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今回は何故か、ふと思い立って普段は殆ど赴くことのない神奈川県の市街地へ。
車でのアクセスが不向きな土地柄ゆえ、なかなか足が向かなかった地域ではあります。
午前4時30分に自宅を出てから、東武東上線-副都心線-東急東横線を乗り換えなしの直通通勤急行なので乗車は最短の時間1時間半弱。
座席にも座れ、かつ無事に通勤ラッシュも回避。
思えば便利にはなったもので、ひと昔前ならば池袋、品川での乗り換えが不可避で所要時間は2時間を優に超えるはず。
こうして横浜駅に到着した時にはラッシュ前の午前6時35分前。
鍵となるのは、雨と蒸し暑さなどが懸念されたこの日の空模様。
凸権現山城(神奈川県横浜市神奈川区幸ケ谷) 午前6時50分から7時40分
横浜駅に近い横浜市内なので、まず駐車できるような場所はありませんので電車利用が大前提。
従来の城跡推定地は「城郭大系」などでは「幸ケ谷公園」とされてきたようですが、最近刊行された「神奈川中世城郭図鑑」によりますと、もう少し東側の幼稚園や小学校の所在する辺りが権現山のピークではなかったのかという説が有力視されているようです。
15世紀初め頃の伊勢氏と扇ケ谷上杉氏による「権現山合戦」の舞台と伝わります。
京急神奈川駅前の解説 権現山城のネコさん
一応解説版がありました かつての推定丘陵先端部付近
なお城跡と麓の神社にて割合と懐こいネコさん2匹と対面し記念撮影。
鳥を眺めているのか、中空を凝視しているのか不明な不思議なネコさんは「さくら耳」(去勢済み)でした。
丘陵中腹の洲崎神社境内 鳥を眺めているネコさん
仏公使館があった甚行寺 境内の紫陽花
凸青木城(神奈川県横浜市神奈川区高島台付近) 午前8時00分から8時10分
現在曹洞宗本覚寺の境内地となっている台地が遺されているだけで、地表上の遺構は確認できません。
旧来は権現山城と一体となっていた城跡であるという考え方が定説となっている模様です。
なお、幕末期には米国の領事館が置かれていた時期もあり、山門脇に史跡の標柱も設置されていました。
また、この石柱後方の緑豊かな台地が権現山城に当たります。
「権現山合戦」では上杉方の藤田氏によって、伊勢氏側に加担した上田蔵人の籠る要害が落城したとも伝わります。
城跡の曹洞宗本覚寺 こちらは米国領事館跡
タイサンボクの花 この辺りに堀切が
以上の僅か2か所(⇒実質1か所のようなもの)を訪れただけで、風はあるもののじっとりと湿った南風が吹き、体中から汗が止めなく吹き出すような湿度は予想以上。
早起きのせいなのか、歳のせいなのかは分からねども、この時点ですでに早くも疲労が顔をのぞかせはじめました。
それでも、本覚寺のすぐ南西側で東急反町駅へと向かう最短距離の専用通路を見出し欣喜雀躍。
・・・と、なってしまったことが全ての誤算の始まりでした。
前日の睡眠の直前までは、本来はこのあとでいったん京浜急行神奈川駅あたりに戻り、鶴見駅方面からバスまたは徒歩にて総持寺の北側を通過して諏訪坂方面へと向かい、ふたたび上手い具合にバスがあれば県道85号線を西へと向かうというような理想的ルートを描いておりました。
セイヨウアジサイ(3枚共) ついでに露草も
それが専用通路の標識を目にした途端にコロッと失念して、能天気に上の早咲きのアジサイを撮影し始めたりしており、このあとの相当に無駄な労苦を積み重ねることに繋がっていきました。
あとで測ってみたところでは無駄に歩いた距離は何と約10キロメートル弱に。
凸寺尾城(神奈川県横浜市鶴見区馬場3丁目一体) 9時20分から10時40分
後北条氏家臣諏訪氏の城と伝わりますが、基本的に駐車できる場所はありません。
東急の妙蓮寺駅から県道85号線を北東に向かいます。
このとき最寄りのバス停で確かめた時刻表ではこの時間帯のダイヤは1時間に2本。
ならば己の足を信じて歩くのみと判断したのが大間違い。
東急バスの方は通勤・通学時間以外の最も少ない時間帯でも1時間当たり6本もあったという事実に気づいたのは、このあとの諏訪館から戻る途中であったのてありました。
市街地化が著しく遺構に乏しい様子でしたが、事前に下調べしたところでは、だいたい次の3か所くらいは見ておきたいところでありました。
ところが思いのほかの比高差と元々地理不案内のために、比高差が少ないとはいえ丘陵地帯を二往復半するなどして、かなりの時間を費やすこととなりました。
麓からの比高差は20mほど この石段は結構つらい
◎城跡石碑
丘陵の山頂近くに所在してるのですが、具体的には寺尾3丁目15番の住宅地南西角の道路沿いに所在しています。
この日は横浜市内ということもあるのか、同好の士の方と遭遇することがたびたび。
城跡石碑の前で軽く情報交換などを。
◎馬場稲荷
ウェブ地図などには「馬場稲荷」の表記があります。
石碑の箇所よりも比高差で10メートルほど低位に所在しており、このためアプローチには北西側の道路からが便利です。
◎殿山公園
公園内の西側住宅よりに空堀(竪堀)とこれに平行する土塁を確認できますが、周辺の宅地開発が進行しているため、いささか今後の遺構保全が気がかりです。
徒歩などの場合には北側の県道から、まず「馬場稲荷」、次に「城跡石碑」の順番で訪れ、最後に城跡石碑脇の細い道をそのまま東側へと向かい行き止まりとなる手前南側(右側)に「殿山公園」入口の木柱がありますので、この順路で廻るのがアップダウンも少なくて比較的楽なルートだと気が付きました。
もちろん丘陵南東麓からも行けますが、疲れない最短ルートは上記のとおりです。
ちなみに管理人は「城跡石碑」探しでは山頂の住宅地を一周半し、「馬場稲荷」では2度あの石段を往復し、殿山公園を探すにあたっては東高校の方まで足を伸ばすという無駄骨を折っております。
丘陵上からの殿山公園入口 左の画像近くの解説板
竪堀と土塁 細長い公園の中ほどの解説版
以上の寺尾城での彷徨が終了したのち、何かとても大事なことを忘れていたことを思い出し、漸くそのことに気付いたものの時すでに遅く、すでに次の諏訪館へと向かっている途上なのでありました。
水連(ヒツジグサ)とも 同 左
下記の個所に向かう途中で立ち寄った水天宮境内の池に咲いていた水連です。
凸諏訪午之丞館(神奈川県横浜市鶴見区諏訪坂) 11時55分から12時20分
比較的狭い道が多く無論駐車できるような場所はありません。
「城郭大系」などによりますと、前記の寺尾城の城主であった諏訪午之丞の居館があったと伝わる場所ですが、現状は丘陵に崖線が確認できるものの一面の住宅地となっております。。
県道85号線が大きくカーブしているので、地図上の最短距離を進もうとしたのがまたもや大きな誤算になつてしまいました。
そもそも県道が大きくカーブしているのは丘陵地形が多いがための回避措置であり、こうした地形の最短距離をすすむということは正に「丘を越えて」いくことに他ならず。
僅か比高差20メートルほどの丘陵でも、2か所越えれば40メートルという計算に。
いわゆるだらだら坂もきついのですが、登るのが嫌気をさす急坂も疲れます。
あとで調べてみたところでは、このようにしてこの日に登った比高差は都市部の丘陵地帯であるにもかかわらず、累計で160メートルは超えておりました。
途中にあった熊野神社 解説版の後方は只今工事中
道路左側が推定館跡 上記解説版部分拡大
上記の解説版と現在の道路が幾分異なっているため、その相違を理解するまで些か時間を要しましたが、本来は古墳などとともに東西約150メートル、南北約100メートルほどの規模で崖線先端部付近に所在していたものと思われました。
このあとは、いくぶん遅めの昼食を摂り彼我の情勢(肉体疲労と空模様)を分析したのち、東急バスにて終点の「菊名駅」へ。
駅に着いてから次へと向かうか、そのまま自宅へと戻るかを決めるつもりでしたが、まだあと少しくらいならば歩けそうな気配でしたので重たい足を引きづりながら篠原城方面へと向かいました。
凸篠原城(神奈川県横浜市港北区篠原町)15時00分から15時15分
近年に城郭研究者の方が確認して話題となった中世城郭で、所在地から推定すれば小机城の支城のような役割が想定されます。
新横浜駅南側の丘陵地帯に奇跡的に残存していた城郭遺構ですが、この一帯は最近の宅地造成などにより主郭部周辺を除いて宅地化の波に飲み込まれてしまいました。
比較的狭い道路が多く、無論駐車できるような場所はありません。
それにしても南側の丘陵方面からアプローチすると、城跡が所在する向こう側には新横浜駅周辺の高層ビルの上半分がが覗いていたりするという何とも不思議な光景を見ることができます。
最寄の菊名駅からは横浜線北側の市道を西にすすんで丘陵の麓へと到達するのが、平坦でもあり最も便利かもしれません。
自分の通った「錦が丘分譲地」方面経由ですと、最悪比高差20メートル近い丘陵を登って下るという無駄に等しい疲労の激しいコースになります(^_^;)
郭跡かも 主郭東の横堀付近
さて肝心の遺構ですが、以前に発掘調査が行われた際の詳しい解説パネル類などは見当たらず、今回宅地化された個所以外にはそのまま立ち入り禁止のフェンスが巡らされておりました。
しかし現在でも主郭切岸の一部と主郭東側の横堀については、フェンス越しからも現存していることが明確に確認できます。
このほかには主郭南側の平場と、辛うじて新しい造成宅地にも郭群切岸の一部が遺されているようにも見受けられました。
この日の本来の目的地はこの時期でも行けそうな小机城と茅ヶ崎城がメイン。
時刻は未だ午後3時15分過ぎで、新横浜駅までは徒歩約1キロメートルほど。
しかも未だ5か所しか探訪していないという冷徹な現実に暫し茫然。
小机城での歩行距離は駅からの徒歩を含めてもせいぜい4キロメートルくらい。
しかし生来の欲をかく悪癖が頭をもたげ、これに頑固な性格が輪をかけて、この日ここまで歩いた距離は何と32キロメートルを超過しておりました。
10年近く前には50キロメートル以上を歩いた経験はあるものの、足回りの痛み対策を行っているとはいえ、加齢に加えて手荷物の加重(約6キログラム)と徒歩の場合には車のような間の休みがないことなどを失念してしまい、確実に踵へのダメージが蓄積されていきました。
さらにこれに追い打ちをかけるようにして、時々路面に落ちる小雨と相俟って遠雷の轟も心なしか激しくなり始め、空模様もかなり怪しげに変貌していきました。
かくしてせめて小机城の遠景くらいは拝みたいという微かな願いも叶わず撤退を余儀なくされました。
本日の教訓
「丘を越えて」行くのは辛い。
道路が曲がるのには必ず訳がある。
乗り換えなしで横浜まで行けるのは楽になりましたね~
横浜周辺は時間が経つとドンドン開発されて遺構が無くなってしまいそうですね。
資料の件、暫く待ち下さい。
そうはいっても辛うじて遺されている山林の中にも好適地となるものが散見されました。
無論、その多くは私有地につき立入禁止という事例が多く、単にフェンス越しに雑木林を眺めるだけでしたが、歩いてみて初めて分かることの大切さを再認識いたしました。
資料の件、お手数をおかけいたします。