本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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今月は未更新の不良在庫整理などの諸事情のため暫く訪城できず切歯扼腕。
かくて本日、体調は万全ではないものの漸く横瀬町方面へ出陣を敢行。
然しいきなりメインルートの国道299号線にて、道路工事による片側交通規制に遭遇。
更に正丸トンネルもメンテナンスのため何故か本日に限り片側交通規制というダブルパンチを浴びることに。
このため漸く横瀬町に到着したのは既に午前11時過ぎという次第に。
凸根古屋城(横瀬町)午前11時00分から午後2時30分まで
縄張図から想定される現地のイメージがどことなく掴みづらいことなどもあり、今まで訪城を見送っていた経緯が。
事前に横瀬町の資料館にて予め登口を確認しておいたことが役立ち、迷うことなく建設会社の資材置き場近くの住宅の脇から城跡へ。
城跡遺構が大きく分けて3ヶ所に分散しているため予め相当時間を要することを想定。
またデジカメ用のメモも予め3ヶ所分用意。
始めに「西郭(御殿跡)」から探索開始。
稲荷神社の上段に所在する方形の腰郭から東側へと続く一部出枡を伴う長大な構堀と土塁はなかなかの見ごたえが。
遺構の状態としてはこの部分が最も城跡としての印象が濃厚。
上段の郭との比高差は平均で8m前後を有し、かつ切落としを伴う地形のため直接這い上がることは至難にて。
ただし南側の根古屋地区との比高差は下段の腰郭部分では20mから30mを測る程度。
また斜面全体の勾配が緩く前面の土塁部分まで容易に到達できることから、郭部分の比高差を考慮しても総体的に防御機能が不足気味であることは否めないという印象が。
加えて西武新宿線が城跡の直下をトンネルにより貫通。
このため時折のどかなウグイスの鳴声とともに、城跡には不似合いな電車の警笛と走行音が間近に響きわたるのであります。
「西の郭」から「山頂の郭」へは資料によれば比高差にして70mほど。
然し現実に歩いてみるとそれほどの比高差があるという印象は無し。
途中小規模な2か所の堀切を確認しつつ、段築状の3段の腰郭や自然石を利用した小口状地形を確認。
ことによると石材の採掘のため南側(右側)が大きく削り取られ、てっきり稜線近くまで掘削されているものと思っていた由にて、テラス状に安全地帯が確保されていることにやや安堵を。
上記画像の正面に見える尾根筋が南側の「三角山」の尾根と繋がり間接的に「古御嶽城」方面へも続いています。
山頂(主郭か)北側の小口郭とさらに北西側に所在する大規模な郭を竪堀により防御された土橋で繋ぐ構造が明確に見て取れるものの、土塁などの存在は現状からは確認できず主に切岸、腰郭、竪堀により防御されていたのかも知れず。
またこの大規模な郭には間伐された杉材や枝打ちされた杉の枝が一面に所在し足元が不安定なため幾度となく転倒しかけることに。
「東の郭」方面へはそのまま比高にして差50mほど尾根筋を下ると忽ち東端の腰郭部分に到達。
途中尾根筋東側の直下を国道299号線が通過していることを目視。
このため車の走行音が断続的に谷間から響くことに。
東の郭には水の手に相応しい沢筋があり、現在も直ぐ近くに水道施設の取水場も所在。
些か尾根筋との区分が困難な「東郭」と直下に所在する円弧上の規模の大きな腰郭を確認してそのまま谷筋を下山。
植林された杉や竹林のために全体の配置が分かりづらいものがありますが、現状では標高374mの山頂から北西に派生した2本の尾根筋上に遺構が散在するという縄張り。
山頂部分でも比高差が100m程度であることに加えて北西方向に開いた谷筋周辺の傾斜も緩慢。
「山頂の郭」周辺以外の防御の不十分さを感じるものの秩父への往還を監視する役割としては格好の立地条件であることを確認。
また、「古御嶽城」とは焼山方面から派生した同じ三角山(標高623m)で尾根続きとなっていることから、かつては三角山の北側に巻き道が所在し相互の連絡を取ることができたのかも知れず。
凸古御嶽城(横瀬町)午後2時40分から午後4時10分まで
「登り口に関する情報不足」と「西側の郭直下の巨大な岩場の難路」との情報から訪城を躊躇していた経緯が。
然し、最早それほど若くもなくかつ心肺機能を始めとする体力確実に低下の一途を辿っているのは確実にて。
先日幸いにして登り口の情報については「赤服の紳士」管理人殿よりご提供いただき問題解消。
とはいえ「根古屋城」にて大分探訪時間を消費。
このため時刻は不案内な岩場の存在する難路を行くには些か微妙な時間帯に突入。
けれどもここで行かねば何時行けると、頭上の武甲山稜線に沈むであろう太陽の現在位置などの諸事情を勘案し決然と探訪を敢行。
ご教示どおりにセメント工場脇に所在する送電線の保守管理のために設置されている山道から入山。
地形図からの情報としては比高差は約220メートルほど。
己の貧弱な体力その他の条件から城跡の所在する山頂までの所要時間は休憩含めてやよそ50分程度と推定。
然しいきなりの急登の連続に忽ち呼吸が追いつかず、加えて根古屋城めぐりで既になかば無力化した状態の両膝。
このため3歩進んでは小休止(流石に2歩は下がらず)の繰り返し。
果たして山頂まで行き着けるものであろうかと我ながら不安に。
それでも登り始めて30分ほどで漸く西側からの尾根筋と合流。
ここで念のため下り道の目印をマーキング。
ふと目の前に広がる尾根筋の急坂を見上げると、右手前方の疎林に何やら切り立った巨大な岩塊が見え隠れ。
山道から右手方向に幾分ずれていることから、ごく普通の岩尾根が続く程度と思いきや、無情にも山道は正にその岩塊に阻まれ結局は比高差約15mの岸壁を登りつめる仕儀と相成候。
高所恐怖症気味の場合は些か無謀かと思われる地形。
若い時分の僅かな軽登山の経験が生かせるかどうか微妙な状況かと。
とりあえずは荷物をザックに一纏めにして身軽に。
また岩を掴むような登攀のため作業用の手袋を取り出し装着。
昨日の降雨の影響による落石などを考慮してより慎重な行動に切り替え。
然し肝心のこういう時に、常用の標準小売希望価格1万6800円也のトレッキングシューズを自宅に置き忘れてくるという不始末。
従って本日は遥かに摩擦係数が劣る安物の予備の方にて。
途中で落下すれば生命の危機は別としても、間違いなく行動不能状態に陥る危険が濃厚な環境。
両膝が完調なれば問題なく這い上がれる自信があるものの、今や三重・四重サポーター装着の身なれば片足で全体重を支えることも儘ならず、80cmほどの段差を這い上がることさえ大儀似而候也。
そうしたなか登攀すべきルートを取違え岸壁の中腹で一時フリーズ状態(汗)
何とか横から回り込んで危機を脱出して山岳信仰の石碑が点在する斜面を経由したのち漸く西側の郭に到着。
幾分不測の事態が発生したものの、ここまでの所要時間は予想通りの約50分少々。
さて標高480mほどの西側の郭は思ったよりも平坦に普請され?(元来の自然地形かも)印象で幅5m弱、長さ40mほどの細長い地形。
しかし小屋を建てるには余りにも幅が狭く不便であるという印象が。
北西側に2段の半円形の規模の大きな腰郭が所在するものの、元来が急傾斜の尾根筋のためその存在意義に大きな疑問が。
いずれにせよ登攀ルートは東西方向の尾根筋のみで、南北方向からのアプローチは絶対に不可能な傾斜角度50度以上の急勾配の斜面にて。
加えてその西側の直下には高さ15mほどの岸壁が屹立し、その存在だけで防備はほぼ完璧かと推察する次第。
小さな堀切を挟んでヤセ尾根上には概ね同様の規模で多少幅の広い東側の郭が所在。
小屋がけの利便性のみで考えれば、この東側の郭が主郭に相当するのかもしれません。
さらにその東側には幾分大きめの堀切が普請。
些か驚いたことには、東側の郭に「町指定の文化財」の標柱が所在。
まさかこのような山頂にて文化財の標柱に出会えるとは感激の至りにて。
この標柱など設営道具一式を背負って、あの完璧な岩壁を登攀された方にただただ敬服を。
遺構と呼べるものは以上のみ。
堀切などに伴う「竪堀」は確認できないというよりも、寧ろ斜面が急勾配のためそのような必要が全く無いという状況かと推察。
さてそうした中「水の手」はというと、稜線付近には湧水の可能性は考えられず、恐らくは急斜面の中腹や谷川の源頭部などと推定を。
北側の「根古屋城」とは焼山方面から派生した三角山(標高623m)で尾根続きとなっていることから、かつては三角山の北側に巻き道が所在し相互の連絡を取ることができた可能性を勝手に想定。
しかし例の岩場を体験したばかりなので、勾配のきつい深い谷に加えかなりの岩尾根続きの難路であることも予想され、下手に迷い込んだら低山といえども命の危険が充満しているのかも知れず実況検分などはとても..(汗)
さて、帰路は岩場のルートを間違えることも無く所要時間35分ほどであっという間に下山を完了。
途中左膝に激痛が走るも装着しているサポーターのお蔭で何とか無事に車まで帰還。
膝の限界を痛切に思い知った探訪と相成共、久方ぶりに達成感に溢れた訪城似而御座候。
かくて本日、体調は万全ではないものの漸く横瀬町方面へ出陣を敢行。
然しいきなりメインルートの国道299号線にて、道路工事による片側交通規制に遭遇。
更に正丸トンネルもメンテナンスのため何故か本日に限り片側交通規制というダブルパンチを浴びることに。
このため漸く横瀬町に到着したのは既に午前11時過ぎという次第に。
凸根古屋城(横瀬町)午前11時00分から午後2時30分まで
縄張図から想定される現地のイメージがどことなく掴みづらいことなどもあり、今まで訪城を見送っていた経緯が。
事前に横瀬町の資料館にて予め登口を確認しておいたことが役立ち、迷うことなく建設会社の資材置き場近くの住宅の脇から城跡へ。
城跡遺構が大きく分けて3ヶ所に分散しているため予め相当時間を要することを想定。
またデジカメ用のメモも予め3ヶ所分用意。
始めに「西郭(御殿跡)」から探索開始。
稲荷神社の上段に所在する方形の腰郭から東側へと続く一部出枡を伴う長大な構堀と土塁はなかなかの見ごたえが。
遺構の状態としてはこの部分が最も城跡としての印象が濃厚。
上段の郭との比高差は平均で8m前後を有し、かつ切落としを伴う地形のため直接這い上がることは至難にて。
ただし南側の根古屋地区との比高差は下段の腰郭部分では20mから30mを測る程度。
また斜面全体の勾配が緩く前面の土塁部分まで容易に到達できることから、郭部分の比高差を考慮しても総体的に防御機能が不足気味であることは否めないという印象が。
加えて西武新宿線が城跡の直下をトンネルにより貫通。
このため時折のどかなウグイスの鳴声とともに、城跡には不似合いな電車の警笛と走行音が間近に響きわたるのであります。
「西の郭」から「山頂の郭」へは資料によれば比高差にして70mほど。
然し現実に歩いてみるとそれほどの比高差があるという印象は無し。
途中小規模な2か所の堀切を確認しつつ、段築状の3段の腰郭や自然石を利用した小口状地形を確認。
ことによると石材の採掘のため南側(右側)が大きく削り取られ、てっきり稜線近くまで掘削されているものと思っていた由にて、テラス状に安全地帯が確保されていることにやや安堵を。
上記画像の正面に見える尾根筋が南側の「三角山」の尾根と繋がり間接的に「古御嶽城」方面へも続いています。
山頂(主郭か)北側の小口郭とさらに北西側に所在する大規模な郭を竪堀により防御された土橋で繋ぐ構造が明確に見て取れるものの、土塁などの存在は現状からは確認できず主に切岸、腰郭、竪堀により防御されていたのかも知れず。
またこの大規模な郭には間伐された杉材や枝打ちされた杉の枝が一面に所在し足元が不安定なため幾度となく転倒しかけることに。
「東の郭」方面へはそのまま比高にして差50mほど尾根筋を下ると忽ち東端の腰郭部分に到達。
途中尾根筋東側の直下を国道299号線が通過していることを目視。
このため車の走行音が断続的に谷間から響くことに。
東の郭には水の手に相応しい沢筋があり、現在も直ぐ近くに水道施設の取水場も所在。
些か尾根筋との区分が困難な「東郭」と直下に所在する円弧上の規模の大きな腰郭を確認してそのまま谷筋を下山。
植林された杉や竹林のために全体の配置が分かりづらいものがありますが、現状では標高374mの山頂から北西に派生した2本の尾根筋上に遺構が散在するという縄張り。
山頂部分でも比高差が100m程度であることに加えて北西方向に開いた谷筋周辺の傾斜も緩慢。
「山頂の郭」周辺以外の防御の不十分さを感じるものの秩父への往還を監視する役割としては格好の立地条件であることを確認。
また、「古御嶽城」とは焼山方面から派生した同じ三角山(標高623m)で尾根続きとなっていることから、かつては三角山の北側に巻き道が所在し相互の連絡を取ることができたのかも知れず。
凸古御嶽城(横瀬町)午後2時40分から午後4時10分まで
「登り口に関する情報不足」と「西側の郭直下の巨大な岩場の難路」との情報から訪城を躊躇していた経緯が。
然し、最早それほど若くもなくかつ心肺機能を始めとする体力確実に低下の一途を辿っているのは確実にて。
先日幸いにして登り口の情報については「赤服の紳士」管理人殿よりご提供いただき問題解消。
とはいえ「根古屋城」にて大分探訪時間を消費。
このため時刻は不案内な岩場の存在する難路を行くには些か微妙な時間帯に突入。
けれどもここで行かねば何時行けると、頭上の武甲山稜線に沈むであろう太陽の現在位置などの諸事情を勘案し決然と探訪を敢行。
ご教示どおりにセメント工場脇に所在する送電線の保守管理のために設置されている山道から入山。
地形図からの情報としては比高差は約220メートルほど。
己の貧弱な体力その他の条件から城跡の所在する山頂までの所要時間は休憩含めてやよそ50分程度と推定。
然しいきなりの急登の連続に忽ち呼吸が追いつかず、加えて根古屋城めぐりで既になかば無力化した状態の両膝。
このため3歩進んでは小休止(流石に2歩は下がらず)の繰り返し。
果たして山頂まで行き着けるものであろうかと我ながら不安に。
それでも登り始めて30分ほどで漸く西側からの尾根筋と合流。
ここで念のため下り道の目印をマーキング。
ふと目の前に広がる尾根筋の急坂を見上げると、右手前方の疎林に何やら切り立った巨大な岩塊が見え隠れ。
山道から右手方向に幾分ずれていることから、ごく普通の岩尾根が続く程度と思いきや、無情にも山道は正にその岩塊に阻まれ結局は比高差約15mの岸壁を登りつめる仕儀と相成候。
高所恐怖症気味の場合は些か無謀かと思われる地形。
若い時分の僅かな軽登山の経験が生かせるかどうか微妙な状況かと。
とりあえずは荷物をザックに一纏めにして身軽に。
また岩を掴むような登攀のため作業用の手袋を取り出し装着。
昨日の降雨の影響による落石などを考慮してより慎重な行動に切り替え。
然し肝心のこういう時に、常用の標準小売希望価格1万6800円也のトレッキングシューズを自宅に置き忘れてくるという不始末。
従って本日は遥かに摩擦係数が劣る安物の予備の方にて。
途中で落下すれば生命の危機は別としても、間違いなく行動不能状態に陥る危険が濃厚な環境。
両膝が完調なれば問題なく這い上がれる自信があるものの、今や三重・四重サポーター装着の身なれば片足で全体重を支えることも儘ならず、80cmほどの段差を這い上がることさえ大儀似而候也。
そうしたなか登攀すべきルートを取違え岸壁の中腹で一時フリーズ状態(汗)
何とか横から回り込んで危機を脱出して山岳信仰の石碑が点在する斜面を経由したのち漸く西側の郭に到着。
幾分不測の事態が発生したものの、ここまでの所要時間は予想通りの約50分少々。
さて標高480mほどの西側の郭は思ったよりも平坦に普請され?(元来の自然地形かも)印象で幅5m弱、長さ40mほどの細長い地形。
しかし小屋を建てるには余りにも幅が狭く不便であるという印象が。
北西側に2段の半円形の規模の大きな腰郭が所在するものの、元来が急傾斜の尾根筋のためその存在意義に大きな疑問が。
いずれにせよ登攀ルートは東西方向の尾根筋のみで、南北方向からのアプローチは絶対に不可能な傾斜角度50度以上の急勾配の斜面にて。
加えてその西側の直下には高さ15mほどの岸壁が屹立し、その存在だけで防備はほぼ完璧かと推察する次第。
小さな堀切を挟んでヤセ尾根上には概ね同様の規模で多少幅の広い東側の郭が所在。
小屋がけの利便性のみで考えれば、この東側の郭が主郭に相当するのかもしれません。
さらにその東側には幾分大きめの堀切が普請。
些か驚いたことには、東側の郭に「町指定の文化財」の標柱が所在。
まさかこのような山頂にて文化財の標柱に出会えるとは感激の至りにて。
この標柱など設営道具一式を背負って、あの完璧な岩壁を登攀された方にただただ敬服を。
遺構と呼べるものは以上のみ。
堀切などに伴う「竪堀」は確認できないというよりも、寧ろ斜面が急勾配のためそのような必要が全く無いという状況かと推察。
さてそうした中「水の手」はというと、稜線付近には湧水の可能性は考えられず、恐らくは急斜面の中腹や谷川の源頭部などと推定を。
北側の「根古屋城」とは焼山方面から派生した三角山(標高623m)で尾根続きとなっていることから、かつては三角山の北側に巻き道が所在し相互の連絡を取ることができた可能性を勝手に想定。
しかし例の岩場を体験したばかりなので、勾配のきつい深い谷に加えかなりの岩尾根続きの難路であることも予想され、下手に迷い込んだら低山といえども命の危険が充満しているのかも知れず実況検分などはとても..(汗)
さて、帰路は岩場のルートを間違えることも無く所要時間35分ほどであっという間に下山を完了。
途中左膝に激痛が走るも装着しているサポーターのお蔭で何とか無事に車まで帰還。
膝の限界を痛切に思い知った探訪と相成共、久方ぶりに達成感に溢れた訪城似而御座候。
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