本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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1日目から発症してしまった内反小指による痛みどめ対策を可能な限り講じたことにより、ようやく3日目にして片平城周辺へ赴くことができました。

上極楽の遺(福島県郡山市片平町上極楽付近) 午前8時15分頃
後日、関係資料を整理している際に国土地理院航空写真を眺めていたところ、中村館が所在していたとされる字菱池の東約100m地点に複郭から構成されるとみられる平地の城館跡の痕跡を見つけ出しました。
あくまでも戦後間もない航空写真から比較的古いと思われる道や集落などを目安に現在の景観に当てはめ推測してみたものです。
地理的には中村館にほぼ接していることから深い関わりが推定されるのですが、今のところその歴史的な背景は全く不明です。
従って撮影画像そのものについても、当該地そのものを撮影したという意図はなく東権官館周辺の景観を撮影したもののなかに、大体の方角が合致していた画像があったに過ぎません。
しかし、中村館が所在しているはずの当該航空写真の堀跡西側一帯には、そうした存在を示唆するような水田地割の形跡は確認できないことから、仮に下記の中村館の所在地を示す「まほろん」および「埋蔵文化財包蔵地マップ」の位置がずれていたとすれば、この仮称「上極楽の遺跡」が中村館を指しているということも十分に考えられます。
いずれにしても郡山市内に限らず、戦後間もない時期に撮影された当時の在日米軍による航空写真には、このようにして相当数の平地の城館跡が写りこんで入る可能性があるのではないかと考えるに至りました。

 
   東側からの遠景      1948年3月の航空写真



東権官館(福島県郡山市片平町字清水西) 午前8時15分から8時35分
どうも「権官館」が2か所に分かれて存在している様子なので、あくまでも便宜上それぞれに東西の名称を冠したものです。
この東権官館の所在地については、「まほろん」と「埋蔵文化財包蔵地マップ」の記載情報が異なっており、「まほろん」では県道142号線の北側を示していますが、一方「マップ」の方は県道南側を示していました。
このことから一応両方の地点をそれぞれ確認してみると、まず県道の南側は耕地化された水田であり、その現状からは堀跡などの形跡を窺うことはできません。
しかし前記の航空写真をよくよく眺めると、歴史的な経緯は分かりませんが、何処となく古い屋敷跡などのようにも見える区画が見え、県道を挟んだ北側からの部分と繋がっている形跡(土塁か)も窺えました。
また、「まほろん」の示す北側の部分には南北方向に延長50m前後の「土塁」(年代観不明)と思われるような人工的な盛土の画像を確認することができます。またその北端から更に鍵の手に東西方向にも伸びているようにも見えなくもありませんが、この部分については屋敷林などに隠されて明確ではありません。もちろん、現状では自動車整備工場の敷地の一部となっていることから土塁の痕跡を確認することはできませんでした。
周辺には、馬場下、馬場前、舘堀、的場などの城館関連地名が多く所在しています。

 
 1948年3月の航空写真        低丘陵


   北東側からの全景      不動堂と水害復興の石碑


 
西権官館(福島県郡山市片平町字石切場) 午前8時40分から9時05分
位置的には東権官館の西側に隣接した低丘陵に所在しています。
「文化財包蔵地マップ」が示す範囲内にある県道142号線南側の片平幼稚園西隣に所在している丘陵部(居宅介護事業所の南側、逢瀬川の河岸段丘先端部か)には、土塁状のようにも見えなくもない盛土地形が現在でも確認できますが、この地形が戦後間もない在日米軍撮影の航空写真からも、それらしい地表の痕跡を見出すことはできませんでした。
城館跡を南北に分かつ県道142号線北側には屋敷跡のような地割も見受けられますが、これに伴う堀跡のような地形は見当たりませんが歴史を感じさせる屋敷林の存在が目を引きます。


  片平幼稚園西側の林       その林の中の地形


      屋敷林        文化財包蔵地の全景


      屋敷林       1948年3月の航空写真



中村館(福島県郡山市片平町字菱池) 午前9時20分から9時30分
近くのセブンイレブンに駐車させていただき、のど飴と飲み物その他を購入してから南側の水田へ。
所在地については「まほろん」および「埋蔵文化財包蔵地マップ」が指し示す情報をもとに赴いたものですが、ことによると上記に示したような所在地に関する錯語が含まれている可能性も否定はできないものと考えるに至りました。
以前発掘調査などが実施された模様で、石臼、陶器、漆器などの遺物が出土し、郭と堀跡も存在していたようですが、現状は資材置き場と水田耕作地となっており、地表から確認できるような遺構は見当たりませんでした。


「まほろん」などが示す辺り



片平鹿島館(福島県郡山市片平町字鹿島) 午前9時45分から10時10分
「まほろん」(福島県文化財データベース)「郡山市文化財包蔵地マップ」「福島の中世城館跡」(福島県教育委員会/編著)には何れも鹿島館とのみ表記されていますが、郡山市内には同様の名称をもつ中世城館跡は多く存在していることから、あくまでも便宜上の表記として「片平鹿島館」と表記することといたしました。また鹿島の地名は「かつて鹿島神社(片平の上館築城の際に鬼門除けとして奉祀したと伝う)が所在していたことによるもの」とされ、明治42年の台風で倒壊し、段子森に移築され片平神社と改称されたとのことです。」(「郡山の地名」2005年/郡山市より)また同書に掲載されている明治期に作成されたと思われる鹿島の地籍図にはこの丘陵部分がそっくり抜け落ちていることから、少なくとも明治期にはある程度の遺構が現存していたことも推定されます。
この地を中世城館跡とするのは「相生集」(幕末に編纂された地誌のひとつ)に記されていることによるもののようなのですが、その歴史的経緯の詳細については不明の模様です。
周辺は広大でなだらかな低丘陵丘陵とその谷津を利用した水田地帯が広がる地形で、片平城からみ東北東約1.5kmほどの地点に所在する独立丘陵に相当するようです。
水田面からの比高差は最も高い部分で8メートル近くを有していることから、郡山西部広域農道側からみると平坦ではありますがとても存在感のある地形が目に入ります。
現状は揚水ポンプにより水を引き込み水田として利用されていることからある程度の地形改変が含まれていると考えられますが、東西方向約200m、南北方向約150mに及ぶ谷津の入り組んだ不正形地を呈していましたが、件の米軍航空写真によれば、こうした谷津田は終戦後に開発されたもののようで、1948年の撮影当時では矩形を集めたような丘陵の形状であったことが窺えます。
この画像からは、かつての郭跡やその北側にある堀跡の痕跡などを見て取ることもできますが、現在ではそうした地形の痕跡は水田耕作などにより確認することは難しくなっていました。
なお、南側からブローチして最高地点まで到達した直後に遮るものがない台地上にて風速20m/秒近い突風が吹き荒れ、20秒以上にわたり体が強風にもって行かれそうになりましたが、この時ばかりは自分の体重に感謝するという体験を味わいました。
 
   

 1948年3月の航空写真   2014年7月の航空写真

 
    丘陵南端部


    丘陵東端部          丘陵の上部


   丘陵の最高地点        西側からの全景




柴木戸(福島県郡山市片平町字芝木戸) 午前10時15分から10時20分
「瓜坪館」方面に赴く際に目についた地形で、「まほろん」「郡山市文化財包蔵地マップ」など何れの資料にも掲載されてはいません。
東西方向に細長い丘陵尾根筋の西端付近に所在し、かつ「木戸」の地名も伝わり、古い家屋敷の構えであることが窺えますが、もちろん年代観は全く不明です。

 
    北側からの遠景      1948年3月の航空写真 


 
 
妙見館(福島県郡山市片平町字妙見館) 午前10時20分から10時25分
「まほろん」「郡山市文化財包蔵地マップ」などの所在地情報によれば、星総合病院の西側に隣接した現在は采女の里関連の高齢者福祉施設が所在している丘陵地帯辺りを指しているようです。
吹きすさぶ風は相変わらず冷たく頬にあたり続けておりましたが、すでに宅地化が進行している現状の地形のみならず、1948年3月撮影の航空写真からも遺構らしき特徴的な地形を窺い知ることはできませんでした。


    南側からの遠景     1948年3月の航空写真
 



瓜坪館(福島県郡山市片平町字瓜坪館) 午前10時30分から10時45分
  「積達古館弁」によれば「館名」のみが記されているものの、「里老伝に城主不知」とのみ記され築城者、館主の何れも不明とされています。
尾根続きの西側を除いた三方が小河川などにより囲まれた丘陵東端部に占地していますが、1948年3月撮影の航空写真においても平坦な耕作地が確認できるのみで遺構に連なるような地形を窺い知ることはできません。
現在は概ね水田として耕作されており、本当にこの地点が正しいのか疑問にさえ思われる場所ではありました。
むしろ西方の見物檀に所在するひな壇状地形の見事さに目を奪われましたが、豊かな安積疎水の影響も加わって、こうしたひな壇状の耕作地は郡山市内には数多く見ることができます。
 

    ほぼ水田です     戦前からあったと思われる雛壇


  1948年撮影航空写真 


 
舘山(福島県郡山市片平町字舘山) 午前10時50分頃
一昨日と本日に何度もカーナビに「舘山」の地名が表示されることから、念のため当該地付近を撮影したもので、あとで調べてみましたがその字名以外には城館との関わりを辿ることができませんでした。
また国土地理院のウェブ地図を見てみると、本来は河岸段丘先端部の台地であったことが窺えます。
1948年3月当時の在日米軍の撮影した国土地理院航空写真によると台地北側部分にそれらしい地形が写ってはいますが、この当時からすでに耕地の開拓が進んでおりある程度の確証得られるような形跡を見つけることはできませんでした。
 
   
   1948年撮影航空写真     東側丘陵からの遠景


 
広修寺館(福島県郡山市片平町字南萬階、南萬会) 午前11時05分から11時20分
片平鹿島館の西方約600mほどの低丘陵の一角に所在しています。
「積達古館弁」に片平の城館のひとつとして記されてはいますが、お馴染みの「里老伝に城主不知と云々」と記載されているのみで歴史的な経緯は不明です。
「まほろん」「日本城郭大系」「福島の中世城館跡」などでは、城館跡として扱われていますが、もっとも新しい「郡山市埋蔵文化財包蔵地マップ」の記述によれば、城館跡ではなく「社寺跡」(中世)と記され、五輪塔や板碑が確認されているようです。
いずれにしても、この辺りの城館跡となりますと多分に伝承性が強い傾向にあるらしく、その詳細については分からない事例が多くあります。
件の在日米軍撮影の航空写真には堀跡のように見えなくもない地形が存在していますが、あまり明確ではありません。


   南側水田地帯から         住所確認

 
  1948年撮影航空写真



狐館(福島県郡山市片平町字狐館、字女久保) 午前11時30分から11時50分
市立片平小学校北側の丘陵が狐館になります。片平小学校東側のグランド北側から西へと進む農道があるので、そのまま道なりに250mばかり進んでいくと腰郭のようにも見えなくもない耕作地へと到着しますので、その畑の北側の削り残された細い尾根筋を西へとすすめば狐館へと到着します。
山頂部の藪はそれほどでもありませんが、藪漕ぎをしても視界は不良で遺構も無さそうですのであまりお勧めはできません。
また周囲との比高差は約20mほどですが、細い尾根筋を通るときには北側の斜面に落ちないように気を付ける必要があります。
なお、西側からの登攀は傾斜もきつそうでかなり難しそうでした。


  1948年撮影航空写真     東側の農道から


   畑の人工的な斜面        畑と細い尾根筋


    細い尾根筋        腰郭のようにも見える畑


  片平小学校越しの狐館      西側からの遠景




西狐館(福島県郡山市片平町字西狐館)
狐館西側の南北に長い丘陵に所在しているとされていますが、片平小学校の校門前からアプローチするルートは途中で行き止まりになります。
つまり土砂の採掘等により丘陵東側では元来の景観が大きく変貌し、丘陵が比高5m以上の崖地を呈しすすむことができません。
南側の鞍部か、北側からアプローチすれば丘陵の上に行けそうに思いましたが、明確な踏み跡も確認できず、眺望も芳しくはないと判断されたことからあっさりと断念をいたしました。


    登れない東側




片平下館(福島県郡山市片平町) 12時50分から13時20分
総領家か諸子家なのかは見解が分かれているようですが、何れにしましても安積伊東氏一族の平地の館跡とされています。
北部には郭跡と見られる方形の微高地区画も残され、その北側には外堀の字名が残り、1948年撮影の航空写真にはそれを取り巻く堀跡やL字型を呈した堀跡の地割も確認できます。


  片平下館周辺の城館館跡       郭跡か


    字外堀の水田         字外堀の堀跡か


  この辺りにも堀跡が       困った時の住所表示


  片平下館の航空写真




片平中館(福島県郡山市片平町) 13時25分頃
「まほろん」「福島の中世城館跡」には掲載されていますが、上館の範囲と重なっています。
その字名などから推察しますと、おそらくは上館北側付近の一帯を指すものと思われましたが、土砂の採掘などにより大きく丘陵自体が消滅していましたので元々の地形が分からなくなっていました。


   手前が字中館の辺り      
  
 
片平城(福島県郡山市片平町) 13時30分から14時30分
平地の下館に対して片平上館ともいうようです。
鎌倉時代の初期に安積伊東氏の一族が東側の下館に暮らしはじめ、その後戦国時代にはより防御性の高い西側の丘陵に城をかまえたものと考えられているようです。
しかし、この城は天正4年(1576)に三春田村氏により攻略を受けて城主である伊東大和守は会津へと逃れて、田村氏配下の大内親綱が片平姓に改めて城主となりましたが、その後蘆名、伊達と盟主を変えていきます。
東側の愛宕神社の境内にもコの字型の土塁が現存していますが、西側約150mほど離れた丘陵部にも、城跡の一部ではありますが、2か所の郭をはじめとして小口、土橋、土塁、切岸などの一連の遺構がしっかりと残されておりました。
この遺構へのルートは丘陵地帯(字中館辺りか)の削平により、現在では愛宕神社から直接向かうことはできません。
いささか迂回路にはなりますが、愛宕神社の参道の分岐を南側に回り込みそのまま新町と呼ばれる集落を通過し、突き当りの丁字路を右折(「嬉しい案内標識」の画像参照)すると、正面に「片平城の遠景」と題した画像の個所が見えますので、介護施設の脇を過ぎてそのまま真直ぐ北へと向かい民家東側の小道を道なりにすすめば小口へと続いています。(愛宕神社の分岐からは約500mほど)
なお、愛宕神社に参詣したところ賽銭箱の付近に都合80円分の硬貨(現流通通貨)を発見したので、手持ちの小銭と合わせてお参りさせていただきました。



  下館集落の洋品店の店先     愛宕神社の鳥居


    愛宕神社境内         境内の土塁

 
  愛宕神社境内への入口     奥が郭と土塁の残る丘陵


    愛宕神社遠景        船の舳先のような


 土砂の採掘による丘陵の消滅    シュールな光景


    嬉しい案内標識      お馴染みのクマ注意も


   南側にある西郭          土橋か


   東の愛宕神社方面      これも嬉しい城跡の標柱


    北郭の土塁         左の画像を広角撮影


  上の画像の土塁と土橋         土橋


   西郭西側の土塁          西郭の切岸


   西郭の小口付近         片平城の遠景


    片平城(上館)        片平城の周辺

このようにして郡山市3日目は、確実なところで11城館、その他4か所という結果に終わりました。

その翌日には少なくとも帰りがけに篠川館くらいは訪れる予定でおりましたが、生憎と突然の降雨に見舞われてしまったことなどにより、そのまま帰宅の途につくこととなりました。
年々歳々体力の低下が顕著となってきましたが、気力の方もこれに比例して減衰してきたようです。
なお、このブログの記述は、長引いている風邪と航空写真との照合など諸般の事情によって遅れに遅れて、どうにかこうにか翌月の12月14日になり纏めたものです。

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