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3日間歩き回ってみて一関方面では容易に探訪数を稼ぐことが難しいという状況が日々次第に明確化してきました。
その原因の大半は安定しない天候に加えて連日藪城に悩まされていたことによるものなのですが、開き直ってこの際はより本格的な藪城を目指すことにしました。
凸要害城(一関市真柴字内ノ目) 午前9時05分から10時45分
別名を下要害城とも。
東北本線と東北新幹線の軌道が分れる南側の丘陵地帯に所在し、現在では東側を国道342号線、西側に国道4号線が走っていますが、元来の陸羽街道は西山麓の眼を通過するという要衝にあることが分かります。
国道側麓から見上げた城跡
「電子国土」などの地図情報によりますと、南北方向に伸びた丘陵北端部に所在し、麓の内ノ目集落からの比高差は約60メートル余りで、尾根筋までの直線距離は300メートル足らずと多少無理するには何とかなりそうな感触でした。
けれども実際に東側の麓から見上げた限りでは、下黒沢城の藪よりも遥かに厳しそうな状況が伝わってきました。
一番当てが外れたのは電子国土などに掲載されてる東側に存在したはずの登攀ルートが2か所とも消失していたことでした。
それでも、通行止めとなった小さな用水池のある個所までは林道がありましたので、その先の直線200メートルほどを北へと藪を迂回しながら稜線部を目指すのが最短ルートとなっておりました。
予めそれなりの覚悟をしていたとはいえ、予想通りにこのあとの約100分間のうち半分以上は叢生するアズマザサやノイバラなどの藪と格闘するというような結果に追い込まれました。
肝心の遺構の方は主郭周辺を取り巻く横堀らしき溝とこれに関連する堀切が現存していますが、何分にもアズマザサが叢生しているために地表観察が困難となっていました。
主郭付近の堀切乃至横堀
笹薮といえばそれまでですが
寧ろ帰り際にその存在に気づくこととなった東側斜面に刻まれた竪堀のような地形の方が目立ちます。
位置的には城館遺構との関連性が想定されますが、幾分堀幅が広すぎて主郭周辺を取り巻く横堀ととのバランスに再考の余地もありそうな印象でした。
可能性としては後世の樹木伐採、搬出用の林道跡のような性格のものなのかも知れません。
東斜面の竪堀状の地形
南北方向の尾根筋上には東北電力の送電線保守のために整備された作業道が通ってはいるのですが、あくまでも送電線用鉄塔とその周辺の保守のためのもので従来の里道の方は事実上殆ど廃道になってしまった模様でした。
なお国道342号線が大きく東へとカーブする様子が見える南方約800メートルほどの地点まで確認してみましたが、現在では内ノ目集落南部と八雲神社方面からアプローチする里道は確認できませんでした。
城館遺構自体も尾根筋先端部に集中している模様であり、その南方に続く稜線上にはそれらしい地形を見出すことはできませんでした。
なお、内ノ目集落反対側の東側丘陵地帯にも法面加工が気にかかる地形が複数散見されていました。
凸牧沢城(一関市真柴字細田) 午前11時から12時10分
別名を内ノ目館とも。
牧沢交差点北東角の比高差30メートルばかりの低丘陵に所在している城跡ですが、近年工業団地建設などに伴い新しい舗装道路が築造されて丘陵が南北に分断されています。
東側丘陵先端部付近
車の駐車スペースを求めつつ工業団地側からこの新しい舗装道路を道なりにすすみ下ると南側(左側)の道路端に城跡の標柱を見出すことができます。
特に解説が伴わない場合が多いのですが、他県から来訪した者にとっては地元ならびに行政機関のこういうご配慮はとてもありがたく誠に助かります。
尾根筋は東西に2本存在し、1980年代の城館調査によれば郭、土塁、堀切などの遺構はその2つともに存在しているとされていますが、残念ながら標柱の眼前にある急斜面の尾根筋にとりつけるような個所が無く、西側の尾根筋に至ってはアプローチするような踏み跡さえも見つかりませんでした。
この時は多分にこの直前に訪れた要害城での疲労蓄積などが大きく影響していたものと思われました。
なお、工業団地造成工事に伴うものなのかも知れませんが、東側の尾根筋を断ち切るようにした堀切状の地形の一部らしいものが認められますが、何分にも造成以前の地形を把握していないため何とも言えない印象でした。
そうでないような違うような
なお、標柱をいかにも嬉しそうにしげしげと眺めている最中、道に迷われた地元の方に真滝駅への道案内をいたしました。
そのお話からは工業団地建設に伴い新しい道路ができたために国道284号線から駅へと向かうルートが分らなくなってこの行き止まりの舗装道路に迷い込んだ様子でした。
迷われていた運転の方には、一度牧沢交差点まで行ってから東側へと県道を進みそのまま国道384号線の下をくぐりそのまま道なりにすすめば約2キロメートルほどで駅前へと到達する旨を説明して任務完了。
日頃は城館探訪でご迷惑をおかけすることは多々ありますが、たまにはお役にたつようなことも致さねばならぬと改めて痛感した次第。
凸滝沢城(一関市真滝字館下) 12時45分から13時30分
別名を田中古館とも。
熊野白山神社付近が城跡なのかも知れないと当たりをつけて、牧沢城から新しい工業団地(一関東第2工業団地、ハイフン関東第2・・ではありません)を東西に抜ける道路を東進して国道284号線から直接神社形態の駐車場へアフローチ。
しかし慣れないことは上手くいかないもので、最初に目をつけた真滝駅西側の地形の方が正解であるようでした。
下記の画像では柱のわきに写りこんでいる右側の木立付近の丘陵がこれに該当するものと思われます。
国道284号線沿いの公園から
神社境内は駐車場整備などにより景観が変貌してはいるものの、その一方でそれなりに城跡らしい地形の名残を伴っていましたが、やはりどちらかといえば空堀跡と土塁の位置関係に疑問が残り、かつその規模が小さすぎるという印象がありました。
神社境内西側の地形
この時点で正確な所在地がいまひとつ把握できてはいませんでしたが、後日市内の図書館で関係資料を確認してみたところ、やはり100メートルほど東の南北に細長い丘陵の北側であることが判明しました。
下記画像の石段をそのまま下って登ったところが本来確認をされている城跡南部に相当するようです。
東側参道石段踊り場より
また両者の地形とも近年の国道拡張整備の影響を受けて、その丘陵地帯が南北に分断され景観に大きな変化がもたらされていることも窺われました。
その時には「まあ今後残りの行動予定のなかに織り交ぜれば」などと気軽に考えておりましたが、結果的にその後の天候事情等のためこの城跡を再訪することは叶いませんでした。
凸薄衣城(一関市川崎町)
北上川の橋を渡り「道の駅かわさき」まで赴いたものの、肝心の薄衣城を目前にして予報通り空模様が怪しくなり始め、気力・体力ともに大きく低下していたことから後日の探訪に切り替え楊生城方面から遠景を撮影するにとどまることに。
けれどもこの場所で岩手日報の出版物を何冊か入手できたのは意外な成果となりました。
しかし次の探訪の機会があるのかどうかは、まさに「神のみぞ知る」との名言が脳裏をよぎるのでした。
新館からの遠望
凸楊生城新館(一関市弥栄字沼畑) 13時55分から14時35分
別名を楊生新城、宝館などとも言うようです。
本日いちばんの収穫のあった城跡です。
やはり神社や寺院が近くにあるというのは一定の整備がなされ、宗教的な信仰とは別に実にありがたいことでした。
主郭規模の違いはありますが、昨日伺った秋葉館の縄張に酷似した東側の中腹から山麓にかけて大小の腰郭群がとりまくという縄張でありました。
もちろん後世の耕作や宅地化などの地形改変がある程度加わっている可能性は濃厚かと思われますが、こういう地形を目の当たりにすると年甲斐もなく胸わき踊る事態となるのであります。
東麓の長安寺山門より
なおこの個所からは下記の古館も指呼の間に所在していますが、北上川を挟んで約2キロメートルほど隔てた薄衣城方面の眺望がきわめて良好でした。
画像右上付近が主郭です たぶん神社の駐車場
右上の箇所を上の段から 主郭を取り巻く腰郭のひとつ
また城跡南側に所在する旧家の屋号は文字通り「館」そのものなのでありました。
下記画像のように宅地造成の際の擁壁に明記されておりました。
凸楊生城古館(一関市弥栄字沼畑)
比高差は約60メートル程度とそれほど大したことはないのですが、登攀ルートは不詳でこちらも新館と国道脇から幾度が遠望しただけで、その藪の酷さが伝わってきたことなどからその踏査を断念し遠景の撮影で済ませてしまうことになりました。
本日もまた日没までの時刻には未だ余裕が見られたものの、要再訪箇所ばかりが蓄積しつつも、空模様の変化が激しく11日の降雪と強風がトラウマとなっているようで、本日も早々と店じまいに。
こうして4日目の一関市もほぼ未消化に終始してしまい、モチベーション維持の難しさに直面しつつなかば悶々としながら、今日の夕食は吸い寄せられるようにして「南部屋敷」のうな重に (^_^;)
岩手に来てからとはいうもの、くるくると変化する明日の天候は全く先が見通せず、一関市内に4日間も滞在している割に訪れた場所は遠景撮影を含めても20か所ばかりという経過に、この日もまた約20キロメートルを歩き通し、もう一度一関市内を探訪するか或いは奥州市方面へと足を伸ばすかと悩みながらやがて深い眠りにつきました。