本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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2年半ぶりに職場の友人とともに再訪。
当初は「吉野砦」(小川町)の複数の比定地を虱潰しに探索する予定。
然しそれでは藪潜りの連続技となることは必定。
整備が進んでいるとの「杉山城」(嵐山町)を皮切りに、「中城」(小川町)、「八幡台遺跡」(同)、「吉野砦」(同)を予定。

ところが以前と比べて杉山城の遺構状態が余りにも明確に変貌。
このため予想以上に滞在時間が長引き吉野砦は後日に順延することとした次第。
それでもおよその地形配置だけは「鬼うどん」で昼食をしたついでに確認完了。


杉山城 (比企郡嵐山町) 午前9時20分から午後0時30分まで

国の史跡指定申請前祝と同行者の希望を兼ねて正式には2度目の訪城。
尤も前回は2004年の9月15日なので約2年半ぶりかと。


大手口付近
杉山城大手口付近
2007/03/04 撮影


以前との大きな違いは、
①各郭ごとに手作り風の解説板が設置されたので、現在自分がどの個所に居るのが非常に分かりやすくなった。
②季節の違いと合わせて、竹林などの伐採がすすみ城郭としての地形の特徴が手に取るように把握できる。
③以前は東側の郭は雑草のためその地形的な特徴が全く分からず仕舞い。しかし今回は草が蔓延っていないので東郭の地形が明確に確認できた。
④北側の2ヶ所の郭および搦め手方面の見通しが大きく改善された。
など遺構としての保存状態の良さが改めて浮かび上がることに。


「杉山城」の外郭北端部から南郭と屏風折状の空堀
「杉山城」の外郭北端部から
の南郭と屏風折状の空堀



いずれにせよ、まさに「杉山城保存会」「嵐山町教育委員会」の方々の努力の賜物。
通称大手口の備え・仕掛けの固さも実に分かりやすく同行者と共に感動。
余りに嬉しかったので当初の予定をオーバーして3時間近くも滞在し、堀底道や郭配置の複雑な構造を堪能。
発掘調査の結果、戦国時代の初めの一時期しか利用されなかったとの考古学的考察が公表。
しかし遺構の保存状態から想定すると、16世紀末あたりまで松山城の支城として活用されていても良さそうにも思える次第。


南郭と空堀
南郭と空堀
2007/03/04 撮影


さて今後は見通しのよくなった分、郭・土塁の崩落や空堀・堀切の埋没などの対策などの適切な管理が課題となっていくのでありましょう。
なお、帰りがけに「お城ML」のメンバーに遭遇。
また日曜日ということもあり、そのほかの見学者の方もちらほら。
やや汗ばむくらいのポカポカ陽気でしたが、風もなく絶好の訪城日和なのでありました。


「杉山城」東郭
「杉山城」本郭の土塁上
から眺めた「東の郭」

2007/03/04 撮影



中城(比企郡小川町) 午後1時50分から午後3時30分

こちらも2004年9月23日以来の再訪。
日曜日なので迷惑とは思いつつも路上駐車できるような場所もないので、町立図書館に車を止めて東側の民家の間から崖を昇る正規のルートよりアプローチ。


西側土塁
郭内から見た西側土塁
2007/03/04 撮影


改めて堀底から見上げる土塁の高さが最大4m以上を有することを確認し、当地が市街地の中であることを忘れてしまうのであります。
前回はパスした堀底道部分も今回は全て確認。
折から郭内のテニスコートでは軟式テニスの練習中。
やはり相変わらずテニスコートと中世城館遺構は相容れないという印象も。


「中城」
「中城」の西側土塁
2007/03/04 撮影


八幡台遺跡 (比企郡小川町) 午後3時40分から午後4時00分まで

宅地開発に伴う発掘により、幅5メートルほどのL型の空堀跡などの所在が確認され「中城」と遺構と関連があると考えられている地点。
これらの遺構が本来一体のものであるとすれば「中城」の規模は南北方向に200mを超える現在の2倍以上の規模となることが推定されます。
したがって、現在のテニスコートを中心とした遺構は郭群のひとつを構成していたとも考えることができるような。

またさらに憶測を働かせると西側部分も西側約200mの白山神社、あるいは更に200m以上西側の南東側に開いた谷の所在する増尾地区の境辺りまでの丘陵を占有していた可能性もあるやも知れず。


八幡台遺跡
「八幡台遺跡」
2007/03/04 撮影


八幡神社の土塁ほか (比企郡小川町) 午後4時05分から午後4時20分まで

近世の流鏑馬の儀式のための土塁跡で八幡神社の南側の町道沿いに高さ約1.2m、長さ150mにわたって所在しています。
さて、南北を兜川と槻川に挟まれた広大な八幡台の中心部に所在する八幡神社もなにやらいわくありげに。
東西南北共に100mを超える位置する広大な境内で、強いていえば東側の民家の前には長さ15m、高さ0.8mほどの小さな土塁も所在。
歴史の謎に包まれた一帯と形容しても良さそうな佇まいを見せておりました。


「流鏑馬の土塁」
「流鏑馬の土塁」
2007/03/04 撮影


このあと南側の穴八幡古墳に立ち寄り、春霞と夕方の逆光のために霞んで見える腰越城の本郭を眺めて帰還。
同行者共々そう若くはないので些か足に疲労が蓄積。
このためやや重たい足取りでトボトボと町立図書館の駐車場を目指したのでありました。


穴八幡古墳
穴八幡古墳
2007/03/04 撮影
 

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杉山城
何度行っても、何度行った方の報告を拝見してもワクワクさせられるものがあります。

1つ質問なのですが、戦国時代の初め頃しか使われなかった可能性がとありますが、戦国時代の始まりは1467年の応仁の乱あたりのことでしょうか・・・
日本全国と関東の戦国時代の定義はどうも異なるような・・・

それにしても北条色が無いとは不思議ですね。北条築城学校の実地訓練場(笑)
だったのですかね・・・
左馬助 URL 2007/03/07(Wed)08:07:49 編集
Re:杉山城
コメントありがとうございます。

戦国史の研究者の間では関東の戦国時代の始まりについて、享徳3年(1454)の足利成氏が管領上杉憲忠を誅殺したことにより起きたとされる享徳の乱(古河公方と管領上杉氏の争い)をひとつの目安にしているようです。

「戦国の城」(藤木久志/監修、埼玉県立歴史資料館/編集 2005年/高志書院)では、「出土した遺物の年代から15世紀末の長享の大乱前後に戦火に遭った以降は修復された形跡が無く」、「後北条氏の痕跡が確認できない」としていました。
この従来の定説とは異なる考古学的な調査結果に対して、城郭研究者の間から表明された縄張構成の発展過程、支城ネットワークなどの視点からの異論も収録されておりました。

個人的にもあれだけの縄張りに工夫を凝らした城郭が、とても15世紀末のものとは思えないのでありますが。
【2007/03/07 21:49】
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