10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 8 | 9 | ||
10 | 11 | 12 | 13 | 15 | 16 | |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
月日の経過は早いもので、あっという間にもう1年が過ぎてしまい、昨年10月の探訪以来となる通算4回目の郡山市です。
今年は岩手県南部や秋田県横手市方面などの遠隔地に出向いていたこともあるのか、福島県内の遠征は比較的中距離にさえ感じるようになってきました。
事実自宅の最寄りインターから目的地のインターまでの走行距離も僅かに230kmほどですので、たしかにさほどの距離感を感じないのも当然かもしれませんが。
とはいえ10月下旬からひきはじめている風邪の症状も思わしくはないことから、今回遠征の決行判断はギリギリの前々日まで保留していました。
けれども、ここでこのまま出向かないとなれば、例年の傾向に倣い今年の冬もそのまま微動だにしない可能性も濃厚になるものと考えられたことから決行に踏み切りました。
体調は元気な時の半分もないことから、途中で羽生、大谷、安積で長めの休憩をとり、高速では時速80kmで低速走行に徹することとして、普通3時間少しのところをなんと5時間以上を費やして郡山インターへと到着しました。
凸喜久田堀之内館(福島県郡山市喜久田町堀之内) 午前7時25分から7時35分
「室町期南奥の政治秩序と抗争」(垣内和孝氏/岩田書院)によれば、「相生集」による堀ノ内館の比定地のひとつともされていることから、大雑把に見当をつけて訪れてみましたが、たまたま周辺部ではいままさに圃場整備と思われる一大土木工事の真っ最中でした。
むろんこうした環境の変化については、時間の問題ではありましたが、幸いにして堀之内と推定されている辺りには工事の仮杭が施工されているだけで、いちおう従来からの耕地としての景観が保たれておりました。
当地は阿武隈川支流の一つである藤田川の北岸に所在しており、北側にもさらにその支流が東流し南北を河川に概ね挟まれた低台地(河岸段丘のひとつ)を形成しています。
中心部の字名は掘之目と考えられ、東側の宅地付近が秋殿前で、南部の5mほどの崖線下には欠下(がけしたの意からの転訛か)という字名も残されています。
「相生集」によれば、伊東信濃守邦信、弥左衛門邦政という安積伊東氏一族に繋がる人物の名が記されているということですが、その詳細は不明です。
朝方のやや厚めの雲から時々朝日が差し込む微妙な按配の天候でしたので、やや画像全体の色調バランスが崩れています。
画像左が欠下で、右側が堀ノ目 画像左側が秋殿前の台地
凸安子島城(福島県郡山市熱海町安子島字町、南町、桜畑) 午前8時00分から9時00分
なるべく周辺部を歩きながら、なおかつ安全な駐車スペースを確保するために磐越西線の踏切手前の通行の少ないと思われた個所に駐車して徒歩にてアプローチ。
そこから西側にあるはずの城跡を目指したつもりでしたが、少々離れすぎた場所に止めてしまい、結局のところ往復2km以上余計に歩いてしまいました。
全体として交通量もそう多くはなく、かつ耕地の間の道も狭くはないのですが、できるだけ路駐を避けるには、朝晩の通勤・通学時を除いた安子島駅前か、お参りをすることを前提として安子島集落内の大鏑神社駐車場、あるいは慈恩寺付近が相応しいようです。
安積伊東氏一族である安子島氏の居城とされ、天正17年(1589)蘆名氏に帰属していた安子島治部は会津攻略を目指した伊達政宗の軍勢を前に籠城したものの衆寡敵せず落城し会津に逃れたとされています。
翌年、豊臣秀吉奥州平定により蒲生氏郷が入封しその支城として蒲生郷成が入り、慶長3年(1598)からは上杉景勝が入封し「浅香城」とも呼称されたようです。
その後慶長5年(1600)関ヶ原合戦の際には、景勝の重臣である直江兼続が入城したともいわれているようです。
圃場整備により、往時の遺構の大半は消失していますが、それでも安子島小学校が所在する台地南部に切岸の名残を感じ、城址碑の東側には当時の堀跡の一部を確認することができます。
磐越西線安子島駅 字舘の周辺
空堀跡のようです 城址碑
安子島城の説明文 城址碑が所在している畑
空堀跡の切岸地形 空堀跡
安子島小学校の西側 同 左
安子島小学校南側 丘陵張出部
凸坤館(福島県郡山市熱海町安子島字滝ノ上、植松) 9時25分から9時50分
「まほろん」と「文化財包蔵地マップ」に掲載されているだけで歴史的経緯などの詳細は不明ですが、その所在地は清涼山慈恩寺境内と隣接している北西部低丘陵辺り(宅地、農地)を指しているようです。
安子島館と近いことから、これに関係する存在であったのかも知れませんが年代観も判然としていないようです。
包蔵地の中心部付近 慈恩寺
凸横川城(福島県郡山市熱海町玉川字舘山、舘越) 10時00分から10時50分
有名な高玉城の出城ともいわれているようですが、詳しいことは不明です。
下記の画像のように横川集落の北側に構えられた山城ですが、比高差は少なく約30mほどで南側の帳附神社参道から入れます。
城跡一帯の大部分はブドウ園などの耕作地として開墾されているという事情もあることから、どうにか城跡らしさを止めているのは神社境内付近周辺だけになるようです。
神社背後をめぐる土塁が城館跡に由来するものか、神社固有のものか否かがよくは分からない規模のものなので悩みます。
また、その土塁北側の僅かな凹みについても、堀跡なのかゴミ穴なのか正直迷います。
確実なところは境内地から見下ろすと分かる腰郭状の削平地ぐらいなのかも知れません。
境内地から東方向に伸びる丘陵の削平具合も気になりましたが、耕作地との関係が濃厚であるようにも思われました。
丘陵の最高地点はブドウ園を経営されている民家の辺りなのですが、道路沿いからざっと拝見した限りでは、これといった地形上の特徴を見出すことができませんでした。
ことによると台地外縁部に何らかの形跡を見て取ることもできるのかも知れませんが、見通しが良好ではないことから断念をいたしました。
横川館の標柱 帳附神社の境内
右側に腰郭のような地形も 舘山の地名と城跡東側
土塁だろうか 土塁のようにも
堀跡ではなさそうな 削平地は続くが
凸片式館(福島県郡山市熱海町下伊豆島字屋敷) 11時20分から11時40分
阿武隈川支流藤田川北岸の微高地に所在し、喜久田町堀之内が東1.2kmに所在しています。
所在地について「まほろん」「文化財包蔵地マップ」などでは上伊豆島と記されていますが、実際には下伊豆島に相当します。
その辺の錯語については「日本城郭大系」での所在地が上伊豆島字屋敷と記されたことに由来しているのかも知れません。また、同書によれば天正年間伊藤但馬守の居館と記されています。
おおむね字屋敷の集落に一致するようですが、現在残されている集落内の道路形状からは推定する限りでは、その主要部分は下伊豆島集会所が所在する辺りを西端とし、消防団車庫の西までを東端とする範囲ではないかと思われました。
また北西部には字西戸城(城館関連地名か)の地名も残されています。
「福島の中世城館跡」によれば、別名を下伊豆館ともいうようです。
周囲の水田面からは1メートルほど集落全体が高くなり、堀跡の名残とも思われるような曲がりくねった細い道が集落を取り巻いていました。
集落の西端 屈曲する道路
集落の中心部(主郭か) 集落の北西部
凸上伊豆島中館(福島県郡山市熱海町上伊豆島字町尻、上町) 11時55分から12時40分
「まほろん」「文化財包蔵地マップ」などによれば、本丸、二の丸の複数からなる郭と空堀、土塁、帯郭などが所在していることになっています。
丘陵東端部から西へと入る道が標柱により示されてはいますが、2か所目の腰郭の先辺りで城への道筋はアズマザザの藪などによりほぼ消滅しています。
時折ノイバラも混じる藪をかき分けて斜面を登ってゆくと人工的な切岸が現れ、それが土塁と堀切ないし空堀であることが分かります。
しかしそこから先がますます藪が酷くなりはじめ、郭とも思われる削平地東端部の辺りまで進んだところで、視界も遮られるようになるにいたり次第に気力が無くなりそれ以上の踏査を断念しました。
比高差も30mほどであったことから、帰路は斜面を体の赴くままに下ってみましたが、往路とは異なり少し北側にずれていたこともあり、実は2番目の腰郭と思っていた削平地が寧ろ帯郭でありそれが北側にすすむにつれて、完全な横堀に転じていることが分かりました。
「積達古館弁」などによれば安積伊東氏一族の伊藤弥平左衛門の館とも伝わりますが、その詳細は分かりませんが、南麓に中館、北麓には馬立の字名が所在しています。
いちおう横堀です 見るからに藪です
この東側の竹林から入れます この辺りまでは視界良好です
切岸、腰郭ともに良好です 反対側の腰郭(帯郭)の一部
藪を登ると到達する土塁 南西からの全景
凸上伊豆島下館(福島県郡山市熱海町上伊豆島字馬立、堀向) 13時00分から13時10分
「積達古館弁」によると下館も中館と同様の記述となっており詳細は不明ですが、その所在地については「まほろん」や「文化財包蔵地マップ」などによれば上伊豆島の集落東側一帯の模様です。
東側から この辺りが中心部か
凸上伊豆島上館(福島県郡山市熱海町上伊豆島字西畑) 13時10分から13時40分
「積達古館弁」によれば伊藤弥平左衛門(安積伊東氏一族か)の館とも伝わりますが詳細不明で、また比高差約40mほどに過ぎないのですが、斜度40度以上はありそうな石段が160段ほど続きますので還暦過ぎには少々堪えます。
鹿島神社境内に神社造立とは明らかに異なるとみられる主郭、腰郭、土塁、堀切などの遺構一式が残存しています。
土塁上にはイノシシと思われる糞があり、経験上からいかにもクマが出そうでしたので、クマベルを携行してはいましたが、最低限の遺構確認後に即刻退去いたしました。
中館方面からの遠望 麓の旧家(右側が館跡)
鹿島神社参道 鹿島神社鳥居
1カ所目の100段の石段 次に60段の石段も
途中の腰郭地形 神社裏の堀切跡
社殿西側奥の土塁 社殿削平地から続く地形
凸舘ノ越遺跡(福島県郡山市熱海町上伊豆島字舘ノ越) 14時10分から14時15分
待池台の工業団地内で現在の三菱樹脂郡山工場北側の遊水地付近に所在していたという館址で、複数の郭のほか土塁と空堀が存在していた模様ですが、台地そのものが削平され消失しています。
発掘調査などからは15世紀後半ごろの築城とされ築城主体は安積伊東氏一族と推定されているようです。
西側の工業団地を南北に縦断する道路から撮影すると巨大な風力発電装置(風車)が見えますので、その手前のこの遊水地辺りに画像右側から舌状台地が伸びていたようです。
位置は概ねこの辺りかと(笑)
凸片平新館(福島県郡山市片平町字新館) 14時20分から14時25分
こちらも前項の工業団地造成により消滅した中世城館遺構のひとつで、所在地は福島ハイテクプラザの北側辺りの模様です。
「まほろん」「文化財包蔵地マップ」「日本城郭大系」にも掲載されてはいますが、今のところその歴史的経緯については全く分かりません。
工場前の植込みが綺麗だった この通路の先の方らしい
凸山神館(福島県郡山市片平町字北向、舘下) 14時40分から15時10分
「まほろん」「文化財包蔵地マップ」などによりますと、待池台工業団地の南部に隣接した深谷神社境内とその周辺部が包蔵地と推定されている模様ですが、「福島の中世城館跡」「日本城郭大系」にも館名と所在地のほかには詳細な記載がなく、今のところその歴史的経緯などについては委細不明です。
東側から南側の一部にかけて、別の日に訪れた片平城などと同様の土砂の採掘などによる人工的な地形変更を受けている可能性も窺われ、境内地を含め参道の一部にも切通し工事などの形跡を感じます。
境内に入る個所が小口跡のようにも見えなくもありませんが、後世の参道整備に伴うものである可能性も考えられます。
境内地そのものはそれほど広くはありませんが、その北側には磐座のようにも見える露岩が所在しています。
山神館の遠景 神社参道入口付近
たぶん切通し 小口跡のようにも見えなくもない
深谷神社境内 境内側から見ると小口かも?
郭のように見えなくもない 社殿背後の磐座
磐座の上部 境内手前の参道
悩む切通し地形
凸幸新館(福島県郡山市片平町字庚申作、幸新舘) 15時10分から15時40分
時刻は午後3時を過ぎて元々曇りがちであったことから日差しの陰りが早く帰途に就こうかどうか迷いつつ、通りすがりなので訪れてみた場所です。
所在地は「まほろん」「文化財包蔵地マップ」などによるもので、「城郭大系」「福島の中世城館跡」にも館名と所在地以外の情報は記載されてはいません。
周辺には所在地の字名以外にも、周辺には舘山、平、下平などの字名が残されています。このうち舘山については南側に隣接する建材会社の資材置場付近を指している模様なのですが、こちらの幸新館との関連については全く分かりません。
こちらについても、近年の土砂の採掘跡とみられる崖地地形が散見され旧来の景観は失われているような印象でした。
包蔵地は正面の林と画像左側 小高い丘陵
丘陵の近くから撮影
このようにして、今回もどうにか郡山の1日目が終わりました。
前日までの天気予報とは異なり、雲量が多めとなり暑くなかったことはたいへん幸いしましたが、今年の7月下旬以来あまり出歩いていなかったことが影響して、足がなまり初日から持病の内反小指が悪化して左右合わせて2か所の痛みを伴う水疱を発症。
対処グッズ(痛みどめ、テーピング、まめテープなどなど)だけは十分すぎるくらい用意しておいたものの、歩行に支障がないかといえば、初日から早々とサポートする杖の携行不可欠という状態に陥りました。
一方、足底腱膜炎と骨棘の炎症の方は事前の対策(靴下2枚重ね履き、バンドエイド、ガーゼ2枚重ね)が功を奏してほとんど痛みを感ずることはありませんでした。
また、10月下旬からひきはじめていた風邪の具合が大きく改善しないままであったこともあり、咳き込みなど風の諸症状とともに酷い息切れも併発していたことから、この時には処方薬を携行しているとはいえ果たして残り3日間を持ちこたえることができるのかどうか懸念される状態となっていました。
(追記)このブログを記述しているのは探訪から1週間後の11月22日です。この日は早朝から福島県沖の地震と津波が発生。ブログの記述そのものも躊躇しましたが、幸いにして今のところでは大きな被害には至らず胸をなでおろしております。
思い起こせば2008年の福島遠征も宮城県内陸地震の直後で、そして今年の熊本地震の際には岩手県南部遠征というように、地震国とはいえ偶の遠征と地震とが何らかの形で重なり合うようなことも多く、複雑な心境なのであります。
画像はそんな感じがします
もちろん気候のことですよ^^
私も福島市、国見町、伊達市と訪問準備が整っているのですがまとまった休日がなく資料を眠らせていますwww
風邪などひかぬよう養生してくださいね
>画像はそんな感じがします
>もちろん気候のことですよ^^
>
>私も福島市、国見町、伊達市と訪問準備が整っているのですがまとまった休日がなく資料を眠らせていますwww
>
>風邪などひかぬよう養生してくださいね
こんばんは。
コメントありがとうございます。
遠征中も風邪ひきでしたが、今もって完治してはおりません ^_^;
これで熱海、伊豆島、片平の平野部はある程度片付きました。
今回の資料収集で市街地のローカルな情報も充実して参りましたので、体力的に可能であれば、来年も同じ頃に出かけているものと思われます。