本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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今年は少しだけ心を入替えて、珍しく予定した時刻に自宅を出発。
しかし途中で急遽目的地を微調整して、改めて羽尾堀の内(羽尾館)を訪れることに。
-暫定版のため打ち間違え多し-
凸羽尾堀の内(羽尾館) 午前10時15分~午前10時30分
この場所を訪れたのは、もう2年以上前のこと。
羽尾神社本殿の西側に堀跡状の遺構らしきものを目にして無邪気に喜んでいた当時が懐かしく脳裏に浮かぶ次第にて。
当時はさしたる中世城館遺構であるとの確証のないままに、関係図書などの記述を唯一の拠り所としていたのが実情なのでありました。
中世城館跡としての根拠は、地名として「堀の内」との小字名が残されていること、空堀と推定される「溝状地形」が遺されていること、および羽尾神社の所在する低位丘陵が在地支配の拠点として地形的に相応しい印象のあることなどによるものと考えられます。
その後何とか300ヶ所程度の県内の様々な中世城館跡を彷徨してきた体験から改めて観察すると、空堀遺構とはいっても「神社としての普請によるものか否か」という点については多少の疑問も介在。
人工地形であることは間違いのないものの、その時代背景を含めて近世地誌にも記される金光寺の羽尾城などの明確な二重土塁遺構などの存在に対比する限りでは甚だ心許ない印象が漂います。
また、以前は西側の空堀状の地形と接続していることから、単純に堀跡遺構に関連するとものと憶測していた経緯のある丘陵北側の水田との境界部分に所在する水路についても、果たして用水路なのか堀跡遺構なのか益々分からなくなってきたという誠に情けない次第。
その一方で、この個所よりも遥かに中世城館跡に相応しいような無名の個所をその周囲に確認していく中で、この「堀の内」の存在を捉えなおしてみると、やはり「羽尾七騎」と称された在地小領主階層との関連が改めて浮上してくるのでありました。
さて、この間に神社の由来を記した解説版もまた一段と風化して文字が読みづらく変貌。
羽尾神社の所在する丘陵先端部は熊谷、江南方面へ抜ける現在の熊谷松山有料道路、県道47号線の往還を見通すことのできる地理的条件を有するのどかな田園地帯でありました。
然しその田園風景も昨年(平成18年)のカインズホーム、ベイシアなどの大型ショッピンクセンターが北東400m地点に開店したことに伴い大きく変貌していました。
羽尾堀の内(羽尾館)
2007/01/08 撮影
凸ザルガヤト沼 午前10時35分~午前10時55分
前回は南側の稜線から探訪し、篠竹の余りに頑強な総構の前にすごすごと撤退した経緯が。
肝心のU字型の凹み部分には特別養護老人ホーム「森林園」が大規模な造成工事を伴い所在。
このため従前の地形の様子については最早推定することさえ困難な状態に。
東側の稜線を探索してみようとも思ったものの、またしてもあらゆる者の侵入を阻む例の篠竹が目に付いたので早々に断念を。
さて、滑川町の「沼地」自体を探訪することも目的の一つなので「沼、沼、沼」とブツブツと呟きながら「ザルガヤト沼」を捜索。
10分ほどを要して、職員の方々の駐車場の奥にやっと発見。
かくて羽尾地域で中世城館跡の可能性のありそうな個所はについてはほぼ確認完了。
老人ホームが所在する場所は北側を除く三方を丘陵に囲まれた地理的条件。
これが南側に面していれば中世城館の所在地としては格好の条件。
しかし、生憎と北側に開口した地形のためそうした可能性は僅少であると結論付けた次第であります。
ザルガヤト沼
2007/01/08 撮影
凸伊古大沼 午前11時15分~午後12時35分
冒頭から沼地へと進む細道を誤り、東側に所在する台沼と弁天沼を勘違いしたのが間違いの始まり。
小生とほぼ同年代と思われる農作業中の年配の女性に伺ったところ、さらに見当識を喪失するようなお話が。
「二ノ宮山」との位置関係はぴったり適合しているので、本来目指している「丘陵」そのものについては絶対に間違いのないところ。
さすれば此処は如何に...尤もよくよく考えれば、このあたりは嵐山町大字勝田(かちだ=中世文書の所領宛行状にも記される)と滑川町大字伊古の境界部分。
事の真相は勝田側の方面で伺ったことの失敗によるものと一人静かに反省を。
数百メートルと離れていない大きな灌漑沼の存在も、わずか小さな山ひとつ越えただけでその存在があやふやになるというご時勢であることを痛感致候。
先ほどの型のご了解を得て道路わきのスペースに1時間ほど車を停めさせていただき、徒歩にて目指すは比高差50m近い二ノ宮山北西の独立丘陵。
四駆なので無理すれば上がれるとは思ったものの、作業用の私道と思しき道路を痛めては社会的信義に反すること疑いなし。
よって、明確な軽トラックの轍の残る幅員2メートルほどの山道を徒歩にて登攀。
思ったとおり北側の斜面の傾斜がきつく山道はその斜面を掘り込んで斜めに登るという構造。
10分と上らないうちに稜線の平坦地部分にあっけなく到着。
木の枝に摑まりつつ登攀するような典型的藪こぎを想定していたこともあり、意外な展開に些か拍子抜けの感も。
平坦地は平場といえばそう見えなくもない南西の山頂から派生した2千平方メートルほどの北東に向けて緩い傾斜を示す広大な地形を形成。
事前の予想通りの結果として、西へと進めば小川町から江南町へ抜ける県道に突き当たるこの往還を眼下に見下ろすとともに、かつ江南町方面の中世城館群への往還さえも見通すことのできる「物見」としては格好の地形と立地条件。
「小屋」なども建て放題の広さで常時数十名くらいは起居可能な規模と推定。
無論二ノ宮山の方が遥かに標高が高いものの、この無名の小山の存在が障壁となり眼下の往還を見通すことは不可。
「堀切、堀切、堀切...」とまたもやブツブツと一人呟きながら踏み跡のない稜線に沿って山頂へ。
付近に誰もいるはずはないので、怪しまれる心配も皆無にて。
と、その時近くの茂みから生体反応と推定される「ガサガサ」というような大きな異音が...「猪年」とはいえ本物には余り出会いたくはないので、斯様な場合を想定し携行した鉈を取り出しつつ慎重に様子を窺いつつ枝を掻き分け前進。
おそらくは、カラスなどの大型の鳥の模様にて候。
嵐山町の境界杭が穿たれたあたりから尾根筋の山道は明瞭に。
しかし、当然のことながら地形的な弱点と解される西側の緩やかな尾根筋には「堀切」などの人工的地形改変の要素は全く見当たらず、山頂から比高差で15mほど下った個所にて探索を断念。
山頂付近の尾根筋自体も急傾斜が目立ち南北からの谷津も思ったよりも深く入り込み、そのあとで訪れた伊古大沼(勝田大沼)側の南側の急斜面では杉木立の中で時折凝灰岩質の露岩が顔をのぞかせる荒々しい景観を呈していたのでありました。
伊古大沼もその名のとおり大きな湖面に満々たる水を湛えてこの小山の何面をがっちりと防御しておりました。
伊古大沼(勝田大沼)
2007/01/08
撮影
凸和泉山崎 午後12時45分から13時10分
埼玉森林病院が所在する丘陵の東端部分に些かの関心が。
比高差はせいぜい20m弱という程度の規模にて。
しかし、北側の江南町へと抜ける往還とともに小川から熊谷方面に抜ける古道につながる往還も見下ろすことのできるという立地条件は「物見」の条件としてはなかなかのものと思われます。
古河公方と管領上杉氏との抗争、長尾景春の乱、長享年中の両上杉氏による抗争、後北条氏の武蔵中北部進出による越後上杉氏などとの抗争など何れの時代にかかわりを持ったのかについてはは史料・伝承の類もなく全く知る由もありません。
その中で、後世の記録ではありますが、唯一「豆相記」や「甲陽軍鑑」に山内(鉢形城を本拠)・扇谷(川越城を本拠)の両上杉氏の内乱である「長享年中の大乱」のころ、東方に隣接する滑川町福田郷にて両氏による合戦が行われたとの記述が存在。
この記述を信頼するとすれば、早ければ15世紀末の一時的な陣城との関わり、或いは後北条氏の支配が浸透していく16世紀中頃に「物見の砦」として利用された可能性も無きにしも非ずといったところです。
しかし何れにしてもそうした城館として利用されていた事実や時期を推定する史料を全く欠いています。
丘陵の先端部には地元の方の墓所を始めとして直径8メートル高さ1m弱の古墳上の地形なども所在。
南北方向の斜面は思いのほか急な個所も所在し地形状の特性は十分に評価できるものの、如何せん堀切などが所在すべき周辺には病院関係の建物が多数所在していて最早確認のしようがありません。
和泉山崎
2007/01/08 撮影
凸陣馬沼 午後13時20分から14時10分
さて、先ずは恒例どおりに入り口が分からず行き過ぎることに。
道路沿いから沼地の堰堤を見通せるような開けた地形を想像していたことが原因。
しかし実際には、決して幅の広いとは言いがたい水田の小さな谷津のおくが沼地の所在地。
向かって右側の畦道とも呼べないような個所から「陣馬沼」へ。
滑川町には数多の灌漑用水としての沼地が所在していますが、この場所は今までの中でもかなり分かりにくい立地条件。
この1月という季節にもかかわらず、堰堤の手前は鬱蒼とした杉木立などで覆われて奥の様子が皆目分からず。
加えて堰堤自体が経年変化により劣化しているようで満水の沼地の水を支えきれるのかという心配さえ。
どのあたりまでが沼地の岸辺か判然としない部分もあるので、まさに自己責任の世界。
最も安全と目されるやや見通しのよい高台の個所から沼地の様子を観察。
さて、沼地の東側には人工地形と思われるV字形の堀底状の道が所在し丘陵上の竹林へと続いていますが、城館地形の一部と考えるには明らかに中途半端な観が。
同様の地形は馬場跡と伝わる沼地西側の部分にも所在し、何れも沼地へと下るための掘下げた里道のようなものと解されます。
なお、この西側部分にも地元の方の墓所や小祠とともにかつての桑畑と思われる段差を有する畑が所在。
あらためて、畑の農地改良による造成地形であることを実感。
念のため北側の真竹・篠竹に覆われた竹藪を拝見、しかし当然具体的成果などあるはずなども無く。
但しこの場所は西側の谷津を挟んで向かい側に所在している三門館に近く、その堀跡の一部とも考えられなくも無い地形の所在するという丘陵地帯の南側に当たることも事実。
憶測を呼ぶ「陣馬沼」の地名の由来そのものも、何やら意味ありげな印象ではありました。
陣馬沼
2007/01/08 撮影
凸三門館(和泉陣城とも) 午後14時15分から14時30分
「陣馬沼」の西側の丘陵地帯に所在し、この場所も約2年ほど前に訪れた個所。
両足の膝がそろそろ限界に近づきつつあることから、東側のV字状の「竪堀」のみを再訪。
間近に眺めるのは2度目ですが、南北と東西方向に刻まれた堀跡が具体的にどのような戦術的意図を有していたのかは、不勉強のために今以て分からず仕舞い。
仮に神社への堀下げた参道の一部というにしては、大かがりな普請であることは恐らく間違いの無いところにて。
なお、地理的な配置関係から総合的に考えれば南側の「泉福寺の遺構」「陣馬沼付近」「和泉山崎」などと本来は一体的に利用されていた可能性も否定できないものと考えられますが、勿論あくまで地理的な要素のみの妄想に過ぎず、具体的な根拠に乏しい憶測なのであります。
憶測・妄想で頭の中が混乱の一途を辿る中、帰路の交通渋滞を考えて東側からの堀跡がはっきりと分かるような画像をデジカメに納めたのち早々に撤収を開始。
三門館(和泉陣城)
207/01/08 撮影
しかし途中で急遽目的地を微調整して、改めて羽尾堀の内(羽尾館)を訪れることに。
-暫定版のため打ち間違え多し-
凸羽尾堀の内(羽尾館) 午前10時15分~午前10時30分
この場所を訪れたのは、もう2年以上前のこと。
羽尾神社本殿の西側に堀跡状の遺構らしきものを目にして無邪気に喜んでいた当時が懐かしく脳裏に浮かぶ次第にて。
当時はさしたる中世城館遺構であるとの確証のないままに、関係図書などの記述を唯一の拠り所としていたのが実情なのでありました。
中世城館跡としての根拠は、地名として「堀の内」との小字名が残されていること、空堀と推定される「溝状地形」が遺されていること、および羽尾神社の所在する低位丘陵が在地支配の拠点として地形的に相応しい印象のあることなどによるものと考えられます。
その後何とか300ヶ所程度の県内の様々な中世城館跡を彷徨してきた体験から改めて観察すると、空堀遺構とはいっても「神社としての普請によるものか否か」という点については多少の疑問も介在。
人工地形であることは間違いのないものの、その時代背景を含めて近世地誌にも記される金光寺の羽尾城などの明確な二重土塁遺構などの存在に対比する限りでは甚だ心許ない印象が漂います。
また、以前は西側の空堀状の地形と接続していることから、単純に堀跡遺構に関連するとものと憶測していた経緯のある丘陵北側の水田との境界部分に所在する水路についても、果たして用水路なのか堀跡遺構なのか益々分からなくなってきたという誠に情けない次第。
その一方で、この個所よりも遥かに中世城館跡に相応しいような無名の個所をその周囲に確認していく中で、この「堀の内」の存在を捉えなおしてみると、やはり「羽尾七騎」と称された在地小領主階層との関連が改めて浮上してくるのでありました。
さて、この間に神社の由来を記した解説版もまた一段と風化して文字が読みづらく変貌。
羽尾神社の所在する丘陵先端部は熊谷、江南方面へ抜ける現在の熊谷松山有料道路、県道47号線の往還を見通すことのできる地理的条件を有するのどかな田園地帯でありました。
然しその田園風景も昨年(平成18年)のカインズホーム、ベイシアなどの大型ショッピンクセンターが北東400m地点に開店したことに伴い大きく変貌していました。
羽尾堀の内(羽尾館)
2007/01/08 撮影
凸ザルガヤト沼 午前10時35分~午前10時55分
前回は南側の稜線から探訪し、篠竹の余りに頑強な総構の前にすごすごと撤退した経緯が。
肝心のU字型の凹み部分には特別養護老人ホーム「森林園」が大規模な造成工事を伴い所在。
このため従前の地形の様子については最早推定することさえ困難な状態に。
東側の稜線を探索してみようとも思ったものの、またしてもあらゆる者の侵入を阻む例の篠竹が目に付いたので早々に断念を。
さて、滑川町の「沼地」自体を探訪することも目的の一つなので「沼、沼、沼」とブツブツと呟きながら「ザルガヤト沼」を捜索。
10分ほどを要して、職員の方々の駐車場の奥にやっと発見。
かくて羽尾地域で中世城館跡の可能性のありそうな個所はについてはほぼ確認完了。
老人ホームが所在する場所は北側を除く三方を丘陵に囲まれた地理的条件。
これが南側に面していれば中世城館の所在地としては格好の条件。
しかし、生憎と北側に開口した地形のためそうした可能性は僅少であると結論付けた次第であります。
ザルガヤト沼
2007/01/08 撮影
凸伊古大沼 午前11時15分~午後12時35分
冒頭から沼地へと進む細道を誤り、東側に所在する台沼と弁天沼を勘違いしたのが間違いの始まり。
小生とほぼ同年代と思われる農作業中の年配の女性に伺ったところ、さらに見当識を喪失するようなお話が。
「二ノ宮山」との位置関係はぴったり適合しているので、本来目指している「丘陵」そのものについては絶対に間違いのないところ。
さすれば此処は如何に...尤もよくよく考えれば、このあたりは嵐山町大字勝田(かちだ=中世文書の所領宛行状にも記される)と滑川町大字伊古の境界部分。
事の真相は勝田側の方面で伺ったことの失敗によるものと一人静かに反省を。
数百メートルと離れていない大きな灌漑沼の存在も、わずか小さな山ひとつ越えただけでその存在があやふやになるというご時勢であることを痛感致候。
先ほどの型のご了解を得て道路わきのスペースに1時間ほど車を停めさせていただき、徒歩にて目指すは比高差50m近い二ノ宮山北西の独立丘陵。
四駆なので無理すれば上がれるとは思ったものの、作業用の私道と思しき道路を痛めては社会的信義に反すること疑いなし。
よって、明確な軽トラックの轍の残る幅員2メートルほどの山道を徒歩にて登攀。
思ったとおり北側の斜面の傾斜がきつく山道はその斜面を掘り込んで斜めに登るという構造。
10分と上らないうちに稜線の平坦地部分にあっけなく到着。
木の枝に摑まりつつ登攀するような典型的藪こぎを想定していたこともあり、意外な展開に些か拍子抜けの感も。
平坦地は平場といえばそう見えなくもない南西の山頂から派生した2千平方メートルほどの北東に向けて緩い傾斜を示す広大な地形を形成。
事前の予想通りの結果として、西へと進めば小川町から江南町へ抜ける県道に突き当たるこの往還を眼下に見下ろすとともに、かつ江南町方面の中世城館群への往還さえも見通すことのできる「物見」としては格好の地形と立地条件。
「小屋」なども建て放題の広さで常時数十名くらいは起居可能な規模と推定。
無論二ノ宮山の方が遥かに標高が高いものの、この無名の小山の存在が障壁となり眼下の往還を見通すことは不可。
「堀切、堀切、堀切...」とまたもやブツブツと一人呟きながら踏み跡のない稜線に沿って山頂へ。
付近に誰もいるはずはないので、怪しまれる心配も皆無にて。
と、その時近くの茂みから生体反応と推定される「ガサガサ」というような大きな異音が...「猪年」とはいえ本物には余り出会いたくはないので、斯様な場合を想定し携行した鉈を取り出しつつ慎重に様子を窺いつつ枝を掻き分け前進。
おそらくは、カラスなどの大型の鳥の模様にて候。
嵐山町の境界杭が穿たれたあたりから尾根筋の山道は明瞭に。
しかし、当然のことながら地形的な弱点と解される西側の緩やかな尾根筋には「堀切」などの人工的地形改変の要素は全く見当たらず、山頂から比高差で15mほど下った個所にて探索を断念。
山頂付近の尾根筋自体も急傾斜が目立ち南北からの谷津も思ったよりも深く入り込み、そのあとで訪れた伊古大沼(勝田大沼)側の南側の急斜面では杉木立の中で時折凝灰岩質の露岩が顔をのぞかせる荒々しい景観を呈していたのでありました。
伊古大沼もその名のとおり大きな湖面に満々たる水を湛えてこの小山の何面をがっちりと防御しておりました。
伊古大沼(勝田大沼)
2007/01/08
撮影
凸和泉山崎 午後12時45分から13時10分
埼玉森林病院が所在する丘陵の東端部分に些かの関心が。
比高差はせいぜい20m弱という程度の規模にて。
しかし、北側の江南町へと抜ける往還とともに小川から熊谷方面に抜ける古道につながる往還も見下ろすことのできるという立地条件は「物見」の条件としてはなかなかのものと思われます。
古河公方と管領上杉氏との抗争、長尾景春の乱、長享年中の両上杉氏による抗争、後北条氏の武蔵中北部進出による越後上杉氏などとの抗争など何れの時代にかかわりを持ったのかについてはは史料・伝承の類もなく全く知る由もありません。
その中で、後世の記録ではありますが、唯一「豆相記」や「甲陽軍鑑」に山内(鉢形城を本拠)・扇谷(川越城を本拠)の両上杉氏の内乱である「長享年中の大乱」のころ、東方に隣接する滑川町福田郷にて両氏による合戦が行われたとの記述が存在。
この記述を信頼するとすれば、早ければ15世紀末の一時的な陣城との関わり、或いは後北条氏の支配が浸透していく16世紀中頃に「物見の砦」として利用された可能性も無きにしも非ずといったところです。
しかし何れにしてもそうした城館として利用されていた事実や時期を推定する史料を全く欠いています。
丘陵の先端部には地元の方の墓所を始めとして直径8メートル高さ1m弱の古墳上の地形なども所在。
南北方向の斜面は思いのほか急な個所も所在し地形状の特性は十分に評価できるものの、如何せん堀切などが所在すべき周辺には病院関係の建物が多数所在していて最早確認のしようがありません。
和泉山崎
2007/01/08 撮影
凸陣馬沼 午後13時20分から14時10分
さて、先ずは恒例どおりに入り口が分からず行き過ぎることに。
道路沿いから沼地の堰堤を見通せるような開けた地形を想像していたことが原因。
しかし実際には、決して幅の広いとは言いがたい水田の小さな谷津のおくが沼地の所在地。
向かって右側の畦道とも呼べないような個所から「陣馬沼」へ。
滑川町には数多の灌漑用水としての沼地が所在していますが、この場所は今までの中でもかなり分かりにくい立地条件。
この1月という季節にもかかわらず、堰堤の手前は鬱蒼とした杉木立などで覆われて奥の様子が皆目分からず。
加えて堰堤自体が経年変化により劣化しているようで満水の沼地の水を支えきれるのかという心配さえ。
どのあたりまでが沼地の岸辺か判然としない部分もあるので、まさに自己責任の世界。
最も安全と目されるやや見通しのよい高台の個所から沼地の様子を観察。
さて、沼地の東側には人工地形と思われるV字形の堀底状の道が所在し丘陵上の竹林へと続いていますが、城館地形の一部と考えるには明らかに中途半端な観が。
同様の地形は馬場跡と伝わる沼地西側の部分にも所在し、何れも沼地へと下るための掘下げた里道のようなものと解されます。
なお、この西側部分にも地元の方の墓所や小祠とともにかつての桑畑と思われる段差を有する畑が所在。
あらためて、畑の農地改良による造成地形であることを実感。
念のため北側の真竹・篠竹に覆われた竹藪を拝見、しかし当然具体的成果などあるはずなども無く。
但しこの場所は西側の谷津を挟んで向かい側に所在している三門館に近く、その堀跡の一部とも考えられなくも無い地形の所在するという丘陵地帯の南側に当たることも事実。
憶測を呼ぶ「陣馬沼」の地名の由来そのものも、何やら意味ありげな印象ではありました。
陣馬沼
2007/01/08 撮影
凸三門館(和泉陣城とも) 午後14時15分から14時30分
「陣馬沼」の西側の丘陵地帯に所在し、この場所も約2年ほど前に訪れた個所。
両足の膝がそろそろ限界に近づきつつあることから、東側のV字状の「竪堀」のみを再訪。
間近に眺めるのは2度目ですが、南北と東西方向に刻まれた堀跡が具体的にどのような戦術的意図を有していたのかは、不勉強のために今以て分からず仕舞い。
仮に神社への堀下げた参道の一部というにしては、大かがりな普請であることは恐らく間違いの無いところにて。
なお、地理的な配置関係から総合的に考えれば南側の「泉福寺の遺構」「陣馬沼付近」「和泉山崎」などと本来は一体的に利用されていた可能性も否定できないものと考えられますが、勿論あくまで地理的な要素のみの妄想に過ぎず、具体的な根拠に乏しい憶測なのであります。
憶測・妄想で頭の中が混乱の一途を辿る中、帰路の交通渋滞を考えて東側からの堀跡がはっきりと分かるような画像をデジカメに納めたのち早々に撤収を開始。
三門館(和泉陣城)
207/01/08 撮影
Comment
こんばんは
こちらで言う和泉山崎という所は、私も行った事があります。
地形的に独立丘陵で、北側に沼地を配するという絶好の地形と思い、森林病院をウロウロと(笑
その後古代の遺跡であると言われて調査を諦めておりましたが、まだまだ青いですね。自らの目と手で確かめない内に諦めてしまう事ができなくなってしまった今となっては、多分何らかの手がかりを見つけようと更に探す事でしょう。
何はともあれ、湖沼めぐりお疲れ様でございます。
地形的に独立丘陵で、北側に沼地を配するという絶好の地形と思い、森林病院をウロウロと(笑
その後古代の遺跡であると言われて調査を諦めておりましたが、まだまだ青いですね。自らの目と手で確かめない内に諦めてしまう事ができなくなってしまった今となっては、多分何らかの手がかりを見つけようと更に探す事でしょう。
何はともあれ、湖沼めぐりお疲れ様でございます。
Re:こんばんは
やはり儀一殿も「和泉山崎の丘陵」に着目されましたか。
遅まきながら先ほど調べた所では、「滑川村史」によれば2基の古墳からなる「山崎古墳群」という名称で、「直刀」「鉄鏃」が出土したとの記述がありました。
小生が目にした高さ1mほどの塚状の墳丘もそのひとつと推定されます。
それにしても比高差の少ない割には、尾根続きの西側を除いて実に眺望の良い場所でありました。
遅まきながら先ほど調べた所では、「滑川村史」によれば2基の古墳からなる「山崎古墳群」という名称で、「直刀」「鉄鏃」が出土したとの記述がありました。
小生が目にした高さ1mほどの塚状の墳丘もそのひとつと推定されます。
それにしても比高差の少ない割には、尾根続きの西側を除いて実に眺望の良い場所でありました。