本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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中村城/群馬県前橋市粕川中町
2021年11月11日 探訪
午前10時40分から11時10分

稲里地区の馬頭観音立像の所在する地点から東の方角に向けてそのまま道なりに市道を移動開始。
途中で粕川の周を形成する小河川を渡河し中村城の所在する地点へと移動。
馬頭観音からのこの間の移動距離は概ね750mほどであろうか。
それでも赤城山山麓を東西に横断するとそのアップダウンの頻繁さが目に付く。
この程度の小河川によるアップダウンであればさほどの問題もない。
ところが情けないことにこれが等高線1本分(10m)の地形を越えるとなると、管理人のような高齢者にとっては足回りの疲労に影響が発生するようなのである。
この地域を歩き回る際には赤城山の登り坂となる北方向きの移動とともに、東西方向の移動についても十分に考慮しておく必要を感じるのであった。


■城域南辺の庚申塔群

さて中村城の城域は概ね120m四方の範囲に収まる規模で、山崎一氏の調査によれば主郭、南郭、北郭から構成されていたとされている。


■画像左の市道付近が北郭跡らしい

歴史的経緯については、一応「日本城郭大系」や「現地説明版」には中村右馬之丞の居城とも伝わるが、伝承の域を出ることがなく寧ろ不明な部分が多いようである。
また、武田勝頼の東毛侵攻時に落城したという旨の伝承もあるらしいが事実関係を示すような有力な文献資料は見当たらないらしい。
因みに「上野国志」「上毛古城累記」などの近世地誌類においても、この中村城或いは城主である中村氏についての記述は確認できない。
なお天正18年2月21日付と推定される「北条家朱印状」(北爪文書/群馬県史資料編7巻)には中村氏一族の氏名は見当たらない。
因みに武田勝頼の逸話でも知られている善城に近いという立地条件であることから、地衆である地侍層の館或いは寄居が同城の支城として改修拡張し機能していたという可能性は考えられるのであろう。
尤も近世における中村の男性人口は138人という記録があることから、数千人或いは万余の大軍の攻略の前には抗うすべが無さそうにも思える。
従って北条氏などの有力な援軍派遣が行われないような場合には、本格的な抗戦を行うことなく「降伏開城あるいは自落」というような局面を迎えたのかも知れないなどと勝手な思いを巡らせるのであった。


■現地の解説版
城館遺構については、現在でも北辺部の一部を中心に水堀を伴う折を有した土塁遺構が現存しており、前橋市の指定史跡を受けており北西角付近の市道沿いには解説版が設置されている。
尤も郭部分については宅地内でもあることから、あくまでも失礼のないように水堀越しに拝見するという見学方法が好ましいように感じた。


■折を有する水堀と土塁
比較的良好な保存状態ではあるが、西側との堀幅の違いから堀跡遺構自体は後の市道整備などにより一部消失しているという可能性もあるのであろうか。
また地衆の館跡としては些か規模も大きいようにも思われる。


■北西角付近の様子
一部残存している西側の堀跡の幅(上面)は8mを超え、現在でも2mから3mほどの深さを有しており平地の城館跡としては見応えがある。
現地解説版によれば、この画像の中央やや右付近に搦め手虎口の存在を明記しているが、現住宅地の一画であることからあくまでも公道沿いからの見学となった。


■「竜神の祠」
北西角付近の公道沿いに祀られている近世のものと推定される石祠。
雨乞い、豊作、水難除け、鬼門除けなどの意味合いであろうか。


■城域西側からの遠景


この日訪れた最初の城館跡であった。
前橋市指定史跡ではあるがどちらかといえば余り名が知られているとは言えないかもしれない。
けれども一部分とはいえども非常に良好な遺構を拝見し感激の至りであった。
土地所有者を含む関係者の皆様に感謝。

※この稿はブログ用画像の編集作業などの事情により
2021年11月17日に作成しています。

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