本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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本日の目的地は児玉郡の上里町。
本来ならば先月中旬には概ね完了している筈。
然し、天候が良いと仕事関係の荷物運びで2回膝を痛め、体調が良いと天候が..などとモタモタとしているうちに早1ヶ月半という日々があっという間に過ぎ去って行ったのでありました。
先ず、膝のサポーターOK。
持病関係の薬一式OK。
デジカメ、メモリーカード、電池充電OK。
水分補給関係OK。
平地なので恐らく不要な方位磁石もついでにOK。
藪潜り用品一式OK(ゴーグル、手袋、この時期必需品である薮蚊よけスプレー&ジェルタイプ各種、痒み止めの各種軟膏)。
トレッキング用の杖2本もOK。(先日新たに追加購入したので何と5本も所有)
資料一式を収納したバッグOK。
筆記用具一式OK..と、久々の訪城ゆえに忘れ物の無いように指差呼称により確認。
しかし嵐山町まで行ったところで、自宅で充電中の携帯を忘れたことに気づくというお粗末さ。
近々チェックシートでも作成せねばいかぬと思う次第。
けれども、そのこと自体を忘れそうで..
凸遠道遺跡(比企郡嵐山町)午前11時30分から午後1時まで
元々東武東上線の軌道が谷沿いに走る形で平沢地区と志賀地区が分断され、以前からの工場建設に加えて2年ほど前にはベイシアを含む郊外型のショッピングセンターがオープンして周囲の景観は殊更大きく変貌を遂げています。そうした中でも周囲を比高差50m以上の丘陵地帯に囲まれている立地条件を窺い知ること自体は現在でも可能かと。こうしたことから生活の基盤である水源を確保できるという地形であることが想定され、中世以来の集落がある程度継続して存在していたということは十分に肯けます。
以前の発掘調査の成果から堀跡とみられる遺構を始めとして出土遺物から中世の館跡である可能性が示唆されているという程度の遺跡ということのようです。然し中世初期には大伽藍が所在したとされる平沢寺と同寺を庇護したと推定される畠山氏の菅谷館が共に近いことから在地の小規模な領主階層のものと思われます。なお出土物の年代が13世紀から近世までと年代幅が広いとのことなので、その具体的な時期を特定することは難しいのかも知れません。
なお当地での歩行距離は志賀神社の石段および多少の上り坂を含めて約1kmほど。
杖と三重のサポーターでこの時点ではさほどの支障は感じられず。
凸吉祥院館(児玉郡上里町)午後2時から午後2時50分まで
上里町の大御堂地区に所在する新義真言宗智山派の古刹で、阿保氏との関わりを有するとされる阿保山吉祥院真光寺が館跡。遺構は寺域の四方に土塁状の高まりが残存し、南側の西端ぶと西側が良好。特に西側部分は一部に低い部分もあるものの凡そ200mほどにわたって続いていました。北辺部分は内側からの高まり自体は確認できないものの水田面とは1m以上の比高差を有しています。東側は本堂より南の部分におよそ50mほどの高まりが確認できますが、ブロック塀と同居する形となっておりました。
こちらでの歩行距離は周囲を2週ほど歩き回ったため約1.5kmほど。
この時点でも概ね歩行に支障なし。
■大御堂(児玉郡上里町)午後3時から午後3時40分まで
中世寺院跡で現在も大字名として遺されており、「だいみどう」ではなく「おおみどう」と読むようです。吉祥院の存在と深い関わりがあるとされているのですが、準備不足のため資料に記されていた具体的な大御堂の所在地が判明しないまま北西の神川町に所在する降松稲荷大明神や西側の石祠の所在する平地林を散策。このとき小さな水路を越えなければならず、さりとて飛び越すほどの余裕はないためやむを得ず片足に重心をかけることに。歩行距離は僅かに約600mほど。然し、この時に左膝付近に微妙な違和感がじわじわと。「新編武蔵風土記稿」や「享保年間の絵図」から察すると「大御堂」は御朱印30石を下賜された吉祥院自体を指すようにも。しかし、神川町の資料では吉祥院の西側に土塁を含む寺院遺構が存在していたというような記述が。尤も近年の耕地整備により景観が大きく変わっているので致し方のないところではありました。
なお、この散策では砂利の採掘現場が隣接していたため、沖積層の砂礫部分の厚みをこの目で確かめられるというおまけつきなのでありました。
かくして、お蔭様でどうにかこうにか漸く再開にこぎつけたのでありましたが、合計3.1kmしか歩いていないもののどんよりとした曇り空であったこともありこの辺が限度と決断し撤収の止む無きに。
それにしても往復5時間費やして、たった2ヶ所半とは我ながら余りの効率の悪さに呆然。
余談ながら、本日のルート沿いにはベイシアの店舗の多いことこの上なし。
川島町に始まり、嵐山、寄居、花園と都合4か所。
昼食を買うために立ち寄ると、靴下が一足90円だったので思わず品選びを始めてしまうという始末。
加えて涼しそうで速乾性の夏用の半袖スウェットが半ズボンのスペアがついて1890円..むむっとして、思わず手に取ったりしていたので、更に貴重な時間が失われていくのでありました(苦笑)
本来ならば先月中旬には概ね完了している筈。
然し、天候が良いと仕事関係の荷物運びで2回膝を痛め、体調が良いと天候が..などとモタモタとしているうちに早1ヶ月半という日々があっという間に過ぎ去って行ったのでありました。
先ず、膝のサポーターOK。
持病関係の薬一式OK。
デジカメ、メモリーカード、電池充電OK。
水分補給関係OK。
平地なので恐らく不要な方位磁石もついでにOK。
藪潜り用品一式OK(ゴーグル、手袋、この時期必需品である薮蚊よけスプレー&ジェルタイプ各種、痒み止めの各種軟膏)。
トレッキング用の杖2本もOK。(先日新たに追加購入したので何と5本も所有)
資料一式を収納したバッグOK。
筆記用具一式OK..と、久々の訪城ゆえに忘れ物の無いように指差呼称により確認。
しかし嵐山町まで行ったところで、自宅で充電中の携帯を忘れたことに気づくというお粗末さ。
近々チェックシートでも作成せねばいかぬと思う次第。
けれども、そのこと自体を忘れそうで..
凸遠道遺跡(比企郡嵐山町)午前11時30分から午後1時まで
元々東武東上線の軌道が谷沿いに走る形で平沢地区と志賀地区が分断され、以前からの工場建設に加えて2年ほど前にはベイシアを含む郊外型のショッピングセンターがオープンして周囲の景観は殊更大きく変貌を遂げています。そうした中でも周囲を比高差50m以上の丘陵地帯に囲まれている立地条件を窺い知ること自体は現在でも可能かと。こうしたことから生活の基盤である水源を確保できるという地形であることが想定され、中世以来の集落がある程度継続して存在していたということは十分に肯けます。
以前の発掘調査の成果から堀跡とみられる遺構を始めとして出土遺物から中世の館跡である可能性が示唆されているという程度の遺跡ということのようです。然し中世初期には大伽藍が所在したとされる平沢寺と同寺を庇護したと推定される畠山氏の菅谷館が共に近いことから在地の小規模な領主階層のものと思われます。なお出土物の年代が13世紀から近世までと年代幅が広いとのことなので、その具体的な時期を特定することは難しいのかも知れません。
なお当地での歩行距離は志賀神社の石段および多少の上り坂を含めて約1kmほど。
杖と三重のサポーターでこの時点ではさほどの支障は感じられず。
凸吉祥院館(児玉郡上里町)午後2時から午後2時50分まで
上里町の大御堂地区に所在する新義真言宗智山派の古刹で、阿保氏との関わりを有するとされる阿保山吉祥院真光寺が館跡。遺構は寺域の四方に土塁状の高まりが残存し、南側の西端ぶと西側が良好。特に西側部分は一部に低い部分もあるものの凡そ200mほどにわたって続いていました。北辺部分は内側からの高まり自体は確認できないものの水田面とは1m以上の比高差を有しています。東側は本堂より南の部分におよそ50mほどの高まりが確認できますが、ブロック塀と同居する形となっておりました。
こちらでの歩行距離は周囲を2週ほど歩き回ったため約1.5kmほど。
この時点でも概ね歩行に支障なし。
■大御堂(児玉郡上里町)午後3時から午後3時40分まで
中世寺院跡で現在も大字名として遺されており、「だいみどう」ではなく「おおみどう」と読むようです。吉祥院の存在と深い関わりがあるとされているのですが、準備不足のため資料に記されていた具体的な大御堂の所在地が判明しないまま北西の神川町に所在する降松稲荷大明神や西側の石祠の所在する平地林を散策。このとき小さな水路を越えなければならず、さりとて飛び越すほどの余裕はないためやむを得ず片足に重心をかけることに。歩行距離は僅かに約600mほど。然し、この時に左膝付近に微妙な違和感がじわじわと。「新編武蔵風土記稿」や「享保年間の絵図」から察すると「大御堂」は御朱印30石を下賜された吉祥院自体を指すようにも。しかし、神川町の資料では吉祥院の西側に土塁を含む寺院遺構が存在していたというような記述が。尤も近年の耕地整備により景観が大きく変わっているので致し方のないところではありました。
なお、この散策では砂利の採掘現場が隣接していたため、沖積層の砂礫部分の厚みをこの目で確かめられるというおまけつきなのでありました。
かくして、お蔭様でどうにかこうにか漸く再開にこぎつけたのでありましたが、合計3.1kmしか歩いていないもののどんよりとした曇り空であったこともありこの辺が限度と決断し撤収の止む無きに。
それにしても往復5時間費やして、たった2ヶ所半とは我ながら余りの効率の悪さに呆然。
余談ながら、本日のルート沿いにはベイシアの店舗の多いことこの上なし。
川島町に始まり、嵐山、寄居、花園と都合4か所。
昼食を買うために立ち寄ると、靴下が一足90円だったので思わず品選びを始めてしまうという始末。
加えて涼しそうで速乾性の夏用の半袖スウェットが半ズボンのスペアがついて1890円..むむっとして、思わず手に取ったりしていたので、更に貴重な時間が失われていくのでありました(苦笑)
Comment
のんびり再開しましょう。
私も昨日は下調べに羽生まで行ってきました。
真夏の日差しの中、水田と一緒にみる中世城館がとても楽しみになってまいります。
吉祥院館は2回共外回りだけしか回りませんでしたが、結構楽しめました。東側を除いて遺構が割りと明確に残っているのが嬉しいですね。
中世寺院は城館と関係している事も多く、調べ方によっては新たなる発見がもたらされそうですね。和平様の新たなる見解に期待してしまいます。
ともかく久々の城館探訪お疲れ様でした。
またいつしかご一緒に城館を回りましょう。
真夏の日差しの中、水田と一緒にみる中世城館がとても楽しみになってまいります。
吉祥院館は2回共外回りだけしか回りませんでしたが、結構楽しめました。東側を除いて遺構が割りと明確に残っているのが嬉しいですね。
中世寺院は城館と関係している事も多く、調べ方によっては新たなる発見がもたらされそうですね。和平様の新たなる見解に期待してしまいます。
ともかく久々の城館探訪お疲れ様でした。
またいつしかご一緒に城館を回りましょう。
Re:のんびり再開しましょう。
>私も昨日は下調べに羽生まで行ってきました。
>真夏の日差しの中、水田と一緒にみる中世城館がとても楽しみになってまいります。
頑健な儀一殿のこととはいえ、万一ということも御座いますので熱中症などの発症にくれぐれもご留意ください。
>吉祥院館は2回共外回りだけしか回りませんでしたが、結構楽しめました。東側を除いて遺構が割りと明確に残っているのが嬉しいですね。
>中世寺院は城館と関係している事も多く、調べ方によっては新たなる発見がもたらされそうですね。和平様の新たなる見解に期待してしまいます。
以下については、手持ちの限られた資料と現地を観察した限りの暫定的な感想です。
①「上里町史」の口絵に掲載された享保年間の作成された吉祥院全体の絵図からみた寺域の形状と現況の違いがかなり大きいこと。
②「大御堂」との関係がいまひとつ不明なこと。
③真言宗寺院であること(寺院としての構の一部である可能性も)
④自然堤防上の微高地に所在すること(近世以降の水害除けのための土塁である可能性も)
以上の点を考慮いたしますと、土塁遺構がそのまま中世の館跡として断定すべきかどうか些か判断に迷うところであります。
>ともかく久々の城館探訪お疲れ様でした。
>またいつしかご一緒に城館を回りましょう。
日々衰えつつある足腰を少しずつ鍛えなおして、ご一緒する来るべき機会に備えたく存じます。
>真夏の日差しの中、水田と一緒にみる中世城館がとても楽しみになってまいります。
頑健な儀一殿のこととはいえ、万一ということも御座いますので熱中症などの発症にくれぐれもご留意ください。
>吉祥院館は2回共外回りだけしか回りませんでしたが、結構楽しめました。東側を除いて遺構が割りと明確に残っているのが嬉しいですね。
>中世寺院は城館と関係している事も多く、調べ方によっては新たなる発見がもたらされそうですね。和平様の新たなる見解に期待してしまいます。
以下については、手持ちの限られた資料と現地を観察した限りの暫定的な感想です。
①「上里町史」の口絵に掲載された享保年間の作成された吉祥院全体の絵図からみた寺域の形状と現況の違いがかなり大きいこと。
②「大御堂」との関係がいまひとつ不明なこと。
③真言宗寺院であること(寺院としての構の一部である可能性も)
④自然堤防上の微高地に所在すること(近世以降の水害除けのための土塁である可能性も)
以上の点を考慮いたしますと、土塁遺構がそのまま中世の館跡として断定すべきかどうか些か判断に迷うところであります。
>ともかく久々の城館探訪お疲れ様でした。
>またいつしかご一緒に城館を回りましょう。
日々衰えつつある足腰を少しずつ鍛えなおして、ご一緒する来るべき機会に備えたく存じます。