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今月11日の新潟遠征では、尾根道の些細なアップダウンの繰り返しで近年の体力低下を露呈してしまった。
両足の太腿が痙攣するというのは、全く初めての経験であり、ご同行いただいた皆様方には、ただただ足手まといとなり誠に申し訳ない失態でありました。
そうしたこともあり、現在における体力・気力の状態を検証すべく、今年の春先に行きそびれた山城へと向かうこととした。
とはいえ、それほど遠方に出向くのは厳しいので、ある程度はその様子が分かる地域となった。
この日は自宅を午前4時30分に出発。
いつも通り国道254線から407号線へと入り、熊谷からは今年だけでも数回は往復している上武道路経由で渋川へと向かい、17号線を北上して353号線長野街道を中之条町へとひた走った。
途中2度ほどトイレ休憩などを挟んだが、概ね午前8時前には最初の目的地の麓へと到達した。
凸横尾八幡城(群馬県中之条町)
午前8時00分から8時50分
◎城跡へのアプローチ
中之条町から国道145号線を北西に進んだ。
横尾交差点で左折して県道231号線を北東に約500mほど進んだところに城跡への登り口が所在している。
一般にはこの栃瀬集落南西の林道から向かう方も多いようである。
しかし、ここからは城跡までそのまま車で行けるかどうか、駐車スペースの存在を含めて微妙であった。
そこで少々遠回りなのではあるが、確実に駐車できそうなさらに400m先にある城跡北東の林道入り口へと向かってみることにした。
結果的にこの林道入口には軽ならば2台ほどは停められそうなスペースもある。
また、城跡の解説版も設置されていることもあるので寧ろ分かり易いようにも思えた。
こうして、まずは起点は確保することができた。
城跡北東部の登り口
次にこの地点に戻ることも選択肢に入れつつ、試に直接城跡近くまで車でアプローチしてみた。
林道は100mほど走ると途中で二差路となるが、無論ここは城跡の方向である左へと進んでゆく。
林道は舗装済みでなのではあるのだが、落ち葉が降り積もっていることからタイヤが滑り易いので注意が必要だろう。
小さな谷筋を渡ると再び二差路の分岐に出る。
ここを左に進んで城跡の西側へと到着した。
起点からは僅か約400mほどの距離に過ぎないのであった。
事前情報通りとくに見学者用の駐車スペースは無いが、短時間ならば林道脇に寄せるなどをすれば駐車は可能な様子であった。
むろん林道自体の道幅が狭いこともあり、3ナンバーでは迷惑の度合いも大きく、あくまでも「軽ならば可であるのかも知れない」というところであるのだろう。
栃瀬集落南西の林道も反対側から登ってくるので同じ場所に出る。
道路の傾斜や路面状況を勘案すると、やはり北東側からアプローチする方が問題が少なそうに思われた。
北東方からの遠景
◎見学と感想
やはり事前の情報通り、主郭付近はすでに落葉の季節ではあったのだがヤブが酷かった。
主郭部の東屋と標柱付近については、ある程度下草を刈り取っているという形跡は感じられたのだが、全般的に通しが良くないのが残念であった。
主郭東側はノイバラの類が群生中で、東側虎口を視認したところでそれ以上の前身は断念することとなった。
主郭部の土塁も一応現存しているが、土塁上とその周辺にもヤブが多く視界が遮られていた。
腰郭と思われる部分には地元の墓地が散在しており、見学にはあくまでも失礼の無いように心掛けねばならない。
有名な真田氏による築城説もあり、町指定史跡でもあるのだが、諸般の事情により史跡としての整備は十分では無いように感じた。
「草刈りボランティア」の募集でもあれば喜んで参加したいとさえ思った。
ここで早朝に購入しておいた朝食代わりのサンドウィッチを給水を摂りつつ腹におさめた。
さて、中世の沼田街道はこの城跡の北部を通っていたという説があるらしい。
もしそうであるとするならば、主郭部が土塁や腰郭などによりぐるりと囲繞されてはいるが、それほど防御性が高いという印象は感じられなかった。
北側の土塁を含む切岸の高さは最も高い部分でも3m強を測るのみであったが、東側になるに従い高さを減じていた。
さらに南側に至っては土塁の高さ1m前後を測るに過ぎなかった。
もちろん経年劣化や土地利用などにより、そうした遺構の規模が減じられていることを考慮に入れても、天正17年の戦いで尻高氏を含む真田勢が、数に優ると考えられる後北条氏の軍勢を援軍とともに撃退したとは俄かには信じがたいものを感じたというのが正直な感想である。
そうした歴史的経緯のある城跡であるとすると、その遺構の現状からは縄張の規模の小ささと防御の脆弱性については疑問の余地があるように思えたのであった。
なお枡形が所在するという部分は、識者により見解が分かれているようである。
地元の研究者である飯森氏が指していると推定される個所はアズマザサなどが繁殖し地表観察はほぼ困難であった。(「ぐんまの城30選」)
宮坂氏の指している枡形は土塁により曲折した通路を形成してはいるが、後世の地形改変の影響も少なくないのか、残存している土塁自体の規模が些か貧弱であるようにも思われて、その防御性にさえも疑問を感じてしまったのであった。
主郭部
この城に関しては「在番衆」に関する古文書(八幡山番帳)が伝わっていおり、吾妻地衆による各組30名ほどの在番が2組交互で在城していたとされている。
危急存亡の臨戦態勢下においても、そう多人数が籠ることのできる規模ではなく、短期間であったとしても100名ほどが上限であるように感じた。
あくまでも沼田へ通じる街道監視のための役割に限定された城塞であったのかも知れない。
北側から眺めた榛名山方面
凸並木城(群馬県高山村)
午前9時25分から10時00分
国道145号線に戻り東方の尻高元宿集落に向かった。
泉龍寺の高野槇への案内標柱が設置されている個所に「尻高城」に関する解説版も併設されていた。
並木城は山上の狭義の尻高城の里城というように解されているらしい。
もしも足回りに余り自信が無ければ、この解説版と並木城の標柱などを撮影して次の目的地へと移動するという選択肢も無くは無いとも思う。
現地の案内板などでは並木城と表記されているが、別名を戸室城ともいい、諸書によると白井長尾氏から分かれたといわれている尻高氏の本拠地であるとされている。
並木城の案内板は北の泉龍寺へと向かう緩やかな上り坂の道路右端に設置されている。
並木城跡の標柱と解説版は、そこから少し離れた直線で南東約100mの地点に所在しており、その所在の探索に少々手間取ってしまったのだが、少しうろうろと歩き回るか、おいでになる地元の方にお聞きすれば多分分かるとは思った。
城跡標柱と解説版
因みにこの里城が所在している元宿の集落からは直接尻高城の主郭までは直線にして約1.2km、比高差にして約250m前後はあるらしいので、できるだけ麓近くまでアプローチができることを祈った。
なお当該地点からは尻高城の尾根筋は概ね視野に捉えることができていると思われた。
尻高城方面の遠景
城跡中心付近の土塁状の地形
城跡を北側から
凸尻高城(群馬県高山村)
午前10時20分から午後12時30分
昼食午前11時40分から11時50分
(コンビニで購入したオニギリ1個と水分補給)
どうにか城跡山麓の南側まで車でアプローチできたことから、お蔭で主郭部までの比高差は約170m程度まで圧縮ができた。
しかし、尻高城自体はそのルートにある程度の急斜面が含まれている山城である。
先日の日曜日に発症した太腿の痙攣のような状態だけは何としても避けねばならない。
もし仮に上りで発症した場合には、即刻退散することも事前に選択肢として脳裏に刻んでいた。
この程度の山城でアウトならば、年齢的にももう今後は山城探訪とは縁遠くなるのであろうことも念頭に置いていた。
むろん事前の対策として、所要か所に複数のテーピング、両膝保護にもサポーター装着、歩きはじめの前に筋肉の違和感の有無をチェックした。
いわば背水の陣であった。
さてルートは途中2か所で急斜面が所在していたが、やや新しめのロープが設置されていたことからそれほど難は無く登ることができた。
有難い岩場のロープ
一方心肺機能の方は時間をかけてゆっくりと登って行ったことから余り問題は無かった。
けれども多少の急斜面があるとはいえ、わずか比高差約170mを1時間20分も要していることから、比高差300mを約1時間前後で登っていた50年前の昔をいたく懐かしく感じていた。
若い元気な方ならばたぶん40分前後で登ることができるのかも知れない。
一方下山の方は滑らないように注意は必要だが、概ね40分ほどを要すだけにとどまった。
これもお若い元気な方ならば多分所要時間は30分少々なのだろう。
下りの基本はは両膝のバネを利かして降りるのだが、最早自分の膝にはバネは喪失しているらしく、携行しているストックを頼りに枯葉で滑落しないように用心深く歩く以外にはなかった。
10年以上前に秩父地方の山城に出かけた際には、お遍路にも利用されている穏やかな下山路を大股で走って降りてきたことをふと思い出した。
あの時分は登りは苦手だったが、未だ下りの方は割と早かったようだ。
今は、ゆっくりと、転ばぬように、滑らぬように、怪我をせず、何をおいてもとにかく無事に帰るということが最優先となってきている。
さて、遺構の方は明確な堀切が2か所のほか削平された郭が稜線部と中腹に数か所ばかり存在しているが、虎口、土塁の形跡は確認できなかった。
主郭近くの石祠
かりに定説通りに築城された時期が15世紀の初め頃とすれば、この山城についてはその後の大掛かりな改修などは行われず、実際には戦時などにも余り活用されることなく、むしろ消極的に存続していたということも考えられるのではないのだろうかとも思った。
中腹の堀切地形
それでも、稜線部は滞在には適さないと思われる一方で、南斜面の中腹部には小屋掛けできそうな削平地も存在している。
かりに戦いの場があったとすれば、それはそうした中腹部と里城をめぐる争奪であったような気さえしてきた。
尤も、急斜面のルートは確かに余人を近づけないものを感じるので、いざという時の籠城にはそれなりに効力を発揮するのかも知れないとも思うのだか。
主郭と東の郭を隔てる堀切
尻高氏の領地は「尻高」「大塚」「平」「赤坂」「市城」の範囲であるともいわれている。
これらの集落の生産高は近世初期の寛文検地では約4500石を越えているのだが、有名な沼田城主真田氏の改易事件の後には約2300石ほどに減じられている。(「角川地名大辞典」より)
一般的に石高1000石に付30人程度の軍役が可能であるとすれば、単純計算では凡そ60人強程度の軍役負担となる。
白井長尾氏の一族とはいえ、あくまでもその庶流である尻高氏一族の勢力を糾合したとしても、その支配地の範囲から招集する限りでは、おそらくは100名前後の将兵を掻き集めるのが限度ではなかったのだろうか。
西方の浅間山方面
凸役原城(群馬県高山村)
13時00分から13時20分
役原地区住民センターに車を停めさせていただき、時計回りに集落内の道路を歩いてみた。
城址標柱と解説版は、先ほどのセンターから北に約120mほどの道路沿い右側(東側)に所在していた。
群馬県内でもほぼ無名に近いような城館跡であるようだが、所在地に関して迷うことも無く、かつ不審者と思われる可能性も減るので、こうした配慮は大変ありがたいものである。
西側の道路を歩いている限りでは分かりにくいのだが、北側から東側へと回り込んでいくと台地地形の辺縁部を確認できる。
北東側から撮影
「現地解説版」などによると尻高氏一族の城館と考えられているが、並木城との関係がよく分からないが、尻高重儀の隠居城である旨が記されていた。
現地解説版と城跡の標柱
山城である尻高城からは東に直線で2kmほど離れており、その間には名久田川支流である赤狩川が流れ深い谷筋が形成され両地域を隔てているが、高地に所在してはいるものの半ば平城に近く、それほど防御性が高いという地形ではない。
隠居城ということもあり、居住性等に重点を置き、余り要害性に拘泥する必要が無かったのかも知れない。
沼田街道を中之条町から東へと移動したが、結果的に本日巡った4か所の城館は全て尻高氏に関連するものであった。
この時点で未だ時刻は午後2時前であったが、「道の駅中山盆地」に立寄り地場産の物産(林檎と田舎饅頭)を購入し、三国街道経由でショートカットして渋川市へと向かい再び上武道路経由で帰宅した。
帰路に渋川市の図書館に立寄るという選択肢も考えていたが、夕方の道路混雑などを勘案し明るい時間帯で早めの帰宅を選択した。
帰路はある程度の渋滞を予測していたが、途中の上武道路が首都高速以上に早く走行できることもあり、途中トイレ休憩を入れたにもかかわらず今回も4時間足らずで自宅に到着した。
一般道走行で往復約7時間半、走行距離は約300kmほどであった。
追記
このブログはサーバー動作不良のため11月17日に記述しています。