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途中撤退することとなった先月の借りを返すべく再び横浜方面へと赴きました。
この地域で遺構の残存状態では良好な部類に含まれ、かつ季節的に訪問可能な小机城、茅ヶ崎城、榎下城方面は遠望するまでにも至っておりません。
当面の城館探訪にあたり、喫緊の課題でもある長時間歩行に伴う両足踵の痛み対策などを新たに考案。
極力歩行距離を抑制し、比較的短い距離でもタイムロスのない限りはできるだけ電車、バスを活用する方針と合わせて現状でとりうることのできるプランを考案してみました。
果たしてその結果は...
凸獅子ヶ谷殿山(横浜市鶴見区獅子ヶ谷町) 午前7時00分から8時20分
この日の手始めは獅子ヶ谷の殿山で、東急大倉山駅から徒歩にて向かう東急東横線東側の低丘陵地帯です。
この時ふっと脳裏に浮かんだ発想とまでにも至らないような漠然としたイメージが、後々の所要時間浪費の伏線を暗示していたとは思いもよらず。
1 師岡公園
途中で稜線上に所在する上記1の師岡公園を左に見ながら、比高差20mほどの丘陵を越えて丘陵に挟まれた谷底道のような細い市道にて殿山南麓に所在している横溝屋敷方面へと歩みを進めていていきました。
この一帯は南北を東西に延びる細長い丘陵に挟まれており、いろいろと魅力的な地形が各所に散見されますが、その多くは宅地開発により旧情を窺うことが難しくなっています。
すると、また今しがた越えてきたばかりの画像2の丘陵ラインがほんの少しだけ目視できるような緩やかな下り坂の地点へと到達。
2 稜線は師岡公園の一部
上記の稜線が気にかかる地形のひとつでしたが、当面の目的地とは300メートルほど離れた地点でもあり、そのままスルーして目的地のひとつ手前の永昌寺に立ち寄り、念のため尾根筋からのルートが無さそうなのを確認してから「みその公園、横溝屋敷」へと向かいました。
南側から見上げる殿山の景観は画像3のように比高30メートルほどの低丘陵でありながらも、両脇に支尾根を抱えるなかなか堂々とした山容でありました。
3 殿山(民家背後の正面あたり)4 横溝屋敷
横溝屋敷の古民家の風景を外部から撮影し、さていよいよ殿山へ登ろうとフェンスに近づいたところ、何と南京錠により施錠中というまさかの事態に直面し暫し茫然。
時刻は確かに未だ午前7時なので、施錠管理されていれば未開錠も道理といえば道理かとも。
しかし脇の方からも入れるような隙間もなく、やはり昨日までの予定通り先に大倉山方面に赴くべきであったなどと独白してもあとの祭りとなりました。
このあと、付近の地形を観察しルートを探し、少しだけ苦労して(⇒ホントはかなりの体力消耗)尾根筋の散歩コースへ到達し再度殿山方面へ。
5 この稜線は市民散歩コース 6 この先が殿山の山頂
あとから判明したことですが、横溝屋敷経由の入り口の開錠時刻は画像7のように午前9時30分でした。
それでも元々散歩コースとして管理整備されているため、それ以外に少なくとも4方向からアプローチできることを知りました。
また悔しいことに、先ほどの画像1の師岡公園からは、そのまままっすぐ尾根筋を辿ればこの殿山に到達できることも判明するというお粗末さ(笑)
周辺のアクセス環境を把握できたとはいえ、まさに徒労の一言に尽きました。
この時点で当所の予定時間を軽く1時間近くもオーバーするというおまけつきです。
7 横溝屋敷の開館時間 8 殿山山頂付近
9 横溝屋敷へと向かう痩せ尾根 10 殿山山頂付近
頂上部は公園整備が行われているので旧情は不明ですが、確実に削平地形が存在し低丘陵の割には明確なピークを形成していることは把握できます。
「城郭大系」では小田切氏との関連を示唆し、かつ「堀と土塁の存在」を示していますが、現状では削平地の周辺に確認はできません。
強いて言えば山頂部の斜面は切岸にも見えなくもないような気がしてきますが、たぶん気のせいなのかもしれません。
12 殿山山頂付近の斜面
帰路はそのまま尾根筋を南西へと向かい、想定通り師岡公園へと到達しました。
公園北東部には、一見すると土塁のようにも見えなくもない地面の盛り上がりも所在。
無論公園造成の際に大きく丘陵地形が改変されている可能性が想定されます。
13 尾根筋の削り残し 14 同 左
15殿山よりも城跡らしい景観
この程度の丘陵歩きですが、右往左往した結果比高差累計はすでに約80メートルに。
帰路、大倉山駅方面へと向かう道すがら、ここで早くも踵部分の違和感が発生。
未だ歩行数は9000歩と少しなので、今までの経験上からはあと1万歩くらいは大丈夫かと。
しかしそれでは大倉山方面で終わってしまうことになるというのは如何なものか...往復に伴う所要時間5時間の元を取るには少なくとも延べ5カ所程度は...などと愚にもつかないような皮算用をし始める愚かな管理人なのでありました。
管理人の思惑を嘲笑う様な連続し漸増する痛みとの激闘は、これがあくまでも序章に過ぎませんでした。
凸大曾根城(横浜市港北区大曽根町) 午前8時50分から10時50分
今度は獅子ヶ谷殿山しは反対側ととなる大倉山駅西方の高台です。
東急東横線の軌道により丘陵が大きく分断されていますが、本来はそのまま東側へと続いていた地形のようです。
1 丘陵を南北に通過する東急 2 この辺りでまだ三分の一
3 大倉山記念館 4 同 左
5 6 説明版もありました
7 この個所には味わいが 8 細長い郭状の地形です
9 確かに眺望は優れる 10 途中の尾根筋も公園化
11 龍松院境内
笠原氏関係の石碑が所在しているという龍松院は閉門しておりましたので、石碑は拝見しておりません。
12 この辺が最もそれらしく 13 これは新しい腰郭(笑)
上記左側の画像の個所が、下記の右下の画像の個所に繋がっています。
14 龍松院山門 15この右側辺りが気になります
上記画像の右側に通行止めのロープを渡した個所がありました。
だいぶ不確かな情報ですが、ことによると何らかの足跡が存在するのかも知れませんが道路沿いから拝見する限りは何とも言えません。
ここでもまた初っ端から比高差25メートルほどを2度ほど上り下りしたのて50メートルほどに。
これで登った高さは早くも延べ約130メートルほどになりました。
16 尾根筋が括れていた個所
太尾見晴らしの丘公園に赴くにあたり、牢尻緑地の南東側の市道を登り尾根筋沿いに移動開始して都合25メートルほどを登ってみました。
目指す地点は画像16の場所で、地形図などからも分かるようにこの地点は尾根筋が大きく括れていることから堀切などを置くには好都合な鞍部でした。
17 南西側のv字谷 18 北東側の谷
画像16から18に示したように、なかなか感じの良い尾根筋の括れを確認できましたが、残念ながら現在付近一帯は大々的に送電線関係の工事の真っ最中らしく、肝心の個所には建設資材運搬用のリフトが架設されておりました(苦笑)
もともと過剰な期待はしていませんでしたが、気持ちを新たにして北西の尾根続きにある「太尾見晴らしの丘公園」(画像19、20)へと移動しました。
19 太尾見晴らしの丘 20 同 左
21中腹からでも見通しは良好 22麓の印象よりも比高差がある
23 鶴見川と堤防 24鶴見川沿いの舟運の河岸跡碑
大倉山駅周辺の僅か2か所を探訪し終えたこの時点で時刻はすでに午前11時近くに。
当所の滞在予定を大幅に超えた時間消費となり、朝方涼しかった北風も、やがて南へと変わり体力・気力の方も相当に消耗していきました。
その一方で、もともと課題であった踵の違和感も徐々に拡大増加の一途。
凸小幡泰久館(横浜市港北区大豆戸町) 午前11時50分から12時05分
ここでの比高差は緩い坂道と寺院と神社の石段くらいのものなので、合計してもせいぜい15メートルほどなので、この際はのんびり休みがてらの歴史散歩のような訪問。
1 これくらいの比高差 2 本乗寺山門
3 八杉神社鳥居 4 石段は割合少ない
5 八杉神社社殿 6 雰囲気の良さそうな法面
「城郭大系」と現在の地形を見比べると、こじんまりとしたこの八杉神社境内辺りから南東の本乗寺のあたりの丘も伝わりますが詳細は不明のようです。
凸篠原城(横浜市港北区篠原町)13時00分から13時10分 先月に続く再訪
先月訪れた後でネットを調べたところでは城跡北側に説明版が設置されている由が掲載されておりましたので、完全に見落としていました。
こうした一連の画像撮影のため再訪しましたが、結果的には些か間の悪い再訪でもありました。
現地解説版などによりますと、金子出雲に関係する城跡であうとのことで、これは恐らく「城郭大系」が示すところの「金子出雲守の塁」に相当する模様です。
「城郭大系」が「横浜線菊名駅北の丘上」と誤った所在地を示したことから誤解が生じてきたというような経緯があるものと思われました。
また仮に「城郭大系」が示してる「菊名駅北の丘上」ですと、所在地の上では前記の「小幡泰久館」がこれに該当するものと思われます。
ここでも緩やかな市街地の坂を4度ほど上り下りしたので、一応比高差合計は30メートルほど。
1 新横浜南口駅前から 2 この細い道を道なりに進む
3 100mほどでここに出る 4 篠原城の解説版
5 篠原城の解説 6 詳細な縄張図も
7縄張図の腰郭と符合するあたり
解説版脇の掲示板には訪れた翌日の6月4日に現地見学会が行われる旨の告知が掲載されておりましたが、さすがに連日横浜まで往復5時間を要して赴くだけの気力は無く...(苦笑)
◎篠原八幡神社(横浜市港北区篠原町)13時30分から13時40分
単に立地条件が気にかかったので、先月篠原城の途中で立ち寄る計画でしたが、「乗車したバスが菊名駅行でしたのでパスした個所でした」って、ダジャレを言ってみても詮ないこと。
丘陵の頂上部に所在し北方の眺望が良好なのですが、独立した尾根筋という地形ではありませんでした。
横浜市内にはこうした低丘陵が多く存在するのですが、宅地造成の進行により地図上からは当該地形が判別できるようにはなっていないことをあらためて痛感。
遺構とはほぼ無縁の丘陵地帯でしたが、傾斜だけはきつく比高差約25メートルほど。
このため比高差は延べ約245メートルに。
1 八幡神社境内 2 同 左
3 関係は不明です 4 厄さえも無縁の年代
凸三会寺の土塁(横浜市港北区篠原町) 14時40分から14時55分
ここだけは、とても足に優しいほぼ市街地の平坦地でしたので一安心。
境内北側部分の本堂奥に土塁が現存しておりました。
高さは背丈ほどで、総延長は少なくとも30メートルほどでしょうか。
土塁地形の経緯は不詳ですが、近刊された「神奈川中世城郭図鑑」に僅か一行半ほど記載されていたことから訪れてみただけのことです。
篠原城を訪れた際にでも、時間に余裕があれば立ち寄ってみてもいいかもという印象でした。
1 真言宗三会寺の山門 2 三会寺本堂
3 よく見れば土塁が 4 歴代住職の墓石群
5 六地蔵 6 墓石の説明版
凸鳥山館(横浜市港北区鳥山町) 15時05分から15時10分
三会寺からは緩い上り坂となり、神社境内の鳥居から社殿までの比高差が約10メートルほどありました。
「城郭大系」によりますと、佐々木高綱の居城とも伝わりますが、なにぶんにも12世紀末のことなのでいささか違和感を生じる伝承でもあります。
社殿は丘陵中腹に鎮座していますが、無論、地表上の遺構は確認できません。
この時点では最早裏側の住宅地へと続くであろう40段ほどの石段を登る気力と体力は皆無でした (^_^;)
1 八幡神社参道 2 八幡神社社殿
凸土井谷砦(横浜市港北区小机町) 15時45分から16時00分
丘陵中腹に所在する寺院でしたので、比高差は約15メートルほどに。
小机城を任されていた笠原氏の墓石が所在する雲松院の裏山(おそらくは南側か)が城跡と考えられているようですが、立入禁止のため詳しい様子を窺い知ることはできませんでした。
解説プレートや解説版などによりますと、同寺には旗本となったその後の笠原氏の墓石も存在しているということです。
1 曹洞宗雲松院 2 山門
3 本堂 4 城跡を含む解説プレート
5山門、本堂、笠原氏墓石の解説
凸小机城(横浜市港北区小机町) 16時15分から16時50分
本日最大の目的地ですが、ようやく訪れたものの時刻はすでに午後4時過ぎに。
それでもこの季節なので未だ日没までは2時間以上の余裕がありました。
第3京浜により、一部城跡が分断されてはいますが、日頃の下草刈りが行き届き程よく公園化され散策コースも整備が行き届き本当に有難い限りです。
歴史上で小机城が登場するのは戦国時代初期の長尾景春の乱で、文明10年(1478)景春に同調した在地領主たちが、この城を拠点として扇谷上杉氏に反乱を起こしましたが、太田道灌により鎮圧されたとされています。
無論現在遺されている遺構は後北条氏時代晩年のものですが、秀吉の関東侵攻時まで機能していたことが推定されています。
後北条氏一族の属城で笠原氏が城代を務めたことが通説とされています。
通称本丸、二の丸ともに、従前に思い描いていたほどの広さは無く、最大でも数百人程度が籠れるかどうかという印象の規模でした。
郭と空堀関係は実に良く遺されていますが、その反面土塁の残存状態は想像していたよりも耕作などによる削平が行われた模様です。
1 JR横浜線小机駅構内にて 2 小机城遠望
3 住宅街から城跡へ 4 お、切岸が
5 こころ和む城址標柱 6 とりあえず本丸から
7 本丸南側の空堀 8 本丸へ続く土橋
9 本丸南小口土塁 10 本丸北東部の堀底道
11 本丸北側の空堀 12 二の丸西側の堀底道
13 同 前 14 同 前
15 同 前 16 二の丸西側切岸
17 二の丸北西堀底道 18 北方の眺望
19 二の丸北側堀底道 20 二の丸北部
21 二の丸南西の櫓台 22 本丸方面
23 本丸東側小口付近 24 二の丸南側腰郭
25 城跡南部の馬出へ 26 本丸南側空堀
27 同 前 28 城跡南端の腰郭群
29 馬出東側城道 30 同 前
31 馬出方面の遠景
丘陵麓から本丸へ向かい堀底道に降りて二の丸へ向かうルートをとりましたが、それでも比高差は約30メートルほどになりましたので、この日の累計比高差が約300メートルほどとなり、ちょっとした山城並みの比高差となってしまいました。
それても総じて丘陵越えのルートは適度に道が管理整備されお陰様で快適に探訪できました。
★以上の8カ所の歴史的背景などについては、後日改めて記述を追加・改定したいと思います(⇒ただし時期は未定)ので、このブログはあくまでも当面の備忘録となります。
この日の歩行数は予定を遥かに超過して、延べ歩行時間7時間50分、歩行歩数4万6000歩近くになったので、もう少しでフルマラソン寸前に。
梅雨の走りにも遭わず、懸念していたやぶ蚊の襲来もなく、この足の状態で9か所を訪れることができたのは殆ど奇跡のようなものかとも思う次第にて。
そうはいっても、帰路、もはやエスカレータを駆け下りるような気力と体力は完全に消失。
東急菊名駅で直通急行川越市行に僅か10秒ほどの時間差で乗車できず、おまけに疲労と痛みで地団駄さえも踏めず、東上線直通は何と40分後という無情の時刻表を茫然としながら眺めておりました。
帰り際にのんびりと飲んでいた自販機のトマトジュースに八つ当たりしてみたものの、そのあとで幸いにして渋谷行始発各駅停車で座れたので小さな幸せを噛みしめる卑小な自分がおりました。
座席に腰かけていると踵の方もさることから、両膝と両足首がパンパンに腫れ上がっていたので、通勤逆コースの空いている車内にて片方ずつ足首を軽く左右に回転させ機能回復に邁進。
さて本日久しぶりに発症した強烈な肝心の踵の痛み。
原因は恐らく足裏の浮腫みであろうと推察。
装着していたソルボ製踵サポータの位置が、体重を含む荷重と長時間歩行が複合し足裏の浮腫みに繋がり、これにより1センチ近くもずれていたことが主な原因であると判明。
両足踵にはサポーターのエッジ付近が段差となって食い込んだことにより発症したものであることは間違いが無さそう。
このため予め貼っておいたバンドエイド大型傷パーワーパッドも殆ど役立ちませんでした。
装着していた踵サポーターは、現在のところ一昨年秋頃から何種類が試した中では機能もサイズも最も効果的であることは実証済み。
従っていわゆる足底腱膜炎の症状は抑止できたものの、足裏全体の浮腫みに伴うサポーターのずれが引き起こした痛みだとすれば、あらかじめ浮腫みを想定した装着位置を考えれば良いだけのことなのかと。
一方、日常履いている足底の柔らかなサンダルでは殆ど足裏への負担は無いことも事実。
斜面を上がり降りすることを考慮しなければ、限りなくこれに近い履物を選べば済むことなのかとも。
渋谷駅から乗車した副都心線東上線直通通勤急行川越市行きでの両踵に連続発生する激痛は、まさに想像を絶するものがありました。
これが急行なので渋谷、新宿、池袋、小竹向原と停車駅だけは少なく有難いものの、座席に座れるチャンスは東上線に入っても最後までめぐっては来ませんでした。
見かけはギリギリ優先席に座れるかどうかの瀬戸際の外見なので、あまり文句などをいうこともできません。
加えてこの折に吊り革を握っていた左手の指全体が強直し感覚を喪失。
たぶん過労と脱水症状による腱の痙攣と推察。
動く方の右手で揉み解してどうにか危機を脱出。
この時期には経口補水液2本を常時携行し、それ以外に必要に応じてコンビニや自販機などでさらに数本ほどを補給していても、状況によりこうなることは大分以前に体験済み。
なお、翌日出かけた「終活準備の斎場めぐり」では、愛用のサンダルで5000歩以上歩けているので、それなりの回復力が強まってきたことは微かな明るい材料なのかも知れません。
以前ならば、ほぼ一週間くらいは身動きがままならなかったことを思えば進歩なのかとも。
というような次第で、今回はようやくどうにか小机城までは廻ることができました。
とはいえ茅ヶ崎城と榎下城方面は梅雨入りも近いこともあり、その訪問が何時になるかは皆目不明です。
あと数年もたてば年齢的にさらに運動機能が低下していくのは必定なので、動けるうちに動いておこうと心に誓った一日なのでありました。
本日の金言。
「足は浮腫は恐るべし。これに優るは日頃の節制、正しい履物」
そうそう、忘れないうちにこれも記録しておこう。
「指の痙攣、脱水症状」
いつもコメントありがとうございます。
今のところこの梅雨から夏にかけてましては、個人的な空白地帯でもあり、このまま神奈川県方面を回遊することになるかも知れません。
遺構のないところが多いことは確かですが、鉄道やバスなどの公共交通機関が結構便利に利用できますので病み付きになりそうです^^
また暑さも相当ではなかったかと。
横浜市はあと榎下城ぐらいですね。
荏田城は遺構は手つかずですが立入禁止なので。
川崎市だと小沢城がまずまずでした。
さほど藪もなかろうかと思います。
おはようございます。
ようこそ、お越し下さいました。
50歳台の半ば過ぎ頃に50キロメートル前後を歩いて以来の長距離でしたが、足元を支えているはずの筋力の低下には正に目を覆うものがありました~
電車、バスでの城館探訪のご労苦が身に染みました。
小沢城、榎下城、足への負担を考慮し一日の目標を3か所くらいにして行動時間を絞り、梅雨の晴れ間を見計らって出かけてまいります。
貴重な情報忝く存じます。