10 | 2024/11 | 12 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | |||||
3 | 4 | 5 | 8 | 9 | ||
10 | 11 | 12 | 13 | 15 | 16 | |
17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 | 23 |
24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 | 30 |
この日は別に朝飯前というわけではないが、朝食前に駐車が難しそうに思われた場所を徒歩にて散歩がてらに3か所ばかり訪問してみた。
むろん昨年末頃からの両足の痛みに対するプロテクター、サポーター類の有効性を検証する意味もあったが。
「★」印は明確な城館遺構が現存していた個所
1.城館名、位置情報などは、主に福島県文化財データベース「まほろん」の情報に依拠している。
2.このほかに「危ない地名」三一書房、「コンサイス日本地名辞典」三省堂、「日本地名辞典」新人物往来社、「角川地名大辞典 福島県」角川書店、「中世城館調査報告書」福島県などを参照している。
3.なお「積達館基考」「積達古館弁」「相生集」などの近世地誌類については、このブログ記載時点では未照合である。
凸荒井館(郡山市賀正) 午前6時15分から6時20分
小児科のクリニックあたりが遺構の中心部分と推定されるが、現状ではその全域が宅地化されており地表上に確認できる遺構はほとんどない。
平地部の城館であり周辺との高低差はほとんど感じられない。
下記画像は南側から撮影したものである。
凸荒井館(郡山市安積町字荒井) 午前6時30分から6時45分
その全域が宅地化されており地表上に確認できる遺構はないが、伊東氏との関連が窺われるような民家も存在していた。
同地の東側には「舘東屋敷」、また南東側には「田中屋敷」などの小字名が残されているが城館遺構との関連をふくめいまのところその詳細は不明。
平地の城館ではあるが、南方の笹原川方面にかけて幾分傾斜している地形であることが確認できる。
凸成山館(郡山市成山町) 午前6時50分から7時20分
★郭、腰郭、帯郭、切岸
宿泊したルートイン郡山からもよく目立つ笹原川に向かって突き出した丘陵先端部に所在する公園整備された歩きやすい城跡である。
成山公園としてご近所の方々が朝の散策をされていた。
公園化されてはいるものの、郭、腰郭、帯郭、切岸などは明瞭に残されている。
ただし周辺に駐車場所が無いので訪問の際にはその旨注意が必要である。
最大比高差は約15メートルほどを測る。
画像は北側麓から城跡を見上げたもの。
凸堂山館(郡山市大槻町字愛宕、愛宕下) 9時00分から9時40分
★郭、小口、土塁、横堀、切岸
主郭をほぼ全周している土塁は低くなってはいるが、主郭東側には二重土塁によって防御された食い違い状の小口が残され、主郭北側の帯郭には短いながらも畝状の空堀群が存在している。
また主郭と二の郭にそれぞれ存在する横堀は小口を防御するとともに両者とも帯郭へと続く構造となっている。
麓との比高差は約20メートルほどを測る。
凸大槻館(郡山市大槻町字城ノ内およびその周辺) 9時50分から10時30分
垣内氏の論考などによれば、微高地となっている大槻小学校の校庭が主郭として推定され、東西にのびた形状であるとされ、東流する水路を南限として考えられている。
城域内にわずかに土塁や堀跡とも推定される地表上の地形が確認できるものの、全体としては城跡としての地形的な印象はそれほど強くない。
下記の画像は主郭近辺の推定堀跡の一つ。
凸轟 館(郡山市逢瀬町河内字金山、轟) 11時05分から11時20分
東西約400メートル、南北約200メートルほどの独立丘陵に所在している。
傾斜のゆるい北辺部分を中心に尾根筋への登り口を調査してみたが、びっしりと雑木と草薮が叢生し、かつ稜線のラインがほとんど目視できないないことが判明し踏査を断念せざるをえなかった。
麓からの比高は40メートル弱であるが、北側の逢瀬川方面の見通しは視界を遮るものがなくすこぶる良好であることが窺える。
「中世城館調査報告書」「日本城郭大系」などによれば、安藤権太夫の居館と伝わり、土塁、空堀、堀などの遺構が残ると記載されている。
画像は東側の農道からの遠景。
凸久保田山王館(郡山市富久町久保田字山王舘、上野) 12時05分から12時30分
★土塁、郭、切岸
郡山駅の北北西に所在する山王神社境内そのものが該当地とされている。
神社の駐車場に数台程度は駐車可能だが、これが満員の場合には近くのコンビニで買い物をして駐車させていただくのが無難。
土塁状の地形は社殿の北側と東側を取り巻くように残されている。
1588年の「郡山合戦(郡山の陣、窪田の陣、安積の合戦などとも)」において、伊達氏と葦名・佐竹連合が対陣した際に伊達氏側が布陣したとされる重要拠点でもあった。
麓からの比高差は約10メートルほどを測る比較的規模の大きな丘陵ではあるが、伊達勢の一部が拠点とすることはあっても、政宗の本陣が出張ることはリスクが多すぎて考え難いものがある。
下記の画像は山王神社境内東側の土塁。
凸日和田館(郡山市日和田町日和田字舘) 12時50分から13時15分
★郭、空堀、櫓台状地形
2015年7月に続く再訪だが、南側から藪に入り前回は確認できなかった東と南側の堀跡などの確認しわずかな距離であったことからそのまま北側の農道まで縦断した。
なおこの際、ノイバラとアズマザサの類に進路を阻まれて愛用の4色ボールペンを紛失してしまった。
麓からの比高差は約10メートルほどを測る。
下記の画像は南側の空堀部分。
凸大平城(郡山市大平町) 14時00分から15時00分
★小口、郭、横堀、腰郭、桝形小口、切岸
「郡山の城館」などの情報によれば、戦国末期の実践的な城跡が完存するといわれている「大平城、おおだいらじょう」であった。
たしかに現状でも西側の主郭部分を中心として3か所ほどの桝形小口、明瞭な横堀、腰郭、切岸などの城郭遺構が熊野神社社殿の北側に現存していることは間違いがない。
しかし残念ながら主郭東側の横堀の半分ほどと東郭の小口および横堀部分がごく最近の林道工事により消失していた。
このためよく観察すれば東側遺構もある程度は残存しているものと推測されるが、大きく景観を変えているという印象が強かった。
林道自体の工事は比較的新しく思え、おそらくは震災に伴う社殿の復旧補強工事(独立基礎の設置と束柱の金具止め)などの実施に伴いその資材搬入と人手の搬送などを目的として拡充建設されたものと考えられる。
従前の状態の詳細については把握していないが、いずれにせよ今回の工事の影響は少なくないものがあったと推定される。
本来であればもう少し滞在してそのあたりの詳細を調査すべきであったが、近年の林道工事にともなう遺構の一部消失という事態を目前にしてモチベーションを奪われたり、切岸の高さ等に阻まれたりして下段の遺構を確認できなかったことが悔やまれた。
おおむね延べ3時間から5時間ほどを費やせば、ある程度詳細な遺構の現存状況を把握できるものと思われたが今回は気力欠乏・時間切れとなった。
麓の熊野神社駐車場からの比高差は約50メートルほどだか、参道の勾配が厳しいので西側に巻き道がつくられている。
なお東側の谷筋から未舗装の林道が主郭直下の熊野神社境内まで続いていると思われるが踏査してはいない。
下記の画像は主郭東側の桝形小口付近。
この日はわずかに都合9か所のみの訪問に終わってしまったが、やはり単独行は4年ぶりでもあり不発となった際の頭の切り替え、あるいは訪城するためのモチベーション維持が如何に難しいかをあらためて認識するに至った。
この日の夕食はホテル隣のリニューアルされた「かっぱ寿司」1620円であった。
予想はしておりましたが、アズマザサに野荊と孟宗竹にくわえて枯れる前の夏草が生い茂り鉄壁の防御態勢を整えている場合が少なくなく、神社などの境内からさらに尾根筋を辿れたのは都合40か所中で3か所くらいしかありませんでした。
今年は会津を含めた福島方面が多くなり以前からの累計ですと190か所前後となりました。
一方、甲斐のお便りに触発され北杜市方面の資料をまとめ始めました。
>郡山遠征お疲れ様でございます。
>しかし、意外なまでの藪ですね。
>東北は郡山、会津以北への進軍はほとんどできていません。
>我が軍はもっぱら甲斐への突撃を繰り返すのみでややマンネリ気味。