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みちのく遠征3日目にしてようやく南部氏宗家の拠点方面へと向かうこととなった。
今までに訪れたことのない見知らぬ地域ではあるが、2日間ではあるが二戸市、八戸市を探訪したこともあり、ある程度の方向感覚を含む地域の地理的特性を把握し始めてきたように感ずる。
いくら気管支炎発症中とはいえ、みちのく滞在2日間で僅かに探訪7城館ではあまりに情けない。
幸いにして馬渕川沿いには大小の館跡が点在していることから、これを三戸街道に沿い遡上していけば、ある程度の数はこなせるかも知れない。
凸法師岡館(青森県南部町、旧福地村)
午前8時05分から9時10分
「月山神社」
館跡付近には駐車場所が無いので、短時間ならばこの神社の参道手前やこれに隣接した農村公園の辺りに駐車させていただくのが良さそうに思える。
「古戦場標柱」
月山神社隣の農村公園北の一角で県道134号線沿いに所在している。
天正19年3月(1591)浅水城の南盛義兄弟が九戸方の櫛引城攻略の途上に当館を攻略すべく包囲したが、櫛引氏の後詰により月山神社周辺で討死を遂げたともいわれている。
これについては現地の標柱、および「南部諸城の研究」からの引用に過ぎないものであり、全く史料読込ができていないことから、今のところその典拠となる史料の存在、史実としての正否については把握できていない。
ただし一般論で言えばその合戦の規模は両勢力を合わせ多くとも数百人程度の規模であろうと推定される。
なおこの際に一時的にデジカメのレンズフード(約5千円)が行方不明であると思い込んだ。
そうした些細なことなどでいささか焦り気味となり神社での参詣を失念してしまった (^^ゞ
ただし、画像右側の案内標識の指し示している方角には「解説版」が所在する場所とは逆方向を示しているように思われ些か問題がある。
「鈴なりの柿」
「南西方向からの遠景」
この方向からウェブ地図では農道が堀跡付近まで続いているように記載されているが、館跡南東部付近で行き止まりとなり、かつ堀跡などの地表上の凹凸は確認できなかった。
「案内標識」
八戸市から国道104号線経由で高岩の信号を左折(手前が新道で、400m先が旧道だが馬渕川を渡過する橋の手前で2つの道は合流する)し馬渕川を渡るとこの案内標識が設置された分岐に出る。ここを標識の指示に従い左折すれば下記の「解説版」が設置されている個所に到達する。
「北西部付近」
この場所での路駐は幅員も狭く急カーブもあり、迷惑かつ危険であることから厳禁である。
「解説版」
九戸政実の乱に際して九戸方に与した当城は三戸南部方である八戸氏、中野氏の攻撃を受け落城したともいわれている。
この城を支配していた櫛引氏一族小笠原兵部(櫛引清長の弟清政とも)は、その当時は主力を率い九戸城に籠城しており、城側の守兵(おそらく数十名前後か)はその防御線の長大さに比して極めて手薄であったことが窺える。
「主郭北西部」
画像右端が主郭部に相当するのだが、果樹園として使用されているので「立入禁止」の木札が掲示されていた。
このためその内部の仔細は不明であるが、電子国土などの地形図を参照すると南東に向けて次第に標高が高くなっていることが記されている。
「内側の堀跡」
残存遺構としての三重堀が期待されたのだが、残念ながら現地を見た限りでは三重が確認できる個所は北西部から南東にのびる道路に入って約100mの地点付近の一部分のみであるように思われた。
また全体として藪に覆われ、耕作地化に伴う埋立てなどの影響もあり、見栄えのする堀跡地形はこの小祠が所在する上記画像付近に限られていた。
なおこの旧福地村は「福地ホワイト」(ニンニクのブランド)の原産地として全国的にも有名であるという事実に気が付いたのは帰宅後に見たテレビの通販CMによるものであった (^^ゞ
凸苫米地館(青森県南部町、旧福地村)
午前9時40分から10時10分
「馬渕川の早瀬」
馬渕川の流路が当時のままということは考えられないので、この早瀬が以前からのものであるのかは不明であるが、九戸政実の乱当時にこの馬渕川を浅瀬を探索しつつ渡過してくるというのは相当に骨の折れる城攻めであったような気がする。
また仮にこの早瀬を渡るとすればかなりの確率で溺れることは必定であろう。
「主郭より馬渕川を望む」
現在は「ふれあい公園」の一角に所在する展望台のような按配となっていた。
「主郭南側」
「虎口位置は不明」
事前の想定通りきっちりと公園化が図られており、虎口などの形跡は微塵も感じ取ることはできなかった。
「主郭北側」
比高差10m未満の独立丘陵であるため、地形図には表記されてはいないのだが、周囲の見通しは極めで良好であり、とくに馬渕川と三戸街道方面の見通しに優れた地形であった。
「現地説明版」
同様の解説版が公園の管理等外壁にも設置されていたが、そちらの方はかなりの経年劣化が見られた。
この比較的新しい解説版は材質の特性なのか、設置後既に20年以上風雪に曝されているにも関わらず良好であった。
「三戸館持支配帳」によると「苫米地館300石苫米地因幡」と記され、また「九戸戦史」によれば南部氏に与したこの館は、天正19年3月13日(1591)三戸城攻略の橋頭保とすべく九戸方の櫛引清長、一戸図書ら兵500の攻撃を受けたが、寡兵を以て高橋駿河とともに守り切ったとされているが、あくまでもその史実としての正否は不明である。
「主郭北側」(北東隅から)
南側、北側ともに比高差は5mから6mではあるが、馬渕川の旧流路ないしは分流である北東側の水濠などにより、往時においてはそれなりに要害性のある地形であったことが偲ばれる。
「水濠跡とも」
馬渕川の旧流路ともあるいはその分流とも考えられる水濠跡である。
北側から撮影。
「観光案内版」(役場前)
このあと南部町役場に立寄り休憩と情報収集。
庁舎内の自販機にて「梅よろし」ホットを3本購入して今日明日の喉の渇きに備えた。
また合併後既に10年を経過しているものの、所管課相互における文化財情報を含む観光資源の情報共有促進が依然として課題であるようにも感じられた。
凸福田館(青森県南部町、旧福地村)
10時45分から11時00分
「館跡」(南東隅)
「青森県の中世城館」の記述によれば館跡は東西に分かれていたとされており、この瑞泉寺境内が西の郭の南側に相当するはずである。
「曹洞宗瑞泉寺」
寺院参詣者用の駐車場はこちらの場所ではなく、寺院角の十字路を北へと向かうと路地の西側に入口がある。ただし、このことを知ったのはこの探訪を終えて次の目的地へと向かう直前であった (^^ゞ
「解説版」
この解説版に記述によれば、東西170m、南北230mでかつては二重または三順の堀がめぐらされていたとのことであるが、現在は北側と西側の一部に残存しているだけらしい。
代々福田氏の居館とされ、天正年間には福田掃部が南部利直より1千石を給され、元和4年(1618)には福田治部が南部利直から500石を給されているという。
その後三戸南部氏の盛岡への移転により福田氏もこの地を去り、寛文5年(1665)八戸藩成立に伴いその支配下に置かれたという。
こうしたことから「居館」としての歴史は、遅くとも福田氏の転居によりほぼ消滅したものと考えられる。
「たぶん堀跡」
西側の堀跡の一部ではないかと思われる地形が境内墓地裏で見かけられた。
本来であれば北辺部の堀跡も踏査し確認せねばならないのだが、この時には適当な駐車場所が見つからず断念した。
「里道」
境内墓地のすぐ北側にも窪んだ地形が所在しているが、これは境内墓地と山林部分を区画する里道のようなものではないかと思う。
「堀跡だったかもしれない墓地」
前掲の画像に繋がる位置にあることから堀跡であった可能性が想定された。
凸古館(青森県南部町、旧福地村)
11時10分から11時30分
※「福地村史」(2005年刊行)では福田古館と呼称し、その領域を大きく拡大した説が掲載されているが、現地解説版では従来の「青森県の中世城館」に記されている内容に従っている。
前者は地籍図に基づく踏査が中心であるものと推定されるが、傾聴に値するものと思われる反面において、余りに城館としての範囲を拡大する向きがあり、当時における当該支配層の資力、軍事力などから想定すると徒に過大となるようにも思われるので今後における精査の必要を感じる。
「厳島神社境内」
「厳島神社社殿」
近年の造立だが、閑静な境内地に比してその著しく豪壮な佇まいに圧倒される。
「現地説明版」
こちらの解説版の記述では従来の単郭説をとっている。
また、この解説版では福田館の古館説を示唆している。
しかし、上記「福地村史」では同時代存在説も提示し、福田館の隠居所としての機能を想定しているが、この説によれば殊更に過大な城館規模であるように思われる。
「二重堀の内堀」
多少埋没気味ではあるが、往時を髣髴とさせるほぼ完全な二重濠が残存していることに瞠目してしまう。
「二重堀の外堀」
「郭南東部」
降りてみるまでもなく、現在でも這い上がるのには至難の業となるだけの傾斜がある。
「郭の西側」
県道134号線沿いは県道の拡幅工事などにより一部その景観が変貌している可能性も想定されるが、神社境内入口付近を除き数メートルの比高差を有しているが、主郭部としては些か防備の弱さを感じる。
現在二重濠は県道手前で消失しているが、本来はこの切岸部分の下を巻くようにして巡っていたのだろうか。
「郭南西隅」
画像手前部分からの谷川の水が画像左側の水路へと勢いよく流れている。
近年の水路部分の開削もあり、郭南西隅の部分は10mを超える見上げるような比高差になっていた。
凸森ノ越館(青森県南部町、旧名川村)
11時50分から12時00分
馬渕川右岸の崖線上に所在する館であり、その北西部は30m前後の断崖を形成している。
剣吉館北一族である北十左衛門直連(500石)の首塚ならびにそのかつての居所でもある森ノ越館の標柱である。
また新堀作兵衛(300石)の館とも伝わる。
県道134号線の走行中、たまたま目に解説版の姿が入ってしまったので停車してみたまでである。
本来は立ち寄る予定が無く、この時には資料は持ち合わせてはいなかったことからそのままスルーしてしまうことも考えた。
しかし青森県自体を今後において再訪できるかどうか全く不透明であることから立ち寄ってしまった。
「森ノ越館」
「青森県の中世城館」によれば、北側に長さ100mの堀跡が残ると記されているのだが、残念ながらそれらしい地形を確認することはできなかった。
あまり時間が無かったせいもあり、些か城館としての縄張が想定しづらい印象があった。
「標柱と説明版」
そろそろ標柱としての耐久性が限界に近づいているようであった。
「説明版」
画像中央部の黒い模様は穴である。
「首塚の石碑」
大阪の陣をめぐる外様大名の置かれた苦衷が偲ばれる悲話である。
同 上
凸上名久井館(青森県南部町、旧名川村)
12時20分から12時45分
約300mほど離れた中央公民館駐車場に車を停めさせていただき徒歩にて探訪した。
「東郭」
三戸南部氏の重臣である東氏、東彦左衛門3000石の居館であったとも伝わるが別に下名久井
館も存在していることもあり、むしろ詳細は不明な部分が多いものと考えられる。
なお「日本城郭大系」では元々は工藤氏の居城(※むしろ屋敷と解すべき)であったとしている。
なお画像中央部のボケは保護フィルターの汚れである。
「丘陵先端部」
目測で比高差10m前後を有する丘陵先端部を利用した館である。
「水路」
往時には自然の堀としての役割を担ったかも知れない丘陵南西側の水流である。
「西郭」
東西の郭の周囲には画像左側のように一段低い細長い地形が確認できる。
これを帯郭ないしは堀跡と見るか、その後の開墾に伴う地形と見るのか悩ましい。
「東郭の果樹園のリンゴ」
そろそろ収穫の時期は過ぎたらしいのだが、秋の日差しをたっぷりと浴びたその色鮮やかなリンゴの色彩が目に焼き付いている。
南部町内ではたまに道路が渋滞していることがあったが、その先頭には必ず収穫済みのリンゴを満載した軽トラが安全走行しているのであった。
リンゴ園の収穫の最盛期にはリンゴ泥棒と誤認されぬようくれぐれも自制と配慮が求められると思われた。
「標柱」
2014年12月22日に設置された比較的新しい標柱が、東郭の西辺道路沿いに設置されている。それ以前に設置されていた木製標柱とほぼ同様の位置であった。
仮にこの標柱の存在がなければ、この場所が上名久井館であることは気づかれにくいものと思われた。
標柱1本とはいえ、設置にはそれなりの費用も掛かることから誠に有難い配慮である。
「西郭」の上部
西郭の大半は宅地で一部が畑地だが無論土塁などの表面的な遺構を観察することはできない。
「東郭」の上部
東郭はこちらの標柱が設置されている近くの民家宅地のほかにはリンゴの果樹園が広がっている。
「搦め手」方面とも
沼館氏の著書である「南部諸城の研究」によれば、画像奥の辺りが城館の搦め手であったと推定しているが、その面影は微塵も感じ取ることができなかった。
「侍屋敷と西郭」
画像左側が侍屋敷で、右側が西郭に相当するらしい。
「侍屋敷」方面
直属の家臣団に関連する屋敷群が置かれていたことによるものだろうか。
丘陵西側の防御は丘陵と地続きであるため他の三方に比べると明らかに手薄である。
帰路は大手方面とされる北側から戻ったが道路がクランクしている以外には往時を想起させるような地形上の特徴を見出すことはできなかった。
凸平良ケ崎城(青森県南部町)
13時35分から13時45分
字名は南館で道路北側の北館を含む南に突出した丘陵先端部が館跡ということになるものと考えられている。
現在は北東に移転した南部中学校の校地であったために台地地形以外には遺構は存在していないという。
「推定堀跡」
かつては画像左側の北館方面との間を隔した東西方向の堀跡が存在していたと考えられる市道である。
「日本城郭大系」と「青森県の中世城館」に掲載されている情報を総合するとこの辺りに幅5mの堀跡が残存していたということになるようである (^^ゞ
なおこの直後に聖寿寺館おいて入手したパンフレットの案内図にもやはり堀跡として記載されていたことからたぶん間違いは無さそうである。
「旧南部中学校入口」
この車両進入防止の柵の前にも駐車できなくはなかったのかも知れないのだが、情報の収集などもあることからあくまでも良識を重んじて南部分庁舎(旧南部町役場)の駐車場に停めさせていただいた。
「枯草に覆われた校庭」
不審者ではないことから、まさか街中で鉈を携行するわけにもいかず、せめて解説版の周辺だけでも草刈りができなかったことが心残りではあった。
「説明板」
数本の枯草を引き抜き、抜けない枯草を両足と左手で押さえつけて撮影した説明板である。
三戸五城とはこの平良ヶ崎城(※「館」とも)を含む「聖(※「正」とも)寿寺館」「大向館」「馬場館」「三戸城」をいうとのことである。
諸説があり、建久3年(1192)この地における初代である南部三郎光行の築城と伝わるが、無論最終的には戦国期の改修を経ているものと考えられる。
「聖寿寺館」がその居館としての役割を担ったのに対して政庁としての機能を有したとも伝わるようである。
五戸方面と八戸方面に通じる街道の分岐点にもあたる枢要の地でもあった。
「北館」方面
この山の北方が五戸方面へとつながっている。
「名峰名久井山」
南部のシンボルのような特徴のある山容で標高615mを測る。
その向こうが三戸町になり、さらに岩手県二戸市へと続いている。
凸佐藤館(青森県南部町)
13時45分から13時55分
平良ヶ崎の西側に隣接していることもありついでに立ち寄った。
この際なので、そのまま歩きながらぐるっと周囲を回ってみた。
「佐藤館」遠景
東の平良ヶ崎城から五戸へと向かう県道233号線を挟み隣接している。
平良ヶ崎城側より撮影している。
佐藤兵衛の居館と伝わるようなのだが、どのような一族なのであろうか今のところ皆目不明である。
「佐藤館」近景
東側の県道233号線沿いから撮影した。
東西100m、南北150mの範囲とされているが、平良ヶ崎城の四分の一ほどの規模に過ぎない。
「青森県の中世城館」によれば、かつては西側に幅10m、深さ5mの堀跡が南北方向に続いていた旨が記されている。
現在はおおむね果樹園(一部宅地)となり東側の段丘部を除き地表の形跡はほぼ失われている印象があった。
「堀跡付近」
この辺りの道路沿いにかつては堀跡が存在していたらしい。
「果樹園のリンゴ」
収穫されるのか、しないのか、その行く末が気がかりなほどに赤みを帯びたリンゴであった。
「旧南部町役場」
少し歩くことにはなるのだが、こちらに駐車させていただくのが一番間違いがなさそうに感じた。
「名峰名久井山」
凸聖寿寺館(青森県南部町)
14時25分から15時15分
南部氏宗家ともいわれる三戸南部氏の故地で国指定史跡でもある。
今年の4月1日にオープンした「史跡聖寿寺館跡案内所」も所在し、配布用のパンフレット類が常備され発掘の成果を説明する展示パネルも設置された職員常駐のミニ資料館となっており休憩も可能である。
「史跡案内板」
嗜好性の関係上から、あまりこういった立派な史跡案内板とは縁が無く、正直なところ露いくぶん気恥ずかしい。
「史跡標柱」
撮影には些か不向きに感じられた設置場所とその向き。
正面から撮影しようとすると堀跡に足を踏み外す恐れあり。
斜め方向から撮影しようとすると肝心の文字が見えなくなるという按配なのであった (^^ゞ
「大型倉庫の復元柱穴」
「人慣れしているネコさん」
ついつい本来の目的を離れ20分ほど遊んでしまった。
「黒の方は警戒中」
「発掘調査中」(以下撮影了承済)
「西辺付近」
辺縁部に土塁状の盛り上がりがあるような無いような.. (^^ゞ
「名久井山」
「南辺付近の発掘」
この辺りに虎口跡といわれる場所があったような気がするのだが..
「堀跡だろうか」
「東側の辺縁部」
今月14日開催予定の発掘調査説明会を前にした報道向け発表が行われていたが、結果的にその参加者に混じり館内を見学することができた。
現役時代の仕事との関わりもあり、公有地化の問題も含め、あらためて文化財として見せ方の工夫と文化財保護とのバランスの難しさを痛感した次第である。
日没までの時刻には今少し余裕があったのだが、半ば病人のような容態でもあり、翌日の帰還行動をより安全で確実なものとするため少し早めに撤収することとした。
この日はほどよく城館跡が分散された馬渕川沿いの探訪であり、このようにして何とか9か所を回り終えることができた。
遅まきながらようやくこの辺りの地理に慣れ始めたところなのだが、早くも明日の夕刻以降には復路600kmを高速走行して帰宅するという予定なので、今晩の睡眠時間は念には念を入れ十二分に確保する必要がある。
明日は道すがらいくつかは立ち寄ることも可能なのだが、朝方の図書館での資料収集予定もあり1か所も廻れない可能性もある。
気管支炎の具合も一進一退であり、何れにせよすべては明日の成り行き次第なのである。