本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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4月10日の深夜午前2時45分予定通り自宅を出発。
とりあえずの目的地は岩手県の県南である一関市の旧花泉町方面。
途中2度の燃料補給や休憩のため、若柳金成インターに到着したのは約6時間半後の午前10時過ぎ。
当日仙台市近郊辺りまでの沿道はソメイヨシノが満開を迎えていましたが、岩手県境が近づくにつれて次第にヒガンザクラ系統の開花が目立ってきました。
それにしても今年は例年と比べて桜前線の北上スピードが早いことに驚きます。
このため人出の多い方面は駐車場所の確保などのため極力避けねばならなくなってしまいました。
と、まあこんな次第で全くと言って土地勘のない初の岩手城館探訪が開始されることとなりました。
凸猪岡館(岩手県一関市花泉町) 午前10時20分から11時10分
別名を泉沢館とも。
比高差約30メートルほどの山頂ではやや見ごろを過ぎたヤブツバキ数株が花をつけていました。
明確な城館遺構としては、やや括れたような南北方向に長い楕円形の主郭と南東方向に付随する複数からなる腰郭状の地形などを確認することができます。
しかし下段の方のものについては耕作などによるものと区別がつきかねました。
北側から延びる尾根筋の先端部に位置していますが、むしろ尾根筋自体も小さいので県道からは東西に所在する丘陵の方が目立っていました。
この場所は立派な標柱があるのですが、設置場所が県道から奥まっていることなどからやや分かりにくいのかも知れません。
といいますのも、近くには東西に2か所ほど相応しい地形の丘陵が存在しております。
このため地理不案内の管理人は初っ端は東側の方の丘陵だと思い込んだり、踏査した後になっても最後まで西側の方の丘陵だと勘違いしたりして矢鱈に時間を費やすこことなってしまいました。
しかし、よくよく冷静に県道186号線側から眺めると丘陵東麓に一関市による標柱の姿を認めることができます。
主郭へのアプローチ方法は、標柱の場所から腰郭風の畑沿いにすすみ途中から4メートル弱ほどの切岸をよじ登るか、北東麓に所在する民家の庭先でお声掛けして南へと向かう農道を登らせていただくしか方法が無いようでした。
凸西館(岩手県一関市花泉町) 午前11時40分から13時40分
別名を蝦島館とも。
標高59メートル、比高差は最大で約50メートルほどありますが、標柱が設置されている東側の峠部分からは20メートルほどの比高差があるのみです。
一関市では画像のような文化財標柱が設置されている個所が少なくなく初めて訪れたものには大変ありがたい存在なのでありました。
城館跡は民家北側の裏山となっていましたが、残念ながら山道は途中で行き止まりとなっていました。
複数の郭から構成されるとされていますが、笹薮のなかに切岸と思われるような地形を僅かに認めることができるものの、全体として視界が悪く全容を把握することは難しいように思われました。
また、北側方向からこの丘陵を眺めてみますと眼前にはひな壇状に区画された宅地の見事な法面ひろがり、ややもすると城館遺構との判別がつかなくなり始めるのでありました。
凸大塚館(岩手県一関市花泉町) 14時20分から15時10分
県道184号線の東、字杉則の北西部に所在する独立丘陵に所在します。
西側の水田面との比高差は低いところでは目測数メートルですが、北東部の高いところでは30メートル近くを測ります。
1980年代前半に行われた中世城館調査によれば、北東部の丘陵先端部あたりまで遺構が見られたことが記されていますが、現状では二の郭とされる北東部の半分近くまで耕作化が進行し耕作地の法面以外にその形跡を認めることができません。
また二つの郭の間に普請されていたと思われる堀切跡も同様に失われているように見受けられました。
同時に植林の施されている南西側主郭部分についても北西部に切岸状の地形と帯郭のようにも見えなくもない細長い削平地が存在する以外にこれといった地形上の特徴を見出すことができませんでした。
なお、城跡南東側の比高差は約2メートルほどの切岸で耕作地と画されているだけでした。
凸高倉館(岩手県一関市花泉町) 15時20分から15時30分
別名を西永井館とも。
県道190号線の西、標高133メートルの高倉山のさらに東側に所在する標高100メートル程度の標高を有する南北方向に長い丘陵辺りが該当地とされている模様。
車を止められるような場所もなければ登っていけそうな道も無さそうなので集落から見上げただけに留まりました。
1980年代前半に行われた中世城館調査によりますと、高倉山との間に堀切を有した3つの郭からなる連郭式の山城とされています。
高倉山への林道が通行可能ですと、そこから東へ約400メートルほど尾根筋を確かめつつ移動すれば到達するはずなのですが、地理不案内のためあっさりと断念いたしました。
凸麻生沢館(岩手県一関市花泉町) 15時30分から15時35分
1980年代前半に行われた中世城館調査によりますと、高倉館の西側300メートルほどの標高80メートルほどの丘陵に占地しで二か所の平場から構成されているとされていますが、高倉館と同様に登り道不詳などのため遠景のみ撮影しました。
凸下館城(岩手県一関市花泉町) 16時15分から17時00分
別名を下紫城、東城とも。
ここまで5か所もまわってこれといった収穫もなく、いささか消化不良気味でした。
このため花泉地区40か所余りの候補地から、近くて帰りのルート沿いで日没前に確実な遺構を拝めそうな個所を選び直したのがこちら。
金流川右岸に張り出した比高差約50メートルほどの丘陵先端部に所在し、東側は登攀不可能に近い断崖となっていました。
現在は南側に新しい市道が建設されているが、本来は南北に連なる低丘陵の北端に位置していました。
城館の規模は東西方向で約80メートル、南北方向で約150メートルとかなり小規模ではあるが、市道沿いの城跡の標柱が所在する小口と思しき南側には三重構造の空堀が確認でき、また複数の腰郭を伴う城郭遺構であることも見て取ることができます。
ただし北側の本郭方面への踏査は笹薮などのために足元と視界が阻まれ困難な状況となっていたことが惜しまれました。
なお1980年代前半に行われた中世城館調査においても、南側の稜線を東西方向に分断するような堀切は確認されてはいないようです。
管理人自身がこの地域における縄張の特徴を全く掴めていないという問題もありましたが、日没に加えて蓄積された疲労と藪に阻まれ市道により分断された南側尾根続きの方面の踏査ができなかったことも悔やまれました。
なお近くには駐車スペースはほとんどないことから、農繁期前でもあり北側の幅員の広い農道沿いの路肩に駐車させていただきました。
探訪前には地理的に笹薮などの様子が気がかりではありましたが、遺構観察に限り本日最良の探訪という結果に満足することとなりました。
以上、岩手県南地方まで片道450キロメートルを走破した割には殆ど無名に近い箇所ばかりとなってしまいました。
当初の予定ではもう少し名の知れた箇所を訪れるつもりが、土地勘の乏しいこともあり約20キロを歩いたりして徒に時間を浪費するような結果に。
このため初日に廻れたのは僅かにこの6か所(意向確認という意味では実質は4か所)に。
なんとももどかしい限りの探訪なのですが、こうした傾向は最終日まで延々と続くこととなることを管理人は全くと言っていいほど見通してはいませんでした。
と、記述していることからも分かるように、帰宅後の疲労などにより当ブログは10日以上も経過してから記述しております。
とりあえずの目的地は岩手県の県南である一関市の旧花泉町方面。
途中2度の燃料補給や休憩のため、若柳金成インターに到着したのは約6時間半後の午前10時過ぎ。
当日仙台市近郊辺りまでの沿道はソメイヨシノが満開を迎えていましたが、岩手県境が近づくにつれて次第にヒガンザクラ系統の開花が目立ってきました。
それにしても今年は例年と比べて桜前線の北上スピードが早いことに驚きます。
このため人出の多い方面は駐車場所の確保などのため極力避けねばならなくなってしまいました。
と、まあこんな次第で全くと言って土地勘のない初の岩手城館探訪が開始されることとなりました。
凸猪岡館(岩手県一関市花泉町) 午前10時20分から11時10分
別名を泉沢館とも。
比高差約30メートルほどの山頂ではやや見ごろを過ぎたヤブツバキ数株が花をつけていました。
明確な城館遺構としては、やや括れたような南北方向に長い楕円形の主郭と南東方向に付随する複数からなる腰郭状の地形などを確認することができます。
しかし下段の方のものについては耕作などによるものと区別がつきかねました。
北側から延びる尾根筋の先端部に位置していますが、むしろ尾根筋自体も小さいので県道からは東西に所在する丘陵の方が目立っていました。
この場所は立派な標柱があるのですが、設置場所が県道から奥まっていることなどからやや分かりにくいのかも知れません。
といいますのも、近くには東西に2か所ほど相応しい地形の丘陵が存在しております。
このため地理不案内の管理人は初っ端は東側の方の丘陵だと思い込んだり、踏査した後になっても最後まで西側の方の丘陵だと勘違いしたりして矢鱈に時間を費やすこことなってしまいました。
しかし、よくよく冷静に県道186号線側から眺めると丘陵東麓に一関市による標柱の姿を認めることができます。
主郭へのアプローチ方法は、標柱の場所から腰郭風の畑沿いにすすみ途中から4メートル弱ほどの切岸をよじ登るか、北東麓に所在する民家の庭先でお声掛けして南へと向かう農道を登らせていただくしか方法が無いようでした。
凸西館(岩手県一関市花泉町) 午前11時40分から13時40分
別名を蝦島館とも。
標高59メートル、比高差は最大で約50メートルほどありますが、標柱が設置されている東側の峠部分からは20メートルほどの比高差があるのみです。
一関市では画像のような文化財標柱が設置されている個所が少なくなく初めて訪れたものには大変ありがたい存在なのでありました。
城館跡は民家北側の裏山となっていましたが、残念ながら山道は途中で行き止まりとなっていました。
複数の郭から構成されるとされていますが、笹薮のなかに切岸と思われるような地形を僅かに認めることができるものの、全体として視界が悪く全容を把握することは難しいように思われました。
また、北側方向からこの丘陵を眺めてみますと眼前にはひな壇状に区画された宅地の見事な法面ひろがり、ややもすると城館遺構との判別がつかなくなり始めるのでありました。
凸大塚館(岩手県一関市花泉町) 14時20分から15時10分
県道184号線の東、字杉則の北西部に所在する独立丘陵に所在します。
西側の水田面との比高差は低いところでは目測数メートルですが、北東部の高いところでは30メートル近くを測ります。
1980年代前半に行われた中世城館調査によれば、北東部の丘陵先端部あたりまで遺構が見られたことが記されていますが、現状では二の郭とされる北東部の半分近くまで耕作化が進行し耕作地の法面以外にその形跡を認めることができません。
また二つの郭の間に普請されていたと思われる堀切跡も同様に失われているように見受けられました。
同時に植林の施されている南西側主郭部分についても北西部に切岸状の地形と帯郭のようにも見えなくもない細長い削平地が存在する以外にこれといった地形上の特徴を見出すことができませんでした。
なお、城跡南東側の比高差は約2メートルほどの切岸で耕作地と画されているだけでした。
凸高倉館(岩手県一関市花泉町) 15時20分から15時30分
別名を西永井館とも。
県道190号線の西、標高133メートルの高倉山のさらに東側に所在する標高100メートル程度の標高を有する南北方向に長い丘陵辺りが該当地とされている模様。
車を止められるような場所もなければ登っていけそうな道も無さそうなので集落から見上げただけに留まりました。
1980年代前半に行われた中世城館調査によりますと、高倉山との間に堀切を有した3つの郭からなる連郭式の山城とされています。
高倉山への林道が通行可能ですと、そこから東へ約400メートルほど尾根筋を確かめつつ移動すれば到達するはずなのですが、地理不案内のためあっさりと断念いたしました。
凸麻生沢館(岩手県一関市花泉町) 15時30分から15時35分
1980年代前半に行われた中世城館調査によりますと、高倉館の西側300メートルほどの標高80メートルほどの丘陵に占地しで二か所の平場から構成されているとされていますが、高倉館と同様に登り道不詳などのため遠景のみ撮影しました。
凸下館城(岩手県一関市花泉町) 16時15分から17時00分
別名を下紫城、東城とも。
ここまで5か所もまわってこれといった収穫もなく、いささか消化不良気味でした。
このため花泉地区40か所余りの候補地から、近くて帰りのルート沿いで日没前に確実な遺構を拝めそうな個所を選び直したのがこちら。
金流川右岸に張り出した比高差約50メートルほどの丘陵先端部に所在し、東側は登攀不可能に近い断崖となっていました。
現在は南側に新しい市道が建設されているが、本来は南北に連なる低丘陵の北端に位置していました。
城館の規模は東西方向で約80メートル、南北方向で約150メートルとかなり小規模ではあるが、市道沿いの城跡の標柱が所在する小口と思しき南側には三重構造の空堀が確認でき、また複数の腰郭を伴う城郭遺構であることも見て取ることができます。
ただし北側の本郭方面への踏査は笹薮などのために足元と視界が阻まれ困難な状況となっていたことが惜しまれました。
なお1980年代前半に行われた中世城館調査においても、南側の稜線を東西方向に分断するような堀切は確認されてはいないようです。
管理人自身がこの地域における縄張の特徴を全く掴めていないという問題もありましたが、日没に加えて蓄積された疲労と藪に阻まれ市道により分断された南側尾根続きの方面の踏査ができなかったことも悔やまれました。
なお近くには駐車スペースはほとんどないことから、農繁期前でもあり北側の幅員の広い農道沿いの路肩に駐車させていただきました。
探訪前には地理的に笹薮などの様子が気がかりではありましたが、遺構観察に限り本日最良の探訪という結果に満足することとなりました。
以上、岩手県南地方まで片道450キロメートルを走破した割には殆ど無名に近い箇所ばかりとなってしまいました。
当初の予定ではもう少し名の知れた箇所を訪れるつもりが、土地勘の乏しいこともあり約20キロを歩いたりして徒に時間を浪費するような結果に。
このため初日に廻れたのは僅かにこの6か所(意向確認という意味では実質は4か所)に。
なんとももどかしい限りの探訪なのですが、こうした傾向は最終日まで延々と続くこととなることを管理人は全くと言っていいほど見通してはいませんでした。
と、記述していることからも分かるように、帰宅後の疲労などにより当ブログは10日以上も経過してから記述しております。
Comment
Re:お疲れ様です
こんばんは。
まことに正味6日間は苦戦の連続でありました。
雪と強風にたたられて一日三か所という日もありました。
このため城館に限れば合計しても30カ所前後で、実際に踏査できたのはその内の7割くらいでありました^^
まことに正味6日間は苦戦の連続でありました。
雪と強風にたたられて一日三か所という日もありました。
このため城館に限れば合計しても30カ所前後で、実際に踏査できたのはその内の7割くらいでありました^^