本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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徳川家の旗本岡部氏の近世初期の陣屋跡と伝わる曹洞宗慶徳寺境内の北側の以前は桑畑であったと推定される農地は見方によっては郭跡のようにも受け取れる地形。
畑の排水の便宜を図るにしては大げさな地形の改変かと思われ、丘陵の最高地点に所在しているので、排水の問題では無いように思われます。
加えて東側には「畑の根切り」にしては、余りにも大げさな深さ2mほどの古さを感じさせない堀跡状の地形も見受けられたりして..

しかし、全体としてはどうも城館関連遺構としては何処と無く違和感のあるような印象も拭えないようにも思えます。
具体例を挙げるなら、工事現場の残土を積み上げて整地したような観もなくは無いような..
しかし、道幅などが狭いため大型車での搬入は困難な地理的条件であることも事実なので余計にその判断が難しく..

岡部氏陣屋
岡部氏陣屋
比企郡滑川町中尾地区にて
2006/11/17 撮影

先ほどの写真の左側、つまり東側の部分です。

堀跡状の溝の深さは畑側でおよそ2m強、山林側で1m弱というところですが..余りに見事すぎていることや年代の古さを感じさせないような印象もあるので何とも判断しかねています。
もともと、この下(南側)には岡部氏の陣屋跡と伝えられる慶徳寺の境内が所在しています。
しかし、元来は桑畑であったことから考えると、養蚕が地場産業であった少なくとも数十年以前のものであることは間違いはなさそうです。
近現代の農地開墾にしてはやや必然性に疑問を感じる大げさすぎる比高差かとも思われます。

東側の溝を南側から撮影
2006/11/17 撮影
岡部氏陣屋北側の地形 その1


東側の溝を北側から撮影
2006/11/17 撮影
岡部氏陣屋北側の地形 その2

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ステキすぎます。
その畑の脇の堀を見ただけで、興奮して・・・完全に変態ですね(笑

後世の造形の可能性を考えると、その曲輪が独立した防衛機能を持っていたかを見る必要がありそうですね。写真の左側がどうなっているか分かりませんが、堀切の跡があればしめたものですね。(逆に土塁を土取りされている可能性も否定できませんが・・・)

好奇心そそられる写真を見せていただき、ありがとうございます。
武蔵国入間郡の住人 儀一 2006/11/23(Thu)18:39:37 編集
Re:ステキすぎます。
コメントありがとうございます。
本文の方に画像を追加しておきましたのでご参照ください。
なお、「>>つづきはこちら」をクリックすると全文が表示されます。
【2006/11/23 21:52】
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