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昨日の4日目は郡山市の図書館に滞在して中休み。
最終日となる本日の行動予定は有終の美を飾るべく日没までといきたいところなれども、還暦と古稀の中間点に達するに至り明らかに気力・体力の均衡が崩れてきたという現状は否めず。
こうした事情もあることからこの際は無理をせずにゆったりとした行動計画を採用した。
「★」印は明確な城館遺構が現存していた個所
1.城館名、位置情報などは、主に福島県文化財データベース「まほろん」の情報に依拠している。
2.このほかに「郡山市史」、「三春町史」、地名関係は「危ない地名」三一書房、「コンサイス日本地名辞典」三省堂、「日本地名辞典」新人物往来社、「角川地名大辞典 福島県」角川書店、「中世城館調査報告書」福島県などを参照している。
3.なお「積達館基考」「積達古館弁」「相生集」などの近世地誌類については、このブログ記載時点では未照合である。
・白幡神社(郡山市日和田町梅沢字白幡) 午前9時から9時10分
梅沢館に赴くはずがそのまま行き過ぎてしまい、阿武隈川の支流となる小河川の谷底にあたる西側から眺めた棚田の景観が実に素晴らしかった。
やむなく阿武隈川に架かる鬼生田橋の対岸から戻る際に、前方正面に見事な独立丘陵が存在していることに気づき立ち寄った場所がこの白幡神社の境内であった。
また同社は梅沢村の鎮守でもあるのだが、付属の建物には未だに震災時の被害の跡と思われる痕跡が残されていた。
麓からの比高差は約10メートルほどを測り2段の削平地から構成される丘陵頂上部からは東へ北へ西へそして北東へと複雑に蛇行する阿武隈川とその対岸の鬼生田方面の眺望に優れていた。
神社としての土木工事が含まれているために中世城館跡としての痕跡を求めることは難しいが、西方400メートル地点に所在している梅沢館よりもはるかに見通しに優れかつ防御性の高い独立丘陵であった。
神社名ともなっている白幡の字名は源氏の一族を祀ったことに由来する場合、あるいは朝鮮半島からの新羅系渡来人であるハタノミヤツコに由来する場合などが考えられるともいわれている。
凸梅沢館(郡山市日和田町梅沢字古舘、または古屋敷、上台) 午前9時20分から10時10分
梅沢の地は阿武隈川に西岸に所在する小規模な丘陵地帯であり、地名の由来は梅の木が多い土地、梅の木が生えていた沢を開拓したことに由来するともいわれている。(「相生集」より)
10月末のこの時期梅の木は目立たなかったが阿武隈川の支流に沿った高さ10メートルほどを測る崖線の存在が中世城館の存在を窺わせる景観を呈示していた。
梅沢の地は「蒲生領高目録」によると、321石余りの石高が記されているものの、さほど大きな集落ではなく小規模な在地領主階層の居館が存在していた可能性を示唆するものといえるのかもしれない。
戦国時代末期には下記の阿武隈川東岸の田村氏勢力の前線である鬼生田館地域と対峙していた時期が存在していた事情が窺え、渡しの存在も想定される両館の距離は阿武隈川を挟んで約1キロメートルという指呼の間において軍事的緊張関係が続いた時期が存在していたことは想像に難くないものと考える。
なお、「中世城館調査報告書」では「高倉近江守臣国分玄蕃」の名を記し、「日本城郭大系」では「国分内匠」の居館としているが、これは上記の事態よりも少しのちの状態を表しているものと考えられる。
凸鬼生田館(おにうだたて、郡山市日和田町鬼生田字町) 午前10時20分から11時00分
★郭、土塁
「まほろん」などによれば、おおむね鬼生田の町集落東部に形成された河岸段丘付近が推定されている。
より具体的には鬼町公民館鬼生田分館東側の竹林付近が想定され、当地には複数の段郭の存在が竹林越しに目視できるとともに、その北側の諏訪神社付近にも神社の造立に伴う普請とは明らかに異なる印象の土塁の存在が認められ、かつその尾根続きは切通し状の道により遮断されていた。
また、周辺部の発掘調査によれば小規模な中世の町構えが形成されていた可能性も指摘されている。
「中世城館報告書」「郡山の城館」などによれば、田村氏一族である鬼生田弾正忠(おにうだ だんじょうのじょう、あるいはだんじょうのちゅう)の居館と伝わるという。
「田村家臣録」(片倉文書)によれば、「一門一家東西南北御一字被下衆 鬼生田惣右衛門 西方与力25騎 鬼生田城主」と記されており、このことから戦国時代末期には阿武隈川対岸の安積伊東氏に対する田村氏勢力西端の最前線地域であったことが窺えよう。
また「田母神家旧記」(仙道田村荘史)においても、「西方要害 鬼生田居館 鬼生田惣左衛門 豫洲宇和島に住す」と記され、天正15年(1587年)の時点で田村氏の勢力下に置かれたことが記されている。
なお、「鬼」のつく地名には「隠れる」(オン)、「尾根」(オネ)からの転訛の可能性もあるとされ、また「生田」は美田、良好な水田を意味するともいわれている。
このためか現在でも、鬼生田地域は阿武隈川の支流となる白岩川などの幾つかの小河川沿いにその豊かな水源を利用した水田が存在している。
もっとも、「角川日本地名大辞典7福島県」では「田村郡郷土史」から引用した「鬼の生まれた場所である鬼石とよばれる石があり鬼生田とよばれるようになった」とも記載されている。
この記述はおそらく「天正日記」の天正15年3月3日の条に「始めに鬼生田と申す所へ大越備前罷り出で候由、申し候間、田村より検使御座候」と記されていることによるものではないかと考える。
時代はやや下るが、文禄3年(1594年)に作成されたとされる「蒲生領高目録」によれば「中 鬼生田 1910石」と記され、相応の生産力を伴っていた土地柄であったことが裏付けられている。
しかしいずれにしても、ともにその真偽のほどは定かではないようである。
下記の画像は諏訪神社付近の土塁跡である。
以上この日の城館2か所+神社1か所をの訪問を以て、今回の延べ5日間におよぶ郡山市探訪は終了し、神社境内を含め累計で40か所ほどの探訪となった。
次回訪問するとすればおそらくは市内片平地区を中心とし、関係資料を整理したうえで本宮市方面を探るつもりではあるが、果たしていつのことになるのかは自分でもわからないのである。
福島第一原発事故による影響は放射能ブルームの拡散によって、中通りである当地にも及んでおり、市内の公園や公共施設などの各所には観測機器が設置されているとともに、現在でも日常的に除染作業が実施されていることをこの目で確認し、改めて事故の深刻さを痛感した次第である。
念のため携行した簡易型の空間線量計の値は、最高で0.88μ㏜/hを記録することもあった。
埼玉県南部では高くとも0.12から0.17くらいの数値を示していることに比べるとその数値の高さに驚くばかりであった。
公共施設や住宅地などでは確かに空缶線量は低下が認められるものの、除染廃棄物である仮置き場のフレコンバックの山を間近に目撃するとその事故の深刻さ、重大さにあらためて衝撃を受けた。
まさに一個の人間として何を為すべきかが問われている現状がそこにあるという事実を再確認することともなった。