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明日以降の冷え込みと強めの季節風を考えれば、出かけるのはこの日をおいてほかに無しとと思い立ち今回も日の出前の午前5時頃に自宅を立った。
2014年頃から薄々感じてはいたのだが、とりわけ昨年末頃から足回りの運動機能の低下が一段と顕著となって来たように感じる。
そこに加えて年末から正月にかけての怠惰な日常生活もある。
かくして昨年までと同じ行動が可能かどうかは全く不透明な状況下の探訪なのであった。
このためこの時期は藪が少ないからなどといって、間違ってもいきなり山城の類に出向くというのは余りにも無謀であるように思えたのであった。
とはいうものの、現実の足回りの健康状態を確認しておく必要もある。
それならばなるべく平坦地で、それでいてある程度は歩いてみて、多少は体に負荷をかけて様子をみて見ることとした。
かといって2年前の東北北部遠征のように、正直なところ1日で4万歩以上を歩くのはもう無理なようにも感じている。
とはいうものの「さいたま市」などの、あまり近くではモチベーションの維持が難しい。
このような次第で、群馬県方面で間違っても積雪の無い、かつ片道2時間ほどで自分にとって空白地の多い前橋市内を目指すこととしたのであった。
◎女堀(群馬県伊勢崎市)
午前7時00分から8時00分まで
この「女堀」の存在を知ったのは、もう15年ほど前になるのだが、実際のところ中世初期頃の灌漑用水跡ということもあり余り気にとめてはいなかった。
この遺構は「城館跡」とは直接の関連は薄く、あくまでも平安時代末期頃に築造されたと推定されている国指定史跡の「未完の灌漑用水路跡」であり、昨年春先に入手した「伊勢崎市文化財ハンドブック」などによると、上泉から田部井にかけて存在しその総延長は約13kmとされている。
同遺構については、その後の開墾、圃場整備、宅地化などにより消滅しているような個所もあり、その痕跡は何か所かに分散して遺されているらしい。
今回は伊勢崎市内の「赤堀しょうぶ園」として公園として整備されている個所を訪れた。
この個所は2か所のトイレ付の駐車場も完備していることから、極めて利便性は高く訪問者に知っては誠に有難い。
とはいうものの、平日の早朝で「しょうぶ」の季節とは無関係の冬枯れの菖蒲田であったことから、同園内では散歩をしている方にさえ全く出会うようなことは無かった。
さて同公園整備に当たり地形改変されている部分もありそうに思われたのだが、とりわけ西側の堰堤に相当する個所の土木工事の規模の壮大さに瞠目することとなった。
現在の菖蒲田の地表からは5mを超えるような土塁状の地形が現存しているたのには全く予想外であった。
当該延長距離も地図などを参照すると約300mほどはある大規模なものであり、こういう永年にわたる土木工事技術の蓄積が、後の城館築造技術への基盤となって行った側面もあるのかも知れないなどと想いを廻らす。
女堀の土手
むろん妄想の域を出るものではないのだが、後の時代に「陣城」の代用として利用された可能性は皆無であったのだろうかとも感じてしまうほどの土塁状の人工地形なのであった。
次は前橋市内の二之宮に残るという関連が窺える「女堀沼」方面も訪れてみようと思うのであった。
◎大室古墳群(群馬県前橋市)
午前8時15分から9時15分まで
この季節は未だに日差しが鈍いこともあり、当初の予定通りに著名な大室公園内で古墳の見学をした。
むろん堅実な駐車スペースの確保という側面もあったのだが。
さて徐に古墳の見学を始めようと身支度をしていると、車を駐車した植え込みに余り人見知りしない大人のネコさんと目が合ってしまった。
この日の日当たりは頗る良好で風も無風に近いのだが、まだまだ太陽の位置は低く氷点下ではないものの流石に気温は低く空気は冷たく感じた。
そうこうしているうちに、もう一匹の若いネコさんが日向ぼっこに合流した。
2匹共に毛並みも良くガリガリではなかったので、たぶん半家ネコなのかも知れない。
せっかくなのでひとしきりネコさんと戯れてしまった。
園内ではひととおり前二子、中二子、後二子と小二子の順で4か所を歩き、次の目的地である大室元城を目指すべく北側入口方面から退出した。
中二子古墳
古墳に付随する水濠、堰堤は後の時代の城館築造の技法に一定の影響を与えていることは否めないものと考えられ、あらためて古墳の築造技術のレベルの高さに感心してしまうのであった。
凸大室元城(群馬県前橋市)
午前9時40分から10時10分
南方約400m地点に所在する大室城以前の城跡とされ、白井城の属城ともいわれてはいるが、寧ろその真偽詳細は不明なようにも思える。
有難いことに地元郷土史会と思われる「荒砥史談会」の方々の設置された標柱が城跡の東側行動沿いに建てられているので、所在地だけはとても分かり易い。
一方で、城館跡の遺構については皆無に近いものがあり、僅かに西から南にかけて存在している比高差4mほどの崖線部分の存在がその残滓を伝えているのみであった。
「前橋市史第2巻」の記述によると、遺構の消滅時期は比較的早く、明治末期までは円丘上に単郭の遺構が存在していたが、既に大正期には城館遺構は消滅しているとのことであった。
おそらくは近代における耕作地の開墾に伴い、堀跡などの遺構が埋め立てられたものと思われる。
南西方向から
なお、この赤城山南麓の地形は南北に赤城山を水源とする小河川が南流し、その間に南北方向の低丘陵が散在するという地形が多く見られ、この大室元城もそうした低丘陵の南端に位置している。
◎伊勢山古墳(群馬県前橋市)
10時20分から10時30分
古墳つながりで、近くに所在するこちらの古墳も訪れてみた。
西神沢川を東に望む低丘陵地の辺縁部を利用した古墳で、頂部には五所稲荷神社の社が鎮座している。
比高8m前後の中規模の前方後円墳であろうか。
南側麓には古墳に付随する堀か、後世の耕作道か不明な堀状の道が存在している。
なお、この祠が今年の初詣となった。
伊勢山古墳
この辺りには古墳と城館跡などが濃密に混在していることもあり文化財めぐりには事欠かないようだ。
◎産泰神社(群馬県前橋市)
10時40分から10時50分
国土地理院の地図を眺めていたところ、見事な独立丘陵であったことから訪れてみたものである。
産泰神社の独立丘陵
「さんたいじんじゃ」と読み、安産と子育て祈願のご利益があるという。
正月でもあり、適齢期の善男善女が三々五々参詣に訪れていた。
直接城館跡、古墳などとは関係は無さそうなのだが、東側から遠望する限りでは満更無縁とは思えない地形を成していた。
ただし、丘陵の中心部に大きな境内地が所在しているため、元の地形が不明なのであった。
凸大室城(群馬県前橋市)
11時15分から12時30分
土塁、堀跡、郭跡などの遺構が残されている。
城域の南端は神沢川の合流地点辺りまでと推測されていることから、真言宗観昌寺を参拝し当該地点まで足を延ばしてみたが、むろん遺構と呼べるような形跡は確認できなかった。
主郭北側の小郭(一説には「櫓台」とも)はあまり目立たないが、東側の堀跡と共に西辺の土塁も明確に残存していた。
主郭北側の郭で櫓台とも
主郭部は大室神社境内地で、東側の二の郭は公民館敷地として利用されているため、残存する遺構は城域の広さの割には極めて限定的であるように感じた。
「現地解説版」「前橋市史第2巻」などによると、天正13年の白井長尾氏による重臣である牧弾正父子誅殺が伝わるのだが、一方「石川忠総留書乾」によれば、多留城での出来事であることが記されている。
また白井長尾氏の領分とされる白井領の範囲からは大分離れているように思われるが、これは長尾政景(鳥房丸、憲景の次男で輝景の弟とされている)に対して北条氏直により天正11年6月に充行いされたものであるともいう。
参考資料 「白井長尾氏の研究」(増補改訂戦国大名と国衆/黒田基樹著/戎光祥出版)
◎荒砥富士山古墳(あらとふじやまこふん、群馬県前橋市)
12時30分から12時45分
大室城の西側500m地点に所在する古墳である。
形態は恐らく円墳もしくは帆立貝型であろうか、手元に詳しい資料が無いので今のところは不明。
荒砥富士山古墳
前橋市指定文化財であり文化財標柱が設置されている。
凸下境遺跡(群馬県前橋市)
12時50分頃から13時00分頃まで
一応「マッピングぐんま」に掲載されている「城館跡」である。
「前橋市」(市町村)+「城館」(遺跡の種別)で検索すると100件を大きく超える「城館跡」の一覧が表示された。
たまたま大室城周辺であったことから訪れてみたに過ぎない。
県教委の悉皆調査以降に発掘調査により確認された耕作地の中の遺構なのだが、現在は中心部に用水路が存在している。
周辺部の地形や当該地表上から、その特徴を汲み取ることは困難であった。
このため、赤城山方面をバックにした冬枯れの耕作地の画像となってしまったのである。
下境遺跡
もしもかりに「城館」という遺構の種別を示すカテゴリの入力誤りであったらどうしようと思ってしまうほどの周辺環境でもあった。
むしろ、東側に隣接している「薬師堂」が所在している低丘陵地形の方が、大室元城などの立地条件に近くはるかに城館跡の存在に相応しいように思えてしまったくらいであった。
因みに発掘調査報告書は「下境1・2(ギリシャ文字)遺跡」であるが、直接当該報告書を確認してはいないという怠慢な態度は変わってはいない (^^ゞ
また、「前橋市遺跡分布地図」にも掲載されているという。
なお、「マッピングぐんま」に掲載されている文化財包蔵地情報の精度は情報提供元と考えられる市町村側の事情の相違に大きく影響されているようだ。
前橋市内分については、検索キーの設定が同市の遺跡番号による登録が為されているという事情があり、逐一個別に詳細情報を確認しないと「城館名称」が判明しないという不便さを抱えていることに留意する必要がある。
今回は足回りの健康状態確認のためにあえて徒歩で回遊しているのだが、南方約150m地点に「舞台組公民館」という地域の集会所があり、短時間ならばこちらに駐車させていただくのが良いのかも知れない。
凸荒子の砦(群馬県前橋市)
13時10分から13時20分
現地には大きな「忠霊塔」が設置されており「林の広場」とも呼ばれている公園となっている。
この設置工事に関連していると思われる土塁状の地形が認められるが、勿論近代以降のものであり城館地形とは直接の関係は無いようだ。
1971年に刊行された「前橋市史第2巻」によると、台地続きとなってる東側部分に濠があったのではないかとも推定しているが、現在では宅地化、道路建設などによりその面影は感じられない。
現在は水路となっている小流により浸食された崖線地形のみが、唯一城館跡との関連性を窺わせるだけである。
荒子の砦
なお比高数メートルほどの崖線地形の先端部に所在していることから、前項の「下境遺跡」の個所からも観望できる位置関係にある。
彼我の距離は直線にして約300mほどに過ぎない指呼の間である。
因みに、同遺跡を流れている水路はそのままこの「荒子の砦」の崖線下の小流となって下っている。
この後、すぐ近くの「そば・うどん店」での昼食を考えたが、往路には開店時間前であったために入店できなかった「そば専業店」である「蕎麦仙人」の方へと足を延ばして、「とろろそば大盛り税込1050円」で昼食を摂り、ほぼ払底しつつある英気を養い、大室城跡東端の水路部分を再確認して車を停めていた「大室公園」まで戻った。
◎梅木屋敷(群馬県前橋市)
14時45分から14時50分
古墳時代の豪族の屋敷跡が検出された辺りの画像で、奥に見える丘陵はたぶん赤堀茶臼山古墳で、毒島城の西側の丘陵地帯に相当するはずなのだが。
この日の探訪は城館跡4か所、古墳6か所、古墳時代の屋敷跡1か所、神社仏閣4か所となった。
時刻は未だ午後3時前ではあったが、この時点でそれなりに足の疲労感もあり、帰路の渋滞等を考慮してやや早めの帰宅とした。
この日は多少朝の通勤ラッシュ時と重なったが、幸いにして大きな渋滞には見舞われず、また翌日が前橋市内の交通規制を伴う正月イベントが予定されていることを知ったのは出向いてからであった。
天候はこの時期にしては風邪もなく穏やかで温かな日差しが降り注ぐという一日であった。
総歩数は約2万7千歩で、右膝と足先などに多少の違和感と痛みは感じていたが、どうにか歩き通すことができた。
足回りの疾患が持病とも転化しつつある現状では、あと少なくとも2、3回は同様に群馬県内の比較的平坦な地形を目指す心積もりである。