本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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本日はお日柄もよく且つ振替休みのため、予定通り小川町方面へ出動と相成りました。
何時ものこととて自宅を出たのは午前10時前にて。
凸(仮称)鷹巣山(小川町) 午前11時30分~午後12時45分 比高差約70m(道なし)
小川町北東の鷹巣地区所在する関越道や町道などにより囲まれた一角で標高139.6mの独立丘陵。
正式な名称が不明なため、便宜上「鷹巣山」と呼称することに。
関越自動車道の嵐山パーキングエリア下り線から眺めると、その北側にひときわ大きく聳えつつもなだらかな裾野を広げたような山容であるため以前より気になっていた場所。
南側から眺めた鷹巣山
2007/02/19 撮影
市野川とその北側を流れる支流に挟まれた「杉山城」「越畑城」「谷津城」などが所在する標高100m前後を測る丘陵の北西の端に所在。
東西約400m、南北約300mほどの領域を有し、おそらくは丘陵の中での最高地点を形成しているものと推定。
また随所に深い侵食谷を伴うため意外に山懐が深いものの、されとて方向を見失うほどの地形の複雑さはなさそうかと判断。
地図上からではすぐに所在地が分かるものと安易に考えていたものの、東側からの道路が通行止めのため北側から大きく迂回することとなり、関越道の47号地下道付近の道路脇に駐車。
一日当りの通行車両は間違いなく20台未満と思われる人里はなれた地域で、このため山の呼称くらいは何とか情報収集しようと試みたものの以前からの人家は皆無のためあえなくく断念した次第。
倒木や木の枝が散乱しているため車の通行は困難かつ危険につき、全く人気のない関越の側道をすぐ脇を高速で通過する車両に追い抜かれながら南東に300mほど徒歩にて移動。
46号地下道の個所から沼地沿いの山道を北東方向に進むことに。
名称不詳の沼地の堰堤からはちょうど笠山・堂平山を真正面に見るというなかなかの眺望。
さて、当初の予想通り山道は沼地の先端部分で次第に消滅の様相...しかし、尾根筋に登る踏跡を見つけてやがて細長い稜線へ。
南東側の沼地
(西側から)
2007/02/19 撮影
南東側の沼地
(南側の堰堤から)
2007/02/19 撮影
篠竹の密生する稜線を時々現れる踏跡を確認しつつ、篠竹を避けるべく幾分東へと迂回して漸く谷筋が三方より迫る峠状の地形部分へと到達。
横矢がかりの稜線への道(笑)
207/02/19 撮影
この部分から眺めた北側一帯(鷹巣山東側の稜線)は明らかに尾根筋の大半が土砂の採掘などにより地形が改変されている様子がありありと。
山頂方面と土砂の採掘跡
2007/02/19 撮影
南東側からのアプローチなので篠竹は少ないと思ったのが大きな誤りにて。
また、山頂の南東側の稜線にはやや人工的な印象の地形も所在。
然し、おそらくは土砂の採掘に関連するものと推定。
やや人工的な地形
2007/02/19 撮影
ここからは比高差約30m、直線距離にして120mの背丈を越える篠竹が密生する個所を黙々と前進することに。
およその方向と現在位置は把握できるものの前後左右の見通しが利かず、とにかく斜面の傾斜を唯一の頼りに一路山頂へ。
所々かつて篠竹を伐採した個所があるものの、結果的にこれが地面から突き出た無数の竹槍のような按配に。
足元と目の負傷に入念な注意を払いつつも、一度だけ根性の曲がった篠竹に足を取られて転倒。
悪運が強いもので篠竹の竹槍攻撃を避け、右手の薬指の爪が割れた程度の被害のみ。
せっかく救急用品セット(包帯、捻挫用のテープ、傷薬、消毒薬、ガーゼ、ピンセット、鋏、刺抜き、バンドエイド各種)を持参しているので簡単な応急手当を実施。
人気の全くない山中で色々な意味で暫し満足感に浸ることに(苦笑)
悪戦苦闘の末、漸く到達した山頂にはこれといった地形状の特徴もなくひたすらなだらかな地形が展開している様子にて。
「平場」というよりも自然地形の平坦地で南側の一部を除けば概ねなだらかな斜面であることが窺えるような状態。
とりもなおさず山頂部分も篠竹の叢生により眺望は無きに等しく、唯一大正時代の山岳信仰と密教の融合?とも推定される大日如来の文字が刻まれた石碑が所在していたのがせめてもの慰めかと。
近代のものとはいえ、少なくとも信仰の対象物を祀るような山であったことは確かということで。
山頂の大日如来の石碑
帰路は同じルートを戻るよりも北側の谷沿いに下るほうが篠竹が少ないことが明らかなので、谷川に落ちないように注意を払いながら北側の山麓へ。
また山頂周辺はこの地域特有の篠竹の藪が密生しているため眺望は殆んどなく、かつその植生から考慮して南側から登ったにも拘わらず行動の自由さえ規制されることとなった次第。
結果的にはこの谷を遡及して途中から直登した方が篠竹も少なく歩きやすいことが判明。
滑川の丘陵地帯にひき続いて、またしても「無名低山紀行」のような様相を呈し始めたのでありました。
凸富士山(小川町角山) 午前11時30分~午後12時45分 標高182.1m 比高差約80m(道あり)
小川町に所在するその名も富士山。
兜川を挟んだ南麓に所在する小川町駅の中心部から眺めると確かに富士山のように見えなくもない小山。
南東側の参道から登るのが正しいアプローチの模様。
しかし、時間の節約のためみどりヶ丘1丁目の閑散とした分譲地側から接近。
山頂の手前には町営水道の大きな給水タンク。
狭い山頂にはテレビ埼玉の電波塔が所在し山岳信仰の石碑はその傍らにひっそりと鎮座。
確かに山頂からの南西方向の眺望は悪くはないものの南東部、東部、北部といくつもの尾根が派生しているために当初思っていたよりも絶景には非ず。
角山の「富士山」
北西側の「みどりヶ丘の歩道橋」より
2007/02/19
撮影
遺構の存在などの具体的な確証があってのことではなく、その名称と展望の様子に関心があっただけのことにて。
帰路は北側の比較的明瞭な道が続く東西が切り立った深い谷を伴う細長いヤセ尾根を下山。
この尾根筋には人工地形か自然地形かの区別に迷う平坦な部分が何ヶ所か所在しているものの、備えがあるとすれば南側の方と決め付けて余り気にせずに通過(汗)
凸蟹沢遺跡(小川町大塚蟹沢) 午後14時05分~午後14時10分
兜川右岸の民家の西側に所在する土塁。
高さ最大1.5m、延長約30mの規模。
館跡が存在したという伝承・記録の類は存在せず、堀跡の痕跡も確認できない歴史的経緯不明な構築物とのこと。
蟹沢遺跡
2007/02/19
撮影
「小川町史・考古資料編」で指摘しているように兜川上流にあたる西側に位置していることから、河川の氾濫のための堤防のような防備対策によるものという推測が有力なのかもしれません。
然し氾濫する河川の堤防代わりとしての構築物にしては些か中途半端な規模であり、また一方中世の館跡であるならば立地条件としてはより安全な台地(「中城」)や山腹(「伝竹沢次郎館」)のような個所を選定するものと推定されます。
凸伝竹沢二郎館(小川町靱負上ノ山345番地ほか) 午後14時30分~午後15時10分
兜川左岸の上ノ山の標高117mから140m付近の谷津状の山腹に所在。
雲竜寺とその奥の熊野神社を含む谷間が竹沢氏の館跡と推定されているとのことであります。
尾根の間の谷筋に概ね一列に並んだ5段ほどの平場から構成された館跡ということなので、訪れる前には森閑とした場所が脳裏に浮かんでおりました。
伝竹沢二郎館
2007/02/19 撮影
然し元来が南側斜面であることに加えて、下方から向かって左側の尾根筋の樹木が見事に伐採されているという事情も重なり、燦々と太陽の光を浴びた矢鱈に明るい光景が目前に展開し些か面食らうことに。
また、墓地脇に所在する老朽化した合板製の説明板は最早崩壊寸前の危機なのでありました。
長年の風雪に耐えてきた現地解説板
2007/02/19 撮影
さて、地元出身の家内にこの館跡のことを尋ねたところ、木で鼻をくくるが如くまるで知らないとのご回答。
実家から見える「腰越城」でさえもよく分からない者が知る由もないのでありますが、そういえば「竹沢君」という同級生がいたとのこと。
閑話休題。
探訪中に尾根筋の向こう側から飼い犬と見られる鳴声が寸断なく聞こえてくるので、この山の中で犬の散歩でもさせている酔狂な御仁がおいでになるのかとも。
さて如何なる事情によるものかと地図をよくよく眺めてみると、尾根筋の北側にはかねてより見知っていた長らくローソンのコンビニしか所在していなかった閑散とした宅地分譲地の一帯が展開しておりました。
最近になって某有力企業の進出決定により漸くにして数軒の住宅が建ち始めた由。
かくして犬の鳴声の発生源が解明。
この後3月中旬以降に訪城予定の越生方面の下見に。
途中「青山城」「高取山城」の遠景などを撮影して鶴ヶ島経由で帰宅。
何時ものこととて自宅を出たのは午前10時前にて。
凸(仮称)鷹巣山(小川町) 午前11時30分~午後12時45分 比高差約70m(道なし)
小川町北東の鷹巣地区所在する関越道や町道などにより囲まれた一角で標高139.6mの独立丘陵。
正式な名称が不明なため、便宜上「鷹巣山」と呼称することに。
関越自動車道の嵐山パーキングエリア下り線から眺めると、その北側にひときわ大きく聳えつつもなだらかな裾野を広げたような山容であるため以前より気になっていた場所。
南側から眺めた鷹巣山
2007/02/19 撮影
市野川とその北側を流れる支流に挟まれた「杉山城」「越畑城」「谷津城」などが所在する標高100m前後を測る丘陵の北西の端に所在。
東西約400m、南北約300mほどの領域を有し、おそらくは丘陵の中での最高地点を形成しているものと推定。
また随所に深い侵食谷を伴うため意外に山懐が深いものの、されとて方向を見失うほどの地形の複雑さはなさそうかと判断。
地図上からではすぐに所在地が分かるものと安易に考えていたものの、東側からの道路が通行止めのため北側から大きく迂回することとなり、関越道の47号地下道付近の道路脇に駐車。
一日当りの通行車両は間違いなく20台未満と思われる人里はなれた地域で、このため山の呼称くらいは何とか情報収集しようと試みたものの以前からの人家は皆無のためあえなくく断念した次第。
倒木や木の枝が散乱しているため車の通行は困難かつ危険につき、全く人気のない関越の側道をすぐ脇を高速で通過する車両に追い抜かれながら南東に300mほど徒歩にて移動。
46号地下道の個所から沼地沿いの山道を北東方向に進むことに。
名称不詳の沼地の堰堤からはちょうど笠山・堂平山を真正面に見るというなかなかの眺望。
さて、当初の予想通り山道は沼地の先端部分で次第に消滅の様相...しかし、尾根筋に登る踏跡を見つけてやがて細長い稜線へ。
南東側の沼地
(西側から)
2007/02/19 撮影
南東側の沼地
(南側の堰堤から)
2007/02/19 撮影
篠竹の密生する稜線を時々現れる踏跡を確認しつつ、篠竹を避けるべく幾分東へと迂回して漸く谷筋が三方より迫る峠状の地形部分へと到達。
横矢がかりの稜線への道(笑)
207/02/19 撮影
この部分から眺めた北側一帯(鷹巣山東側の稜線)は明らかに尾根筋の大半が土砂の採掘などにより地形が改変されている様子がありありと。
山頂方面と土砂の採掘跡
2007/02/19 撮影
南東側からのアプローチなので篠竹は少ないと思ったのが大きな誤りにて。
また、山頂の南東側の稜線にはやや人工的な印象の地形も所在。
然し、おそらくは土砂の採掘に関連するものと推定。
やや人工的な地形
2007/02/19 撮影
ここからは比高差約30m、直線距離にして120mの背丈を越える篠竹が密生する個所を黙々と前進することに。
およその方向と現在位置は把握できるものの前後左右の見通しが利かず、とにかく斜面の傾斜を唯一の頼りに一路山頂へ。
所々かつて篠竹を伐採した個所があるものの、結果的にこれが地面から突き出た無数の竹槍のような按配に。
足元と目の負傷に入念な注意を払いつつも、一度だけ根性の曲がった篠竹に足を取られて転倒。
悪運が強いもので篠竹の竹槍攻撃を避け、右手の薬指の爪が割れた程度の被害のみ。
せっかく救急用品セット(包帯、捻挫用のテープ、傷薬、消毒薬、ガーゼ、ピンセット、鋏、刺抜き、バンドエイド各種)を持参しているので簡単な応急手当を実施。
人気の全くない山中で色々な意味で暫し満足感に浸ることに(苦笑)
悪戦苦闘の末、漸く到達した山頂にはこれといった地形状の特徴もなくひたすらなだらかな地形が展開している様子にて。
「平場」というよりも自然地形の平坦地で南側の一部を除けば概ねなだらかな斜面であることが窺えるような状態。
とりもなおさず山頂部分も篠竹の叢生により眺望は無きに等しく、唯一大正時代の山岳信仰と密教の融合?とも推定される大日如来の文字が刻まれた石碑が所在していたのがせめてもの慰めかと。
近代のものとはいえ、少なくとも信仰の対象物を祀るような山であったことは確かということで。
山頂の大日如来の石碑
帰路は同じルートを戻るよりも北側の谷沿いに下るほうが篠竹が少ないことが明らかなので、谷川に落ちないように注意を払いながら北側の山麓へ。
また山頂周辺はこの地域特有の篠竹の藪が密生しているため眺望は殆んどなく、かつその植生から考慮して南側から登ったにも拘わらず行動の自由さえ規制されることとなった次第。
結果的にはこの谷を遡及して途中から直登した方が篠竹も少なく歩きやすいことが判明。
滑川の丘陵地帯にひき続いて、またしても「無名低山紀行」のような様相を呈し始めたのでありました。
凸富士山(小川町角山) 午前11時30分~午後12時45分 標高182.1m 比高差約80m(道あり)
小川町に所在するその名も富士山。
兜川を挟んだ南麓に所在する小川町駅の中心部から眺めると確かに富士山のように見えなくもない小山。
南東側の参道から登るのが正しいアプローチの模様。
しかし、時間の節約のためみどりヶ丘1丁目の閑散とした分譲地側から接近。
山頂の手前には町営水道の大きな給水タンク。
狭い山頂にはテレビ埼玉の電波塔が所在し山岳信仰の石碑はその傍らにひっそりと鎮座。
確かに山頂からの南西方向の眺望は悪くはないものの南東部、東部、北部といくつもの尾根が派生しているために当初思っていたよりも絶景には非ず。
北西側の「みどりヶ丘の歩道橋」より
2007/02/19
撮影
遺構の存在などの具体的な確証があってのことではなく、その名称と展望の様子に関心があっただけのことにて。
帰路は北側の比較的明瞭な道が続く東西が切り立った深い谷を伴う細長いヤセ尾根を下山。
この尾根筋には人工地形か自然地形かの区別に迷う平坦な部分が何ヶ所か所在しているものの、備えがあるとすれば南側の方と決め付けて余り気にせずに通過(汗)
凸蟹沢遺跡(小川町大塚蟹沢) 午後14時05分~午後14時10分
兜川右岸の民家の西側に所在する土塁。
高さ最大1.5m、延長約30mの規模。
館跡が存在したという伝承・記録の類は存在せず、堀跡の痕跡も確認できない歴史的経緯不明な構築物とのこと。
蟹沢遺跡
2007/02/19
撮影
「小川町史・考古資料編」で指摘しているように兜川上流にあたる西側に位置していることから、河川の氾濫のための堤防のような防備対策によるものという推測が有力なのかもしれません。
然し氾濫する河川の堤防代わりとしての構築物にしては些か中途半端な規模であり、また一方中世の館跡であるならば立地条件としてはより安全な台地(「中城」)や山腹(「伝竹沢次郎館」)のような個所を選定するものと推定されます。
凸伝竹沢二郎館(小川町靱負上ノ山345番地ほか) 午後14時30分~午後15時10分
兜川左岸の上ノ山の標高117mから140m付近の谷津状の山腹に所在。
雲竜寺とその奥の熊野神社を含む谷間が竹沢氏の館跡と推定されているとのことであります。
尾根の間の谷筋に概ね一列に並んだ5段ほどの平場から構成された館跡ということなので、訪れる前には森閑とした場所が脳裏に浮かんでおりました。
伝竹沢二郎館
2007/02/19 撮影
然し元来が南側斜面であることに加えて、下方から向かって左側の尾根筋の樹木が見事に伐採されているという事情も重なり、燦々と太陽の光を浴びた矢鱈に明るい光景が目前に展開し些か面食らうことに。
また、墓地脇に所在する老朽化した合板製の説明板は最早崩壊寸前の危機なのでありました。
長年の風雪に耐えてきた現地解説板
2007/02/19 撮影
さて、地元出身の家内にこの館跡のことを尋ねたところ、木で鼻をくくるが如くまるで知らないとのご回答。
実家から見える「腰越城」でさえもよく分からない者が知る由もないのでありますが、そういえば「竹沢君」という同級生がいたとのこと。
閑話休題。
探訪中に尾根筋の向こう側から飼い犬と見られる鳴声が寸断なく聞こえてくるので、この山の中で犬の散歩でもさせている酔狂な御仁がおいでになるのかとも。
さて如何なる事情によるものかと地図をよくよく眺めてみると、尾根筋の北側にはかねてより見知っていた長らくローソンのコンビニしか所在していなかった閑散とした宅地分譲地の一帯が展開しておりました。
最近になって某有力企業の進出決定により漸くにして数軒の住宅が建ち始めた由。
かくして犬の鳴声の発生源が解明。
この後3月中旬以降に訪城予定の越生方面の下見に。
途中「青山城」「高取山城」の遠景などを撮影して鶴ヶ島経由で帰宅。
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