本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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何時ものこととて朝から体がやや重たいという感触。
然し毎度そのようなことを理由にしていては物事は先へと進まぬ道理にて。
前日からの訪城準備だけは用意万端怠りないこともあり午前9時半には自宅を出発。
往路は思いのほか車の流れがスムーズのため現地の児玉郡美里町まで僅か90分にて到着。
車内から眺める風景には明らかに初夏への季節の移ろいを感じさせるものが。



猪俣氏館 午前11時00分から午後1時15分まで

手始めに猪俣小兵六範綱の霊を弔うと伝わる「猪俣の百八燈」の民俗行事が執り行われる丘陵へ赴くことに。
高地から猪俣氏館と猪俣城相互の位置関係を確認しようと目論んだもののこの時点では肝心の猪俣城の所在地があやふやという情けなさ。


猪俣の百八燈
猪俣の百八燈
2007/04/22 撮影(以下同様)


続いて高台院およびその近くに所在する猪俣氏関係の古い墓所へ。
高台院の丘陵の影に隠れていることもあり即座にはその所在地が分からず。
またことのついでながら、かつてはゴルフ場が建設されるまで高台院の裏手から猪俣城へと登るルートが所在していたことも確認。


猪俣氏の墓所
猪俣氏の墓所


次に猪俣氏縁の正円寺と二柱神社へ赴き参拝。
ここでやっと館跡の内堀ともされている「正円寺川」の上流方向に所在する稜線が探していた「猪俣城」であることを確認。
なお、猪俣城は甘粕城や場所により木部氏館の近くからさえ望むことができることも判明。
したがって上州への往還を監視する役割を担っていたであろうことも再確認。


猪俣の集落から見上げた猪俣城
正円寺川からの猪俣城
(※左上の比高物体は大型の鳥類)


このあと、「愛馬の碑」(戦前の昭和期のもの)、「館跡の碑」(大正期のもの)、「馬方石」(年代不詳の力石)、外堀の役目を果たしたとされる「猪俣川」、内堀(正円寺川)などを徒歩にて散策しあらためて遺構の面影を辿ることの難しさをしみじみと味わうことに。

帰りがけに切通し状の地形の近くに「塚」を確認。
またその南側の民家の宅地際に高さ2m前後、長さ30mほどの土塁も確認。
近世以降の風除けのためのものかと推察。
けれども「塚」の所在地点と直線上につながっているようにも思える不思議な位置関係なのでありました。


甘粕城 午後1時30分から午後2時00分まで

「埼玉の中世城館跡」によるとJR八高線の松久駅を中心とした辺りがマーキングされていますが、「美里町史」では天神川に東側の辺りに所在する「堀の内」と呼ばれる地域を比定地としているようであります。
また、この地点から見て南側方向に「猪俣城」の山陵がはっきりと見て取ることを確認。


甘粕城方面から眺めた猪俣城
甘粕城方面から眺めた猪俣城


現地では道路の形状と河川改修などのため町史に記された水田のなかの三日月型の堀跡らしき地形を探すのに幾分手間取ることに。
ほどなく用水路脇に残された低地を確認し堀跡の痕跡であると念じて次なる目的地へと移動。


堀跡か
堀跡か?


なお東側に所在する比高差30mほどの独立丘陵の存在がとても気にかかるのであります。
然し4月の半ばを過ぎたこの時点では最早地表を観察するには相応しくなく、加えて竹林でもあればそれこそ筍泥棒と間違われても困るのであります。


なかなか良い感じの丘陵
なかなか良い感じの丘陵



木部氏館 午後2時15分から午後2時45分まで

美里町の遺された城館跡のなかでは僅かに遺構の存在を期待できる個所。
昭和61年に刊行された「美里町史」によれば、明確な土塁と堀跡の存在が記されているのであります。
然しすでに20年前の刊行物で、編纂作業の年数を考慮すれば四半世紀以前の情報に過ぎないことも明白。

JR八高線の小さな松久駅の駅前を右手に見て西側へと車を走らせると水田地帯の中に目的の住宅地が出現。


東側からの遠景
東側からの遠景


すると道路の左側になにやら文化財の説明版が所在。
残念ながら城館跡に関するものではなく地元に縁のある和算学者の顕彰碑なのでありました。

さて肝心の遺構については「美里町史」の記述どおりに東側の堀跡と西側の土塁の一部を確認。
館跡の規模は丁度一町四方余りの方形館の大きさで、近世の有力農民階層の屋敷跡のような印象も。


東側の堀跡
東側の堀跡


けれども南側と西側の堀跡は埋め立てにより、かつての存在を確認することは叶わず。
なお夕方からの所要のため、この時点で本日の城館探訪を終了。


部分的に残る西側の土塁跡
西側の土塁跡


帰路は往路と全く同じルートであるにも予想通り幾分渋滞を伴い所要時間は凡そ120分。
後半には体調の不良が現れるとともに遺構の存在は元々期待できないような平地の城館跡3ヶ所のみという体たらく。
かくして再びどうにかこうにか楽しい訪城の日々が復活いたしました。

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おかえりなさいませ。
再び城館跡を訪ねる旅が始まりました事、お祝い申し上げます。

美里町の城館跡は去年私も訪問しておりまして、なかなか味わいのある場所が多くありますね。後日のアップを楽しみにしております。

明日は休みですので、私も北に進路を向けようか考えております。まだまだ訪問していない城館が多く、楽しみはいっぱいあります。
武蔵国入間郡の住人 儀一 URL 2007/04/23(Mon)22:20:16 編集
Re:おかえりなさいませ。
何時もながら早速のコメントをありがとうございます。
美里地域は全体として残存する遺構は少ないのですが、その代わりのどかで味わい深い田園風景が広がっておりました(笑)
連休中にかけてあと2日ほどを費やして残り10ヵ所ほどを回りきる予定です。

なお、当日は日差しが弱い割には予想以上に気温が上昇。
いずれにしても暑さに極端に弱くなった体質の持ち主のため3ヵ所が限界でありました。
【2007/04/24 16:09】
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