本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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武蔵国入東郷の地下人小頭@和平
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定年を過ぎました~
趣味:
「余り遺構の無い城館跡めぐり」と「ネコいじり」並びに「観葉植物の栽培」など数だけは
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久しぶりの好天
午前5時前に自宅を出発
 連続5度目となる太田市の探訪にでかけた
ようやく数日ぶりに太陽が顔を出した
しかし朝から既にうろこ雲が東の空にででいる
雲が広がるのも時間の問題なのかも知れない

 
◎渋沢栄一生家(埼玉県深谷市血洗島)
午前6時20分から6時55分

6月に都内飛鳥山の渋沢氏の別邸跡に出かけていた経緯がある
加えて横瀬氏故地に赴く途中に所在していることもあり立ち寄ってみた
開館時間は午前9時からなので無論閉館時間中
その外観からだけでも豪農層の屋敷の規模の壮大さに圧倒される
とりわけ水田耕作地帯に関しては一般的な自作農との乖離は明白である


そういえば深谷周辺も10年以上前に出かけたきりで、完全には廻りきれていなかった
幅員が狭いなどという道路事情の関係もあったような記憶もあるが、現在でもそう広くは無いという個所が少なくなさそうにも思えた


◎横瀬氏の故地(埼玉県深谷市)
午前7時05分から7時25分

後に由良氏(横瀬氏)の故地となった横瀬神社と華蔵寺へ赴く
新田義兼の五輪塔と伝わる墓石が所在していた


それ以外の五輪塔、宝篋印塔など古い墓石が目立つ
かなり改修されてはいてもやはり道路事情はいまひとつの感もある
水田の中の自然堤防上に集落があたかも島のように点在する関東平野の原風景が残っていた

この時間だと未だ日差しが弱い
そういう季節になった
こうした季節の画像撮影に相応しい活動時間は午前8時過ぎから午後4時頃まで
西の空に厚い雲がかかると午後3時頃までか
さらに朝雲がかかると正味6時間も亡くなってしまう
気温の低下と相俟って季節の移ろいを肌で感じる
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)ほか

 
◎大舘八幡宮(群馬県太田市)
午前7時55分から8時05分

先月から通算5度目となるお馴染みとなった旧尾島地区
この1か月間に限ればその滞在時間は25時間を超えている
さすがにもはや道に迷うようなことは無くなってきたように思えた

近くを流れる早川の流路変遷の影響が大きい立地であるらしい
堤防の高地から俯瞰すると以前の流路もそのまま耕作地の低地として残存していることが分かる
現地解説版によれば、近世の社殿建立に関しては「津軽氏分家による再興説」を示唆していた
このことが史実であるとすれば、やはりその勧請に際しては新田氏あるいはその一族である大舘氏が関わっている可能性を想定しても差し支えないようだ


なお神社境内南西に高さ約3mの塚(築造年代不詳)が所在
塚上には近世から明治期にかけて流行った山岳信仰関係の複数の石碑が設置されていた
※情報源「新田一族の盛衰」(2003/あかぎ出版)ほか


◎二体地蔵塚(群馬県太田市)
8時25分から8時35分

なるべく路駐を避けるべく世良田公園の駐車場を利用
下記の2か所を含めてのんびりと歩いてみた
というよりも以前のように早足では歩けなくなってきたらしい (^^ゞ
とはいうもののこの辺りは徒歩でも充分にまわれるほどに史跡が点在していることにあらためて実感している

元弘3年(1333)幕命により戦費調達の任務を帯びた出雲助親連、黒沼彦四郎の二人が新田方に捕われて黒沼は斬首された
「太平記」などでは、この事件を契機に討幕軍が蜂起したという
中世以降の刑場跡ともいわれ、一辺が約20m、高さ3mほどの方墳状の塚上に2体の地蔵が所在する
ごく最近黒沼氏後裔の方が五輪塔とその由来が刻まれた石碑を寄贈され市道際に建立されている
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)ほか


実はこの前の市道は車で少なくとも3度ほどは通過している
真新しい存在は視界に入っていても脳裏には刻まれない精神構造なのか
いやそれが当たり前のそうした年齢となってきたらしい

 
◎伝源義平墓所(群馬県太田市)
8時55分から9時05分

義平の許婚者であった新田義重の娘がその菩提を弔ったと伝わる真言律宗清泉寺にその墓はあった
天然石を刻んだ墓標の文字は今もはっきりと分かる
風化や汚れなどの具合から見るとそれほど古そうには見えない
おそらくは12世紀当時のものではなさそうに思われる
※「群馬県の歴史散歩」(2005/山川出版社)ほか


辺りは閑静な集落の外れ
寺も無住となって久しいように思われた
ようやく雲が散り日が昇り始めてきた時間だが無性に侘しさがつのる光景が広がっていた

 
◎八坂神社(群馬県太田市)
9時10分から9時20分

峰岸氏によると足利義詮を名代とした討幕軍第2陣旗揚げの地点と推定されている
しかし現在の社殿の領域から見る限りでは狭隘な印象は避けられない
少なくとも軍馬を含めた数百以上の軍勢が集合するには明らかに容量が不足している
この点、誇大な表現が伴う「太平記」において、後述の新田義貞が旗揚げした「生品神社」での150騎(隋兵、非戦闘員を含めて500人前後)という記述に関しては概ね妥当のように思わたりする
建物そのものが昭和初期頃の建築なのでこれ自体が充分に文化財級ともいえるのだが
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)

なお社殿北側は山岳信仰系統の石碑類などがあり比高差2m前後の微高地となっていた


また参道入口近くには旧尾島村役場の建物が現存し、尾島の文化財センターになっている

ふと「遺物」の整理とその保管場所には何処も労苦が絶えなかったという現役時代を思い出す
そういえば最後に行った仕事が「文化財保管施設設置」であった
5年間ほど公設恒久施設計画を立て継続して予算要求
結果的には歪曲化が避けられず、ようやく退職の前年に経費も年間数百万円程度での空き倉庫賃貸物件契約となったが、「無いよりまし」くらいの効果はあったようだ

 
東田遺跡(群馬県太田市)
9時55分から10時00分

工場施設の増設による発掘調査に伴い確認された42m×38mという小規模な環濠遺構である
報告書には「14世紀から15世紀前半の有力農民の屋敷跡」と推定したらしい
この場合の「有力農民」層は「半農半士」である可能性が高い
「城館跡か環濠屋敷か判断せよ」などといわれると悩ましい規模であったようだ
工場施設と周辺の農地を眺めて目視による土地の起伏をメモ


この方式は遺構にはあまり縁の無い都内の探訪以来継続しているが、あとから思い出す時のヒントとなる場合も少なくなく意外に役立つことに気が付いた
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)

 
◎生品神社(群馬県太田市)
10時15分から10時40分

言わずと知れた新田義貞の討幕軍旗揚げの地である
平日でもあり境内南端に移設された「太刀を捧げ持つ義貞像」の傍に2人ほどの見学者が見られたのみで大木の多い薄暗い境内は森閑としていた
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)

 

◎小金井史跡公園
(群馬県太田市)
10時50分から11時00分

古代の集落跡(豪族屋敷跡)が復元保存されている
草刈りの整備は継続されている
「魅せる」屋外展示の難しさを体感
※太田市役所HP掲載の「中町・深溝遺跡」PDFファイル参照


 
脇屋館(群馬県太田市)
11時15分から11時35分

義貞の弟、脇屋義介の館跡と伝わるが委細不明
以前は畑の中にポツンと所在していたという館跡の石柱
現在は「住宅角のゴミ集積所脇」というロケーションに変貌していた
「脇」という部分ではたしかに語呂だけは合致しているのだが

「畑の中の標柱」というイメージで探していたのですぐには見つからず、いったん赤城神社の駐車場へ移動しあらためて徒歩で念入りに探してみると、何と始めに車を停めた場所から30mほどしか離れていない道路沿いの場所であった
見事なまでに電柱とゴミ集積所に紛れてしまっていたようにも感じる悲しさもあった (^^ゞ
※情報源「太平記の里 新田・足利を歩く」(2011/吉川弘文館)


 
大島城(群馬県太田市)
11時55分から12時00分

西端が太田記念病院で南北方向に東武桐生線が縦断、東側が住宅地、南側に太田女子高が隣接という市街地
太田金山城が住宅の頭越しに見え隠れはしている
やむなく付近の水田などを眺めて2両連結が走行する桐生線の踏切を渡り大島館へ
※情報源「太田市史通史編」ほか


 
大島館(群馬県太田市)
12時05分から12時15分

群馬、埼玉ではお馴染みの「コメリ」西側辺り
道路の曲折に微かな面影を探す
地元旧家の一角に複数の土塁状の盛土あり
1か所は屋敷神の祭壇のもよう
もう1か所はやや細長い形状でこちらにも稲荷社のような小祠が見えるが関連性は不明
※情報源「太田市史通史編」ほか


 
北田環濠西(群馬県太田市)
12時55分から13時00分

太田の市街地で太田駅やスバルの工場も近く、そのほとんどが関連の駐車場となっていた
このため地表や土地区画からはかつての形状さえも浮かび上がらず
 


北田環濠東(群馬県太田市)
13時05分から13時15分

現状は県道沿いの市街地内で100ショップと激安スーパーの駐車場敷地である
その北寄りに幾つかの水路(跡)が所在し関連性はありそうだが、現在ではU字溝となり趣には乏しい
 


◎八幡山古墳(群馬県太田市)
13時20分から13時30分

国指定史跡でもあり、環濠集落の近くで駐車スペースが所在していることから必然的に立ち寄る
墳丘法面の一部に河原の丸石を敷きつめた個所がある
頂部に向かっていることから被葬者などの祭祀に関連した通路のようなものなのだろうか
関東の古墳に関する一般書を何冊か所蔵しているが通読未了のまま年月が経過している
雨続きであったため古墳の麓(水田)は水気が多い

 

大倉城(群馬県太田市)
14時00分から14時20分

この日最終の目的地だが、ようやく明瞭な水濠と土塁とに対面できた ^^
埋立てなどによりその景観は大きく変貌しているが、それでも民家北側と東側、西側の一部に遺構が現存していることが窺えた
※情報源「太田市史通史編」ほか


この時点で時刻は午後2時半を回っていた
天候は午後からは次第に曇りがちとなり、今は完全な曇天に変わった
このあと図書館に立寄る予定が、午前4時過ぎの起床のため次第に疲労感が蔓延
一日当たりの記憶容量も縮小する一方でもあり直帰することとした


帰りがけに深谷市の大寄で「ネギ味噌まんじゅう」を購入するつもりだったが、なんと毎週水曜日は定休日なのであった
このため2度目となる熊谷市内の梅林堂へ立ち寄った

物事を知るには多面的なアプローチも必要なので今回は城館以外の要素を加味してみたのだが、まるで「高齢者の史跡めぐり散歩」のような按配となってしまったようだ
今日も結局朝昼抜きで行動しはていたが、正味にして僅か4時間、約2万3千歩しか歩いていないにもかかわらず、何故か疲れたのでこの次は何か食べようと思った

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