとも「堀ノ内」という地名が残るというだけで、その伝承・由来などについては全く不明なあくまでも多分に希望的城館跡推定地なのでありました。
このあと、北西に3㎞ほど車を走らせ県道76号線沿いのヤオコーに駐車させていただき、徒歩にて「中山陣屋」と隣接の「比企氏館」へ。
凸中山陣屋(川島町)午後2時05分から午後2時35分まで
中山地区の中山小学校の校庭付近が川越藩から出羽山形藩へ移封後もこの地域に6千石の所領を有していた秋元氏陣屋跡とされているようです。
校庭の周囲を一周半した限りでは陣屋址に関連しそうな堀跡などの遺構の形跡は皆無に近いような状態。
それでも北側の道路沿いの校庭の隅には、大正期に建立された「陣屋址」の石碑が所在。
尤も道路沿いとはいえ学校の正門の内側なので、一礼して敷地内に入ったのち、速やかに碑文を斜め読みしてデジカメで撮影後に即座に退散。
おりしもタイミングよく「怪しい人を見かけたら、警察や役場に連絡してください」という例の防災無線放送が流れていました。
さらに、小学校敷地の西側の戦没者の慰霊碑付近にも、見かけは実に侘しげな「秋元氏陣屋跡」と記されていたと推定される文化財標柱を発見。
あらかじめ何と記されているのかを知らないとまず読めそうもない、風化の進んだそれ自体が文化財といっても過言ではないような木製の標柱。
長年の風雨に晒され朽ち果てる寸前の、まさしく侘寂の世界を垣間見たような風合いでした。
先ほどデジカメで撮影してきた画像を拡大して、よくよく観察すると「秋元陣屋跡」と記されていた模様です。
また、陣屋の遺構とは恐らく無関係とは思われますが、小学校の東側の民家脇には構堀とも思われる堀跡風の溝が屋敷林に沿う形で所在していました。
しかし、これもよくよく考えれば畑の根切りのための溝(畦堀)かも知れません。
凸比企氏館(川島町)午後2時40分から午後3時10分まで
中山陣屋の東側に所在する金剛寺周辺の自然堤防上の微高地が「比企氏館」の跡とされています。
鎌倉初期に2代将軍頼家の外戚として大きな勢力を誇った比企氏の後裔の館跡とされている模様です。
その後戦国時代の比企左馬助政員は、岩付城主太田資正に仕えて坂戸の西光寺の所領等を安堵され比企郡代となったとされています。
さて、境内の東側には比企氏一族の近世の宝篋印塔が建立されており、加えて墓所の手前には空堀跡とも見えなくもないような深さ1.5m、幅2間、延長30メートルほどの溝も残されていました。
堀跡といえば確かに堀跡には違いないのですが、中世城館としての遺構の一部かどうかについてはややその判断に迷うところです。
その規模から考えると、頻発した越辺川の洪水などの災害から墓所を守るための溝跡のようなものにも見えてしまうのですが。
しかし、鐘楼などの建立に際して寄付をされた方々の名前が刻まれた石碑に「比企○○」の姓名を見つけたときには思わず、その歴史的な系譜に対して率直に尊敬の念を懐いてしまいました。
しかし本日は仕事先からの訪城のため、虫除けスプレーなどの用意はなく、このためものの見事に竹林の中の墓所にて薮蚊のゲリラ攻撃に晒され、何故か左手の甲だけがボコボコに刺されまくりました。
幸いにして、痒み止めだけは何故か3種類も常備していたので、この際ベタベタに塗りまくって事なきを得たのでありました。
「比企氏館」の付近に咲いていた幾分盛りを過ぎた「モミジアオイ」
2006/09/04 撮影
この日は日中は湿度はそれほど高くはなかったものの、予想以上に暑さが戻り、極めて暑さに弱い体質の自分としては僅か4km程度を彷徨していたにもかかわらず、ほぼ完璧なバテバテ状態に突入。
ここまで体力が低下しているとは自分でも茫然自失...
加えて駐車中の締め切った車中の室温は軽く摂氏60度を突破。
このためさらに一層、予定外の疲労困憊の仕儀と相成りました。
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