本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
カレンダー
10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 8 | 9 | ||
10 | 11 | 12 | 13 | 15 | 16 | |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
カテゴリー
最新CM
中城の歴史の引用について(返信済)
(07/01)
おつかれさまでした(返信済)
(11/09)
無題(返信済)
(12/17)
お疲れ様でした(返信済)
(10/13)
お疲れ様でした(返信済)
(03/22)
最新TB
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
アクセス解析
フリーエリア
本日は運転免許証の更新にて候。
訳有之由、鴻巣迄出張候。
凸源範頼館(吉見町)午後1時40分~2時20分
治承・寿永の乱の中では勝者側の人物である源範頼の館跡と伝わっています。
しかし義経、頼朝などと比較すると、明らかに目立たない歴史的人物かと。
伝承の真偽はさておき、館跡と伝わる新義真言宗息障院の周囲に驚くほどに明確な堀跡が現存しています。
ただし東側の部分は用水路の改修のため、現在は殆ど原型を止めていません。
南側も延長にして30mほどの堀跡が遺されていますが、やや整備されすぎたという印象があります。
北側の県道271号線沿いの堀跡は用水路も兼ねている為に、明らかに後世の改修が加えられているように見受けられます。
これに対して西側の部分については、ことによると畑の根切りの役目もあるかも知れませんが、比較的手が加えられていない様子が窺えます。
館の規模はおよそ東西120m、南北100mの矩形を呈していまが、「吉見町史」の記述によれば、後世の寺院としての構堀である可能性を示唆していました。
源範頼館
2006/12/12
比企郡吉見町にて撮影
凸御所陣屋(吉見町)午後2時25分~2時45分
延喜式に記される横見神社の辺りが該当地の模様。
また源範頼の館跡との伝承も。
「新編武蔵風土記稿」の記述によれば代官中川八郎左衛門の居館もこの付近に所在したとのこと。
横見神社の境内には古墳の跡と見られる土壇が存在し、南側と東側には深さ2m、幅約3間ほどの水堀跡も。
北側には用水路が現存しているものの神社側が1メートルほど高く、西側でも水田との比高差が1メートル以上を測るようです。
正確な所在地の問題、歴史的経緯に関する問題、そして現存する遺構の取り扱い...と随分贅沢な悩みですが、いずれにしてもこれらの遺構と城館跡との歴史的関係がいまひとつ不明にて。
このあと、雨脚がいくぶん強くなり始めてしまい撤収開始。
■追記(2006/12/13)
翌日吉見町の教育委員会に確認したところでは、御所陣屋とこの横見神社との関係は不明で、また現存する堀跡の歴史的背景も不詳とのこと。
御所陣屋の所在地についてはこの横見神社が「御所」の北端に当たるのでこれより南側の地域に所在したと推定されるとの見解でした。
また、安楽寺の北西方向に「御所堀」といわれる伝承地名が存在し、範頼の館の候補地のひとつとされています。
御所陣屋付近の横見神社
2006/12/12
比企郡吉見町にて撮影
自宅の玄関前とはいえ、駐車違反には相違無由にて御座候。
38年間で初めての違反にて候。
しかし、そのお蔭で帰りがけに小雨模様の中を吉見町へ寄り道。
その結果久しぶりにまともな遺構に出会うことができて、思いのほか充実致した午後に相成りました♪♪
訳有之由、鴻巣迄出張候。
凸源範頼館(吉見町)午後1時40分~2時20分
治承・寿永の乱の中では勝者側の人物である源範頼の館跡と伝わっています。
しかし義経、頼朝などと比較すると、明らかに目立たない歴史的人物かと。
伝承の真偽はさておき、館跡と伝わる新義真言宗息障院の周囲に驚くほどに明確な堀跡が現存しています。
ただし東側の部分は用水路の改修のため、現在は殆ど原型を止めていません。
南側も延長にして30mほどの堀跡が遺されていますが、やや整備されすぎたという印象があります。
北側の県道271号線沿いの堀跡は用水路も兼ねている為に、明らかに後世の改修が加えられているように見受けられます。
これに対して西側の部分については、ことによると畑の根切りの役目もあるかも知れませんが、比較的手が加えられていない様子が窺えます。
館の規模はおよそ東西120m、南北100mの矩形を呈していまが、「吉見町史」の記述によれば、後世の寺院としての構堀である可能性を示唆していました。
源範頼館
2006/12/12
比企郡吉見町にて撮影
凸御所陣屋(吉見町)午後2時25分~2時45分
延喜式に記される横見神社の辺りが該当地の模様。
また源範頼の館跡との伝承も。
「新編武蔵風土記稿」の記述によれば代官中川八郎左衛門の居館もこの付近に所在したとのこと。
横見神社の境内には古墳の跡と見られる土壇が存在し、南側と東側には深さ2m、幅約3間ほどの水堀跡も。
北側には用水路が現存しているものの神社側が1メートルほど高く、西側でも水田との比高差が1メートル以上を測るようです。
正確な所在地の問題、歴史的経緯に関する問題、そして現存する遺構の取り扱い...と随分贅沢な悩みですが、いずれにしてもこれらの遺構と城館跡との歴史的関係がいまひとつ不明にて。
このあと、雨脚がいくぶん強くなり始めてしまい撤収開始。
■追記(2006/12/13)
翌日吉見町の教育委員会に確認したところでは、御所陣屋とこの横見神社との関係は不明で、また現存する堀跡の歴史的背景も不詳とのこと。
御所陣屋の所在地についてはこの横見神社が「御所」の北端に当たるのでこれより南側の地域に所在したと推定されるとの見解でした。
また、安楽寺の北西方向に「御所堀」といわれる伝承地名が存在し、範頼の館の候補地のひとつとされています。
御所陣屋付近の横見神社
2006/12/12
比企郡吉見町にて撮影
自宅の玄関前とはいえ、駐車違反には相違無由にて御座候。
38年間で初めての違反にて候。
しかし、そのお蔭で帰りがけに小雨模様の中を吉見町へ寄り道。
その結果久しぶりにまともな遺構に出会うことができて、思いのほか充実致した午後に相成りました♪♪
Comment
ニアミス
昨日の午前中は、定期健康診断が終了し、その足で川島へ向かうも、なぜかルート変更して松山城、城ケ谷、森川氏陣屋へ。かなり近いところにいましたね。
午後は娘が学校から帰ってきますので、なかなか動きがとれず・・・無念。
ところで源範頼館、まことに的を射た検分、恐れ入りました。
御所陣屋は迷った挙句、断念しています。今度訪問してみようかと。
午後は娘が学校から帰ってきますので、なかなか動きがとれず・・・無念。
ところで源範頼館、まことに的を射た検分、恐れ入りました。
御所陣屋は迷った挙句、断念しています。今度訪問してみようかと。
Re:ニアミス
前日から鴻巣の帰り道に予定していた個所が発掘後埋め戻されているという事情に加えて、当日になってからよくよくルートを確認すると明らかに遠回りであることに気がつきました。
このため急遽大串氏館を含む吉見町の3ヶ所に目的地を変更。
こうした結果、些か時空間が異なるかも知れませんが、本当に近くまで接近していたようですね。
昨日は天候が安定せず途中で雨脚が強くなリ始めたこともあり、横見神社の深さ2mほどの謎の堀跡を降りる際にものの見事に滑りましたです。
一昨日の神戸沼の場合だったら、間違いなく大事に(冷汗)
こうした事情もあり、河川敷の大串氏館については走行中の車中から一瞥するに止め、後日天候の良いときに周辺の板碑・宝篋印塔などの見学ともに再訪することと致しました。
さて、訪城予定の史料だけは山ほど透明フォルダーに収納済み。
今ざっと調べた所では、100ヶ所ほどがいつでもスタンバイ..のはず。
しかしよく調べてみると全く同じものがあったりしますので、とても整理とは程遠い状態でありました(笑)
このため急遽大串氏館を含む吉見町の3ヶ所に目的地を変更。
こうした結果、些か時空間が異なるかも知れませんが、本当に近くまで接近していたようですね。
昨日は天候が安定せず途中で雨脚が強くなリ始めたこともあり、横見神社の深さ2mほどの謎の堀跡を降りる際にものの見事に滑りましたです。
一昨日の神戸沼の場合だったら、間違いなく大事に(冷汗)
こうした事情もあり、河川敷の大串氏館については走行中の車中から一瞥するに止め、後日天候の良いときに周辺の板碑・宝篋印塔などの見学ともに再訪することと致しました。
さて、訪城予定の史料だけは山ほど透明フォルダーに収納済み。
今ざっと調べた所では、100ヶ所ほどがいつでもスタンバイ..のはず。
しかしよく調べてみると全く同じものがあったりしますので、とても整理とは程遠い状態でありました(笑)