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岩手県遠征もとうとう最終日を迎えました。
この日も天候次第で一関市内の川崎、藤沢方面か、或いは昨日に引き続き奥州市以北を国道4号線で北上するのか迷いましたが、ここは確実に遺構と対面できそうな可能性のある平地の城館跡が多い後者の方を選択することにしました。
凸栗林遺跡(奥州市水沢区真城字八反町) 午前9時05分から9時10分
下姉体城へと向かう道すがら、たまたま参考までに遠景を撮影させていただいたものです。
およそ100メートルほど離れた県道197号線沿いからでもとても目立つ、ひときわ構えの大きなお屋敷を含む数軒ほどの集落でした。
後日少し調べてみますところでは、どうやら中近世の屋敷跡との関わりがあるようです。
帰宅後に奈良文化財研究時所の遺跡調査報告書データベースを幾つか調べてみましたところ、当該遺跡と直接関係するものは登録掲載されてはいませんでした。
しかしいくつかの報告書には「周辺遺跡」のひとつとして収録されており、やはり中近世の屋敷跡であることが判明しましたので1か所加算してみました(笑)
この一帯の胆沢扇状地にはその起源が中世にまで遡るとみられる環濠屋敷形態の旧家が少なくなく、こちらもそうした経緯があるようにも思われるような景観でした。
凸下姉体城(奥州市水沢区姉体) 9時30分から9時55分
別名を内館ともいって、下姉体城の本丸とも伝わる遺構です。
たぶん新山神社が地図上の目印と考えも先ずは神社境内前に駐車させていただき、恒例となっている参拝ののちはそのまま境内から北側にのびた農道経由で隣接する西側の集落へ。
すると行く手の左側には城跡の石柱と解説版の姿が目に入り、加えてその背後の屋敷北側には堂々とした屋敷をとりまく土塁遺構がその姿を現しました。
北側土塁の高さは最大で3メートル弱、長さは60メートルほどでそのまま西側方向に続いています。
南側の土塁はほぼ消失しているように見受けられますが、これに付随する約5メートルほどの幅を有していたとされる堀跡は現在の集落内の通路となっている様子も窺われます。
新山神社の参道 北側の土塁
北側土塁を西側から 土塁の上部
平地に占地しているにもかかわらず、下調べ不十分で訪れたこともあり、意外性のある城館遺構との対面に余りの感激を来たし、帰宅後に気づいたことではありますが、迂闊にも関連する複郭などの周辺遺構を確認することを失念しておりました。
「安永風土記」によれば、葛西家重臣である大内氏の居城と伝わっています。
凸上姉体城(奥州市水沢区姉体) 10時10分から10時30分
市街地の外れとはいっても地図情報などからは周辺の宅地化がすすんでいることが窺え、けっして溢れるような期待感を持って訪れた訳ではありませんでした。
しかし国道343号線を左折して一般市道に入った途端に眼前に切岸により頑強に防御された遺構が現れました。
城館周辺部をとりまいていたであろう堀跡は北側と西側部分を除いてほぼ埋め立てられているのですが、北側から見上げる最大4メートルを超える郭切岸の威容には感動を覚えます。
北西側から 東側から
南側の標柱と解説版 西側の土塁と堀跡
北西側から
後から知ったことですが、こちらも旧水沢市内では保存状態良好な城館遺構として著名のようで、だいぶ以前に刊行された市史においても縄張図付で掲載されておりました。
この上下二つの姉体城については、近年の平地化が進行する平地に所在しているという厳しい環境下にあってなおも奇跡的に残存している良好な城館遺構であるといえましょう。
なおこの主郭が所在する元々の台地地形については、恐らくは胆沢扇状地の形成過程のなかで長い年月を経て支流である胆沢川の北進とその本流である北上川の流れにより、形成されていた扇状台地の一部が次第に浸食されて形成されたもののように思われます。
18世紀後半に編纂された仙台藩の地誌「安永風土記」によれば、天正年間に柏山家家臣の千田豊後が居住していたと記されています。
凸築館(奥州市水沢区佐倉河) 12時20分から12時55分
一部のサイトなどではすでに消滅したともいわれております。
管理人も始めは、南側の坂下から胆沢川が形成した河岸段丘の地形が眼前に広がり、その先には宅地化された台地が続くという景観を眺めそうしたような印象を抱きました。
それでもこの時点ではまたまだ気力体力も多少残っていたこともあり、直接の関連は無いものと思いつつも、まずは念のために遠く東側に見えた崖線上に所在する神社の祠を目指してみました。
少し東側に外れすぎている この円弧状地形の正体は
始めは活断層による断層帯の影響なのかとも思いましたが、このあまりにも美しい造形を描いている緩やかなカーブを伴う崖線が合致しませんので、その真相がとても気にかかりました。
自宅に戻った後にいろいろ調べてみますと、この地形については、学術的には「胆沢川」の流路の変遷による河岸段丘形成活動であると考えられているようでした。
北上川西岸に所在する広大な胆沢扇状地は胆沢川の流路の変遷がもたらしたものと考えられますが、長い年月を経て胆沢川自体も大きく流路を変遷させ次第に北上していったとされているようです。
この地形は確実に電子国土に 市道に戻り目を転じれば
南側の堀跡 北側堀跡に降りてみました
西側の堀跡は埋戻しが
しかし上記の画像からも分かるように、よくよく現地を踏査してみれば、実際には近年において新たに建設された南北に走る市道西側に現在でも所在しており、郭北側の堀跡も明確に遺されておりました。
前日に降った水たまりが残された北側堀跡は少しばかり足元が沈みそうでした。
市道の西側道路沿いに立ちますと、今もなおつての堀跡である湿地を確実に俯瞰することができます。
ただし東側の堀跡はこの道路建設により完全に消失していることも判明します。
南側も現在は水田として耕作されていますが、はっきりと上記画像のような堀跡の形跡を遺しています。
なお西側堀跡は耕地化などによる一部埋戻しなどにより、幾分分かりにくくなっておりました。
凸佐野館(奥州市水沢区佐倉河) 12時20分から12時30分
別名をタテツバタケとも。
水沢インターチェンジの北側約300メートルほどの地点ある宿集落内に所在しています。
有名な胆沢城から見た場合には西南西約1キロメートルの方角になります。
こちらは予め城館跡というような知識が無ければほぼ見落としてしまうような目立ちにくい耕作地内の微高地ですが、よくよくじっくりと踏査してみれば周辺の水田面との比高差は1メートル前後を測ることを確認できます。
東側切岸付近 西側の切岸付近
西側の農道から 周辺の案内図にも掲載
後世の耕作等によりその形状がある程度変わっているという可能性も考えられますが、本来は方形の複数の郭群から構成された縄張を有していたものなのかも知れません。
この場所からは少し離れた沿道に設置されていた宇佐地区内の案内板にも「佐野館遺跡(城館跡)」との所在が表記されていました。
この案内板を含めてざっと周囲を見渡した限りでは、現地には城館跡に関する標柱や解説版の類は見当たらず、南西角付近に3基の太陽光パネルとともに戊辰戦争当時の新旧の鎮魂碑が設置されているだけでした。
凸胆沢城(奥州市水沢区佐倉河) 13時25分から14時30分
市の埋蔵文化財センターに立ち寄り関係資料の収集。
ここで13時30分からの「アテルイ」関係のビデオ上映(約30分)に唯一の観客として貢献を。
9世紀のはじめ頃に坂上田村麻呂が築き、その完成後には多賀城の鎮守府が当地に移されて、10世紀の後半頃まで機能したとされる有名な古代城柵。
県道沿いの案内板 奥州市埋蔵文化財センター
石碑 復元遺構
北側から政庁方面を撮影 台地の北側辺縁部
こちらの方が気になります これもよく見る撮影ポイント
凸北館(奥州市水沢区佐倉河) 14時40分から14時50分
葛西一族柏山氏の家臣菊池氏の館とも伝わる。
別名を館屋敷とも。
北館と記された指導標 北館
凸上館(奥州市水沢区佐倉河) 15時00分から15時10分
文化財センターでいただいた資料のおかげで、所在地そのものは明確に確認できたのですが、現地は湧水などのため些か足元が思わしくなく、藪もそこそこあったことから踏査は断念いたしました。
現地で収集した資料からは、三つの郭とこれに伴う堀跡などが遺されているということのようです。
別名を川端館とも。
三代清水といわれる湧水 この湧水の東側台地先端に
凸鳥海柵(金ヶ崎町西根縦街道南、原添下、鳥海、二ノ宮後) 15時50分から16時20分
「陸奥話記」に記された安倍一族鳥海三郎宗任の柵跡と伝えられ、国史跡指定をうけている著名な遺構です。
発掘調査などからは蝦夷の時代から奥州藤原氏の治世まで利用されていた痕跡が窺えるようです。
パンフレットの表紙のような たまたま桜が満開に・・
駐車場の現地解説版 サイトはこの辺の画像が多い
谷筋の開口部 反対方向から
大きな標柱と郭跡 水仙も咲いていたので
コントラストを強めに 少し堀跡に降りてみました
凸金ヶ崎城(金ヶ崎町) 16時40分頃
この時点では関係資料不足のため詳しいルートが分らず、結果的に県道沿いからスルーして手抜きをすることとなりました。
凸舟形館(金ヶ崎町) たぶん17時過ぎ頃
夕刻につき、手抜きついでにもう一カ所。
この間九州熊本地方では大きな地震に見舞われ、日付が変わったばかりのこの日の深夜にもさらに規模の大きな地震が発生いたしました。
迅速な人命の救助並びに被災された方々の一日も早い復興をお祈りするばかりです。
途中休憩で立ち寄った国見サービスエリアで、災害支援派遣されている秋田の陸自の方々が小休止されておいでになりましたので、先行する陸自車列の皆様を叩頭して見送らせていただきました。
このあとは延々と高速を走り続けて久喜からは圏央道、関越経由でそのままノンストップ走行。
その後埼玉の自宅に帰宅したのは17日の午前1時30分前後に。
お陰様でこうした渦中にあっても管理人は岩手県遠征の7日間が無事に終了いたしましたが、顕在化する加齢現象に加えて、こうした近年の頻発する地震など自然災害の発生頻度などを考慮いたしますと、今後の再訪があるのかどうかは全く先が読めないでおります。
それでもどうにかして岩手県南部までは辿りつき、7日間で約1100キロメートルを運転し、延べ120キロメートル以上を歩き続けることができたことだけは確かな事実でもあることから、もうあと何年かは頑張れそうな気持ちもしてきた「みちのく遠征」となりました。