本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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本日は史進さんからのお誘いにより常陸方面へ。
茨城県は約1年半ぶりで、たぶん記憶では石岡市は初めてのはず。
当管理人は朧気ながらも筑波山には60年ほど前に訪れたものと記憶。
しかしその当時は東麓となる石岡市方面へと立ち寄ったかについては皆目不明。
尤もふとこのブログを起稿している最中に、その後の1988年頃に仕事で道路地図を頼りに国道6号線経由で水戸市内まで赴いていることを思い出した。
従って恐らくは石岡市域を通過はしているだろうとも思うのだが。
というくらいなのでこの地域については全くの予備知識ゼロ、土地勘ゼロの管理人なのであった。
凸片野城/茨城県石岡市
午前8時40分から9時50分
関東の戦国史では著名人の範疇に含まれると思われるあの太田資正の居城でもある。
因みに同氏の墓地が城内の浄瑠璃光寺墓地に現存。
また太田氏後裔の方による供養等も継承されている様子が窺えた。
因みに墓所の傍の真新しい解説版は、この10日間ほど前の資正の命日に設置されたもののようであった。
■太田氏墓所
なお設置されている五輪塔がそのまま当時の物であるのかは不明である。
あくまでも素人の印象に過ぎないのだが、その経年風化の様子からは幾分か比較的新しさを感ずるようにも思えたのだが果たしてどうなのであろうか。
まだ現在のところ同寺は些か山門などの付属建物の経年劣化が目立ち、恐らくは無住状態となっているのではないかとも思われた。
■浄瑠璃光寺山門
城域には菩提寺でもある同寺院のほか、その北に七代天神社の社域が隣接し、他に畑や果樹園などの耕作地も多く見られ山麓には民家も数多く存在しているという環境にある。
あくまでも民有地であることから部分的な区画形質の変更、或いは幾分藪化しているような箇所も見受けられる。
■主郭付近の様子と背景の筑波山
それでも太田資正公の20年以上にわたる居城として石岡市の指定文化財であることも背景にあるのだろうか、概ね中世城郭としての構造を想起できる遺構状態であるように感じられた。
なおこの日は晴天無風という好天に恵まれ、主郭付近からは日本百名山でもある霊峰筑波山を望むことが叶ったのは幸いであった。
なお駐車場所は太田氏の菩提寺でもある浄瑠璃光寺境内地を暫時借用させて頂いた。
凸高友古塁/茨城県石岡市
午前10時10分から10時35分
県史跡でもある丸山古墳がこの中世城館跡と重なっており、丸山古墳を目指せばそのまま高友古塁へと誘われるので先ずアプローチに迷うようなことは無いようである。
なおルートは途中で些か幅員の狭い急坂を登攀することとなるのだが、当該古墳には数台分位の専用駐車場も完備しているので誠に有難いことである。
■南側堀跡を東から撮影
丸山の前方後円墳を東側に寄せて大きくぐるりと囲い込むような形で空堀と土塁が周回しており、また公道を挟んだ南側の斜面には切岸状の段築状の地形も見受けられる。
空堀の堀幅は数メートル程ではあるものの、北側部分ではその深さは最大で5mを超えるような個所も散見され、かつ切岸の角度も鋭角であり一重とはいうもののその防御意思の強さが感じられる。
古墳の方は一部において後世における幾分破壊などの痕跡が認められるが、中世城館跡遺構の残存状況、整備状況は共に良好であるという印象を抱いた。
■南側虎口(入口)付近の様子
なおこの日は草刈りの整備のための現場確認作業が行われており、おそらく数日後にはより藪の少ない見学しやすい環境整備が為される模様であった。
凸二条山館/茨城県石岡市
11時00分から11時50分
城域の北側から里道を頼りにアプローチ。
「尾根筋」とまでは言えないような比高差30mにも満たない藪潜りである。
直線距離にして約100mほどのごく短い距離とはいえども本格的な藪潜りは久々であった。、高齢者の仲間入りを遂げている管理人としては、あらためて屈んでの移動と足を大きく上げての運動というものが不得手な状態に陥っているという厳然たる現実を痛感する。
携行しているストックも役に立たず、目前の倒木を股くべきか潜るべきかで大いに迷いに迷うのであった。
50年ほど以前には20キロ以上のリュックを背負い3泊4日の縦走を果たし、或いは「南アの北岳」程度には登れていた身なのではあるのだが。
もはや昔日の栄光の影は微塵も無いらしい。
■北側の空堀
城跡の見どころは北面に刻まれた三重土塁とこれにリンクしている東西の横堀のであるように感じた。
堀の深さは現状でも切岸としての高さが6mを超えるような個所も見受けられ、繁茂する木々に視界を遮られつつも城跡遺構の素晴らしさに浸ることができた。
とはいえある程度の藪を伴うので、やはりデジカメ撮影では「ただの藪」になりがちなのであった。
なお主郭部の様子は更に激藪状態でもあり些か観察が困難であった。
■西側の横堀
凸諏訪山館/茨城県石岡市
13時20分から13時40分
全く事前の下調べを行っていたかったのたが、下宿公民館とその付近には館跡の土塁の一部と思しき地形が残存していた。
なお2021年11月4日現在では、「いばらきデジタルまっぷ」には遺跡としての登録は為されていない。
遺跡の名称、歴史的背景などは不明の様である。
■土塁状の地形
凸諏訪山砦/茨城県石岡市
14時00分から14時15分
郭内は些か藪が濃いが、東面の切岸、南面の土塁、西辺の空堀などに見るべきものを感じた。
当該遺構とは無関係ではあるが、銀杏畑?の葉が黄葉の盛りを迎え、折からの西日に照らされその鮮やかさを際立てていたのが印象的であった。
■主郭西辺の空堀跡
■西日を浴びる銀杏
谷田部東PAにて夕食。
そののち圏央道では予想以上の渋滞の渦中に嵌る。
主に断続する対面通行区間によるものと考えられ、これに東北道への分流の影響が加わったものと見られる。
自宅への帰着は午後7時40分頃であった。
もはや目標に対して単独では気力体力が追い付かない年代となったようである。
史進さんのお誘いと的確なナビによって再び常総方面の藪城との対峙が叶った。
心より深謝いたします。
茨城県は約1年半ぶりで、たぶん記憶では石岡市は初めてのはず。
当管理人は朧気ながらも筑波山には60年ほど前に訪れたものと記憶。
しかしその当時は東麓となる石岡市方面へと立ち寄ったかについては皆目不明。
尤もふとこのブログを起稿している最中に、その後の1988年頃に仕事で道路地図を頼りに国道6号線経由で水戸市内まで赴いていることを思い出した。
従って恐らくは石岡市域を通過はしているだろうとも思うのだが。
というくらいなのでこの地域については全くの予備知識ゼロ、土地勘ゼロの管理人なのであった。
凸片野城/茨城県石岡市
午前8時40分から9時50分
関東の戦国史では著名人の範疇に含まれると思われるあの太田資正の居城でもある。
因みに同氏の墓地が城内の浄瑠璃光寺墓地に現存。
また太田氏後裔の方による供養等も継承されている様子が窺えた。
因みに墓所の傍の真新しい解説版は、この10日間ほど前の資正の命日に設置されたもののようであった。
■太田氏墓所
なお設置されている五輪塔がそのまま当時の物であるのかは不明である。
あくまでも素人の印象に過ぎないのだが、その経年風化の様子からは幾分か比較的新しさを感ずるようにも思えたのだが果たしてどうなのであろうか。
まだ現在のところ同寺は些か山門などの付属建物の経年劣化が目立ち、恐らくは無住状態となっているのではないかとも思われた。
■浄瑠璃光寺山門
城域には菩提寺でもある同寺院のほか、その北に七代天神社の社域が隣接し、他に畑や果樹園などの耕作地も多く見られ山麓には民家も数多く存在しているという環境にある。
あくまでも民有地であることから部分的な区画形質の変更、或いは幾分藪化しているような箇所も見受けられる。
■主郭付近の様子と背景の筑波山
それでも太田資正公の20年以上にわたる居城として石岡市の指定文化財であることも背景にあるのだろうか、概ね中世城郭としての構造を想起できる遺構状態であるように感じられた。
なおこの日は晴天無風という好天に恵まれ、主郭付近からは日本百名山でもある霊峰筑波山を望むことが叶ったのは幸いであった。
なお駐車場所は太田氏の菩提寺でもある浄瑠璃光寺境内地を暫時借用させて頂いた。
凸高友古塁/茨城県石岡市
午前10時10分から10時35分
県史跡でもある丸山古墳がこの中世城館跡と重なっており、丸山古墳を目指せばそのまま高友古塁へと誘われるので先ずアプローチに迷うようなことは無いようである。
なおルートは途中で些か幅員の狭い急坂を登攀することとなるのだが、当該古墳には数台分位の専用駐車場も完備しているので誠に有難いことである。
■南側堀跡を東から撮影
丸山の前方後円墳を東側に寄せて大きくぐるりと囲い込むような形で空堀と土塁が周回しており、また公道を挟んだ南側の斜面には切岸状の段築状の地形も見受けられる。
空堀の堀幅は数メートル程ではあるものの、北側部分ではその深さは最大で5mを超えるような個所も散見され、かつ切岸の角度も鋭角であり一重とはいうもののその防御意思の強さが感じられる。
古墳の方は一部において後世における幾分破壊などの痕跡が認められるが、中世城館跡遺構の残存状況、整備状況は共に良好であるという印象を抱いた。
■南側虎口(入口)付近の様子
なおこの日は草刈りの整備のための現場確認作業が行われており、おそらく数日後にはより藪の少ない見学しやすい環境整備が為される模様であった。
凸二条山館/茨城県石岡市
11時00分から11時50分
城域の北側から里道を頼りにアプローチ。
「尾根筋」とまでは言えないような比高差30mにも満たない藪潜りである。
直線距離にして約100mほどのごく短い距離とはいえども本格的な藪潜りは久々であった。、高齢者の仲間入りを遂げている管理人としては、あらためて屈んでの移動と足を大きく上げての運動というものが不得手な状態に陥っているという厳然たる現実を痛感する。
携行しているストックも役に立たず、目前の倒木を股くべきか潜るべきかで大いに迷いに迷うのであった。
50年ほど以前には20キロ以上のリュックを背負い3泊4日の縦走を果たし、或いは「南アの北岳」程度には登れていた身なのではあるのだが。
もはや昔日の栄光の影は微塵も無いらしい。
■北側の空堀
城跡の見どころは北面に刻まれた三重土塁とこれにリンクしている東西の横堀のであるように感じた。
堀の深さは現状でも切岸としての高さが6mを超えるような個所も見受けられ、繁茂する木々に視界を遮られつつも城跡遺構の素晴らしさに浸ることができた。
とはいえある程度の藪を伴うので、やはりデジカメ撮影では「ただの藪」になりがちなのであった。
なお主郭部の様子は更に激藪状態でもあり些か観察が困難であった。
■西側の横堀
凸諏訪山館/茨城県石岡市
13時20分から13時40分
全く事前の下調べを行っていたかったのたが、下宿公民館とその付近には館跡の土塁の一部と思しき地形が残存していた。
なお2021年11月4日現在では、「いばらきデジタルまっぷ」には遺跡としての登録は為されていない。
遺跡の名称、歴史的背景などは不明の様である。
■土塁状の地形
凸諏訪山砦/茨城県石岡市
14時00分から14時15分
郭内は些か藪が濃いが、東面の切岸、南面の土塁、西辺の空堀などに見るべきものを感じた。
当該遺構とは無関係ではあるが、銀杏畑?の葉が黄葉の盛りを迎え、折からの西日に照らされその鮮やかさを際立てていたのが印象的であった。
■主郭西辺の空堀跡
■西日を浴びる銀杏
谷田部東PAにて夕食。
そののち圏央道では予想以上の渋滞の渦中に嵌る。
主に断続する対面通行区間によるものと考えられ、これに東北道への分流の影響が加わったものと見られる。
自宅への帰着は午後7時40分頃であった。
もはや目標に対して単独では気力体力が追い付かない年代となったようである。
史進さんのお誘いと的確なナビによって再び常総方面の藪城との対峙が叶った。
心より深謝いたします。