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港区、新宿区、中野区、渋谷区に続く都内23区シリーズ第5回。
本日は、またしても渋谷方面。
しかも僅か丸1日間をおいての再訪。
けっして渋谷方面に中世城館跡が数多所在しているというような背景には非ず。
また渋谷方面にとりわけ関心がある訳でもなし。
再訪の理由は至って単純明快。
実を申せば、渋谷区郷土館での忘れ物受領が主目的(笑)
こういう忘れ物をするなどということは少なくとも昨年まではなかったようにも。
もっとも、忘れ物をしたことを気づいていないだけということもありうるのが恐ろしくもある。
流石にそれだけでは余りに徒労に尽きることから、「北青山遺跡」(淀藩稲葉家下屋敷)と「佐倉藩堀田家」(現、聖心女子大キャンパスなど)を中心に探訪することを決意。
やはり気になる途中の氷川神社
◎佐倉藩堀田家下屋敷(渋谷区)
午前11時00分から12時10分
「堀田坂」の地名と「当時のものと推定される石垣」などの存在から、この日2番目以降に訪れた個所に比べればまだまだ探訪のし甲斐のある方。
事実、現地での史跡等に関する標柱、説明版などの掲示物がしっかりと所在しているのはこの場所のみ。
そのような次第で、推定屋敷跡の周囲を時計の針の方向に徒歩3kmほどの道をぐるりと一周。
「堀田坂」の由来を記した上下2本の標柱のほか、同坂上の広尾ガーデンヒルズの一角に所在する根回り、目通りがそれぞれ5m前後の銀杏の大木(渋谷区指定天然記念物)とその解説版、聖心女学院南門付近の石垣を見学。
北辺の大銀杏
同解説版
手元にあるいくつかの「江戸切絵図」の様子からは、切絵図の境に所在していることもあり、当該屋敷跡の正確な位置・形状に関する情報は一定せずやや曖昧な傾向が窺える。
しかしこの踏査(正しくは徘徊)により、朧ろげながらもおよその全体像が見えてきたようにも。
まず屋敷西側では「旧いもり川」(おそらく渋谷川、古川の支流のひとつか)の流路と想定される曲がりくねった細道の存在を確認しこの旧流路付近が同屋敷の西限であることを理解。
「いもり川跡」
またその西側の一部が出枡状に突出している個所は、強いて言えば概ねチェコ大使館が所在する辺りに相当するのかも知れず。
屋敷の北限はについては、おそらく「堀田坂」から続く現在の港区と渋谷区の境界にあたる公道付近と推察。
「堀田坂」の標柱(港区設置)
東限もおそらくはオマーン・スルタン大使館沿いの細い路地(外苑西通の西側)付近まで、南限は祥雲寺境内の辺りでその道路形状からは枡形を形成していた可能性も浮上。
南門付近の石垣
祥雲寺付近の様子
屋敷が所在する場所は比高差こそ少ないものの、その尾根伝いに相当する北西部を除きおおむね独立した丘陵(あるいは舌状台地先端とも)を形成している様子を確認。
途中の街路植込のランタナ
日赤医療センター前の植込
タニウツギまたはその園芸種か
◎西条藩松平家上屋敷(渋谷区)
12時25分から12時40分
佐倉藩下屋敷から旧常陸宮邸方面に戻り青山学院関係の塀などを横目で眺めつつ六本木通を渡り青山通を目指し、「アイビー通」に合流し南青山5丁目交差点に到着。
この間の移動距離は徒歩で約1.2km。
生垣のブーゲンビリア(園芸種)
青山学院キャンパス東側
紀州藩の分家で「御一門」とされる大名家上屋敷跡で、現在は青山学院大学関係のキャンパスとなっている。
むろんそうした経緯を物語るような史跡等に関する説明を付した掲示物は不在。
青山通沿いの正門の撮影を試みたものの学生を始めとする通行者数多。
このため写り込んでしまう方々ができるだけ識別できないようなシャッターチャンスはなかなか訪れず。
何とか撮影できた正門付近
凸北青山遺跡(淀藩稲葉家下屋敷)(渋谷区)
12時45分から13時15分
青山学院大学の向かい側の青山通沿いにある「国連大学」、「旧こどもの国」などが所在している。
80年代の中頃から90年代にかけて子どもたちがお世話になっていた「こともの城」の建物自体はそのオブジェと共に現存している。
「旧こどもの国」 前のオブジェ
継続の声も虚しく「落城」の跡
国連大学
東京都職員共済組合の旧青山病院も同遺跡の範囲と考えられ、現在当地は「TBSハウジング」が主催する住宅展示場となっている。
いまも池跡の一部が確認できる
中世城館と近世大名屋敷の複合遺跡で遺構は検出されてはいるが、地表に確認できる遺構は皆無に等しく、住宅展示場の北東側の低地にフェンスを挟んで稲葉家庭園の一部と推定される池跡の窪みが認められる。
◎善光寺(港区)
13時30分から13時40分
青山通と表参道が交差する表参道交差点北側に所在する名刹で、江戸時代には信濃善光寺の尼上人が江戸滞在の際に宿泊した寺院とされている。
善光寺山門
◎百人町屋敷(港区)
13時40分から13時40分
たぶん幕府直属鉄砲同心の屋敷跡と思われる。
「江戸切絵図」には間口の狭い短冊形をした屋敷の区画が記されている。
たまたま善光寺の青山通を挟んだ向かい側に間口の狭い区画が散見されるが、むろんその直接の関連については不明。
「百人町」付近
◎松平近江守上屋敷(港区)
13時45分から13時50分
現時点では、この「松平近江守」が何藩の如何なる大名であるのかは不明なので、このあとゆっくりと調べる予定(笑)
おそらく下記の画像付近が屋敷跡の一部にかかっているものと推定される。
建替えに伴う移転予定の保育所
◎広島藩浅野家下屋敷(渋谷区)
14時00分から14時10分
著名な表参道ヒルズの辺りが当該屋敷跡の中心部らしいのだが、屋敷跡の詳しい範囲については余りの人混みのためによく分からなかった。
下記の歩道橋上からでは樹木に隠れて直接人混みは見えないが、その下の画像の位置からは緩やかな参道を往来する夥しい人々の行列の姿が隠されている。
表参道(歩道橋上から)
表参道ヒルズ東端
◎伝・長者ヶ丸(港区)
14時15分から14時40分
港区の「白金長者」の伝承と対を成すものらしい。
幕末期に人気のあった「江戸切絵図」に「此辺長者ヶ丸」との記載があったことから訪ねてみた。
通りの名称は遺されている
水田跡と考えられる細道
今でも「長者丸通」は丹羽左京太夫下屋敷跡付近に現存しているが、「切絵図」に記載された「長者丸」の位置はもう少し南側の当時は畑と記されている辺りで、その北側に細長い水田が描かれていることを考えると、おそらく緩い下り坂の細道となっている南側付近が想定されそうに思われる。
本日の歩行はおよそ2万5800歩ほどで、ちょうど「長者丸」の分だけ余分に歩いたことになる。
間1日ということもあり、予想通り所要の痛み対策などを講じてもやはり両踵の痛みは発生した。
尤も昨年のように激痛のため全く身動きが取れないというほどのものではなく、単に鈍痛で歩行速度が鈍化するという程度。
しかし就寝前になりボルタレンの効果も薄く次第にズキズキと痛みが増幅。
堪らず新たにテーピングを処置。
これが一時凌ぎの対処療法とはいえ思いのほかの効き目で熟睡に成功。
なおかつ翌日、初孫の検診送迎も支障なく遂行。
ということは予防テーピングも試行してみる価値ありということに。