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大阪で一人住まいで働いている長女に会いに行くのが本来の目的。
アパート探し等のため家内の方は既に何度か訪問。
しかし自分は全く初めて。
というより、大阪自体が初めて。
だいたい半世紀以上生きていて、京都より西へ行ったことさえなく。
前回は確か20年ほど前に仕事で京都日帰り。
遠距離出張には全く縁がなく、個人的にも連休がなかなか取れない職業人生。
新幹線に乗車するのも人生でこれが漸く3回目(恥)
思えば新婚旅行も仕事でキャンセルしたような。
当然、飛行機も乗ったことがなく。
都内の城館跡さえ意識して訪れたところはなく。
それがいきなり大阪へと出かける羽目に。
尤もこういう機会でもないと恐らく一生訪れない可能性さえ。
凸平塚城(東京都北区)午前8時05分から8時35分
久々の墓参りも兼ねて立ち寄ることに。両親は戦後間もなくこの神社で結婚式。
遥か半世紀以上前に不肖某もここで七五三などを。
数年前に他界した父とは頻繁に散歩に出かけた場所。
早い話が自分の生まれ故郷。
卒業した小中学校もこのすぐ近く。
何故か校歌も未だに記憶。
「きよ~らかに~ただしく、なおく、もろともに」
区立なのにこうして文字にすると何か讃美歌のような..GHQの影響か..(笑)
そういえば校舎裏に薪を背負い本を読む「二宮金次郎の石像」が転がっておりました。
「東に、希望の空輝き、平和の富士、西に高し..」(ミソソミ、ララソラ、ドラソラ、ソミ..)
内田康夫氏のミステリ小説に登場する主人公。
昔は榎木孝明、次に辰巳琢朗など、そして今は沢村一樹だったかと。
その主人公の実家が東京都北区西ヶ原3丁目という設定。
自分の生まれた住所と偶然の一致。
尤も自分の住んでいた所はかつての谷田川沿いの低地。
屋敷町は確か北側の高台の方角に所在していたという記憶が。
このため子どもの時から平塚亭の団子はお馴染。
この日もお参りの後に買い物。
朝まだ早い時間帯のため、生憎と団子は無く出来たての豆大福を購入。
大分以前の郷土史関係資料。
この平塚神社の洪積台地を城跡と明確に記述。
なかには切り通しの道路沿いに生育する樹木の傾斜を空堀の存在に結びつける見解なども提示。
さらには「飛鳥山城」との記述に加え、果ては「西ヶ原城」の存在さえ示唆(苦笑)
しかし最近の研究者の見解では、平塚城が名族豊島氏の拠点であったかどうかについてその実在が些か危うく。
実在したとしてもこの台地ではなく、もう少し南寄りの方面との説も。
ことによると関連しそうな神社東側の城官寺にも立ち寄ることに。
ところが法要のため様々な葬祭用具が設置され写真撮影がなかなか難しく。
そういえば卒業した小学校の隣に所在する大学の敷地は、あの有名な「下瀬火薬」の海軍工廠。
道理で有刺鉄線が張り巡らされた高い頑丈なコンクリート塀や防空壕があった訳で。
どうもこの年齢になると矢鱈に昔のことばかりが脳裏に浮かび。
それに反して最近の記憶が一段と曖昧に。
かつては奥行200m以上はあったと思われる神社境内の参道。
経営上の理由からか、参道両側の半分以上が月極めの貸駐車場に変貌しておりました。
凸野田城(大阪市福島区)午後2時20分から2時40分
JR大阪駅から大阪環状線に乗り換えて2駅目のJR野田駅下車。
往復時間徒歩2分を含めて10分間の訪城。
現地は大阪の市街地の一角。
以前は銀行の支店が置かれていたらしい細長いマンションの左側にポツンと石碑が設置。
戦国史では著名な三好一党、織田信長、石山本願寺と馴染の名前が登場。
それにしては余りにあっさりとしているようにも思われるのでありましたが、日没までの時間が迫りつつあるのでとっとと移動。
凸若江城(東大阪市)午後3時40分から4時10分
若江公民館分館前に設置された解説板はすぐに発見。ところが予め資料として用意していた本が古かったせいか、若江小学校近くと思われる肝心の石碑の所在地がなかなか見つからず。
できるだけ優しい口調で、下校途中の5年生くらいの男子児童に尋ねてみることに。
始めは関西弁なので会話不成立。
というか、何を言っているのか分からず。
要は「下校途中なので、案内したいけど寄り道になるので一緒にはいけまへんがな」と言っていたような。
指差した方向にどうやら目標物があることを漸く理解。
丁寧にお礼を言って、もと来た方向へと少し戻ると小堂宇の一角に土地改良組合の顕彰碑などとともに鎮座。
以前よりも確実に歩くスピードが低下。
僅か1.5kmほどの距離を歩くのに20分以上も
電車の本数が少ないことと合わせて思ったよりも時間を浪費。
辺りは次第に夕方の気配が漂い始め次の目的地へと先を急ぐことに。
凸木村重成墓所(東大阪市)午後4時25分から4時45分
第二寝屋川沿いの公園の一角に大きな石碑とともに所在していたので迷うことなく現地到着。
解説によれば元々は寝屋川沿いに所在していたものを河川改修により現在の場所へと移転したとのこと。
若江小学校の南東約直線600mほどの地点。
とはいえ近道をしても徒歩10分以上もかかってしまった。
明らかに歩行速度が低下していることを痛感。
さて日暮れ時の公園にはホームレスの方がお二人と黒ネコが3匹。
どうやらネコたちは飼いネコの模様。
ちゃんとネコ用の段ボールとブルーシートが。
そのうちの一匹はベンチで大人しくお座りをしておりました。
しかし肝心の人間の方の居場所は何処に在りや。
凸山口重信墓所(東大阪市)午後4時50分から5時00分
大阪夏の陣の「若江の戦い」で木村長門守重成と合戦を行い討死を遂げた徳側方の武将の墓所。
家康の勘気を被っていた父重政は後にこの重信の戦功などにより1万五千石の譜代大名として復活。
子孫はそのまま幕末まで牛久藩主として存続したとのことです。
両者の墓所は第2寝屋川を挟んで南北に対峙しておりましたが、こちらの墓所の方が100mほど東に寄っているので東軍としてはそれなりに整合性のあるような配置状況かと。
始めは他の墓石に紛れてその所在が分からず。
市街地とはいえ幾分肌寒さを感じる日没後の薄明かりの墓地に佇む人影などは皆無。
仮においでになればそれはそれで些か不気味なものが。
デジカメではそれなりに見えておりますが肉眼では限りなく夜に近く..ASA800に感度修正。
私は大阪城、ちょっと遠くまで姫路あたりまで攻めているのかと思いました。
または手前で京都二条城とか(苦笑
それにしてもしばらく上方の戦国史から遠ざかって木村重成が思い出せないほど、東夷になっておりました(汗
早速のコメントありがとうございます。
大坂城のブログは現在打ち込んでいる最中にございます(汗)
元々は城跡巡りが目的ではなく、娘に会いに行くことが主たる目的にございました。
家内より公認されているのは大坂城のみにて。
それを如何に上手く現地で軌道修正(あきらめさせる)するのかが大きな問題でございました(苦笑)
ブログ拝見させていただきました。
なかでも興味を引いたのは平塚城の記述です(笑)
そうだったんですか~
飛鳥山や西ヶ原城の所在も怪しいのでしょうか?
平塚城、飛鳥山など更新リストに入っていたのですがもう少し見送ろうかと思います(笑)
北区史の編纂にかかわった研究者の方々などの見解を拝見いたしますと、どうもそうした印象が強いようです。
然しそうはいっても3か所とも自分の生まれ故郷。
小学校は西ヶ原小学校。
中学は飛鳥中学校。
ついでに高校も城跡名に関係が(爆)
かくて名称からして全面否定するには誠に忍びなく。
有力な伝承地等として大切に残して参りたいと考えております(笑)
上方出陣、さぞ楽しかったものと思います。
大坂城、二条城へは何度か行きましたが、
それ以外の京阪地区の城はさっぱりです。
若江城、野田城がまた渋いチョイスですね。
飛鳥山、今のHPの前身の頃、掲載していましたが、今は載せていません。
あのあたりって発掘しても城の遺構は何も出なかったような・・
昔、仕事で北区、板橋区の郷土史みたいな本の制作をやったことがあり、
「幻の板橋城」とか稲付城のこととか色々出てきて、
えらく仕事のやりがいがあったことを思い出します。
ちなみに僕の母校は目黒氏館跡の比定地ですが、
城主の抜け道ならぬ、悪ガキたちの遅刻逃れの近道は存在しておりました。
出かけることを決めたのは出発の5日前にございまする。
未だに脚が棒のようになっておりまする。
しかし心地よい疲労でございまする。
膨大な画像の整理を前に途方に暮れておりまする。
殆んどが大坂城とその周辺でございまする。
親子水入らずモードであるべき状況が、独善的城跡巡りモードに。
家内はある程度はかくなる事態を予測していたふしも。
久々に異常なまでに元気に動き回る配偶者(某)の姿。
寧ろ定年までは何とか持ちそうだと安堵の様子も見え隠れ(苦笑)
母校の思い出は次第に忘却の彼方へと向かいつつありますが、出生地そのものが醸し出す懐かしさは余り変わることがないようでありました。
都内の城館跡も少しずつ電車で訪れて参りたいと存じます。
しかし何分にも、知識・資料不足であることは否めず二の足を踏んでおりました。
貴重なお話をありがとうございました。
ほな、コメントどうもおおおきに。