本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
カレンダー
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 8 | 9 | ||
10 | 11 | 12 | 13 | 15 | 16 | |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
カテゴリー
最新CM
中城の歴史の引用について(返信済)
(07/01)
おつかれさまでした(返信済)
(11/09)
無題(返信済)
(12/17)
お疲れ様でした(返信済)
(10/13)
お疲れ様でした(返信済)
(03/22)
最新TB
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
アクセス解析
フリーエリア
誠に古い話で恐縮にございます。
大分以前に高谷砦への登り口を探していたところ謎の洞穴に遭遇したことが。
高谷砦とは明らかに谷の反対側だし、恐らくは戦時中の防空壕跡などであろうか..とそのまま失念。
最近になって、別途の必要にせまられて「小川町町の歴史(下巻)」を何気なく見ていると、ようやくその真相が明らかに。
実は敗色の濃くなった太平洋戦争末期の通称「燕部隊」と呼ばれた第一航空軍の地下軍事施設の入り口であったことが判明。
かくて2年半もの月日を要し「戦争遺跡」の究明に成功..
元い、単に某の不勉強さ加減が暴露されただけのことに過ぎないのであります(大汗)
フルオートのコンパクトデジカメのため当時の画像をこうして眺めると、画像が粗いのがかえって懐かしくさえ感じられたのでありました。
およその位置は高谷砦の谷を挟んだ西側方面とだけ。
多分に酸素不足と崩落の危険性を伴うことから、具体的所在地につきましては非公開とさせていただきます(苦笑)
大分以前に高谷砦への登り口を探していたところ謎の洞穴に遭遇したことが。
高谷砦とは明らかに谷の反対側だし、恐らくは戦時中の防空壕跡などであろうか..とそのまま失念。
最近になって、別途の必要にせまられて「小川町町の歴史(下巻)」を何気なく見ていると、ようやくその真相が明らかに。
実は敗色の濃くなった太平洋戦争末期の通称「燕部隊」と呼ばれた第一航空軍の地下軍事施設の入り口であったことが判明。
かくて2年半もの月日を要し「戦争遺跡」の究明に成功..
元い、単に某の不勉強さ加減が暴露されただけのことに過ぎないのであります(大汗)
フルオートのコンパクトデジカメのため当時の画像をこうして眺めると、画像が粗いのがかえって懐かしくさえ感じられたのでありました。
およその位置は高谷砦の谷を挟んだ西側方面とだけ。
多分に酸素不足と崩落の危険性を伴うことから、具体的所在地につきましては非公開とさせていただきます(苦笑)
Comment
Re:無題
>偶然にしては すごいものを!
国道254線バイパスの前谷津橋の谷の西側(高谷砦は東側に所在)に気になる地形が見えます。
丘陵の上は既に宅地開発され住宅が建設。
しかし、その丘陵斜面は手付かずのままの環境。
前谷津橋先の道を北へと下りて過少し進むと左側に支谷が開けます。
その支谷の右岸(向かって右側方向)の斜面付近。
「小川町の歴史」(下巻)によれば、建設当初は概ね5ブロックに分かれ、このうち2か所はバイパス建設により埋設され、小規模なものは高谷砦丘陵の南西側にも確認されたとのこと。
>時間の経過と共に危険ではないのでしょうか?
>要らぬおせっかいですが 気に成ったりもします。
「小川町の歴史」を編纂するに当たり実施されたのは10年ほどまえと考えられ、当時某が確認したこの画像を含む計2箇所の坑道への入り口も現状はさらに崩壊などが進行しているものと考えられます。
住宅地街が近いとはいえ、草木の繁茂により冬季または春先でないと場所の確認は難しそうです。
また、勿論洞穴の中にはいることは相当な生命の危険(酸欠・崩落、生埋め)を伴うことは間違いがないようです。
上記の資料ではそれぞれ延長約100mほどの規模があり中間部分では横穴で連絡されていたようでした。
国道254線バイパスの前谷津橋の谷の西側(高谷砦は東側に所在)に気になる地形が見えます。
丘陵の上は既に宅地開発され住宅が建設。
しかし、その丘陵斜面は手付かずのままの環境。
前谷津橋先の道を北へと下りて過少し進むと左側に支谷が開けます。
その支谷の右岸(向かって右側方向)の斜面付近。
「小川町の歴史」(下巻)によれば、建設当初は概ね5ブロックに分かれ、このうち2か所はバイパス建設により埋設され、小規模なものは高谷砦丘陵の南西側にも確認されたとのこと。
>時間の経過と共に危険ではないのでしょうか?
>要らぬおせっかいですが 気に成ったりもします。
「小川町の歴史」を編纂するに当たり実施されたのは10年ほどまえと考えられ、当時某が確認したこの画像を含む計2箇所の坑道への入り口も現状はさらに崩壊などが進行しているものと考えられます。
住宅地街が近いとはいえ、草木の繁茂により冬季または春先でないと場所の確認は難しそうです。
また、勿論洞穴の中にはいることは相当な生命の危険(酸欠・崩落、生埋め)を伴うことは間違いがないようです。
上記の資料ではそれぞれ延長約100mほどの規模があり中間部分では横穴で連絡されていたようでした。
Re:無題
>写真だけでは、分からない 大変大きな規模なのですね!
>お話から 二度驚きです。
当時正面から除いた限りでは小雨模様の山中の事ゆえ、数メートル先も見えない暗闇だったかと記憶しております。
なお、冬季を除いてはこの場所に進むことはかなり難しいかと思われます。
また、小さな沢沿いの山道のため高谷砦北側の水路付近と同様に「マムシ」が出現する危険性もありそうでした。
>お話から 二度驚きです。
当時正面から除いた限りでは小雨模様の山中の事ゆえ、数メートル先も見えない暗闇だったかと記憶しております。
なお、冬季を除いてはこの場所に進むことはかなり難しいかと思われます。
また、小さな沢沿いの山道のため高谷砦北側の水路付近と同様に「マムシ」が出現する危険性もありそうでした。