本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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最終日は猛暑による体力の消耗を防ぐべく早朝からの出陣を果たすこととなった。
とはいえ出立したのは当方の寝坊のため、午前6時半を大きく回ってしまった。
このため連日の猛暑はすでに早朝から猛威を振るい、はやくも大量の発汗を余儀なくさせていたのであった。
凸鎧召館(喜多方市、旧塩川町) 午前7時50分から
館前の道路で朝から電気工事のため片側交通規制が行われていた。
脇道の農道に入り車を止め、南側堀跡を眺め、次に北東側から土塁と堀跡を拝見した。
凸台慶徳館(喜多方市、旧塩川町) 午前8時05分から
南側の桝形と水堀跡の用水路を眺めた後、脇の農道にすすみ北辺の保存状態が良好な土塁と堀跡を拝見。
凸新宮城(喜多方市) 午前8時25分から
南北を天然の川が東流し西から東にかけて緩やかな傾斜を示す緩斜面に所在している。
予想していたよりも広大な城域だったが、一帯はすでに耕作地となり保存されている主郭部分も一面の草地であり位置関係を理解するのに戸惑ってしまった。
それでも東側を除く三方には堀跡の窪地が残され二の郭の一部には復元された土塁が存在する。
この地を治めていた新宮氏の居城と考えられているが、この広大な城域と集落集落との乖離を感じた。
こののち朝食と水分補給用意のため一時喜多方市内へと移動した。
凸太郎丸西館(喜多方市) 午前9時30分から
撮影した画像は八幡神社境内であるが、居館跡自体はもう少し南側(画像では左側)に位置しているらしい。
凸慶徳城(喜多方市) 午前9時38分から
城域について「中世城館調査報告書」では西側丘陵の麓付近まで広げて捉えているが、これに対して「喜多方市史」では市道の位置を西限として見ているようである。
城跡遺構として現存していると思われるものとしては、慶徳小学校西側の法面と城跡南西部に残されている畑の窪み(堀跡か)が確認できる。
葦名氏重臣である平田氏の一族が慶徳氏を名乗りこの地を治めたとされている。
葦名氏により滅亡したといわれている新宮氏の居城であった新宮城からは北に1.2キロメートルほどの地点である。
凸慶徳新館(喜多方市) 午前9時55分から
慶徳城の東側100メートル足らずの個所に武藤氏により築造された城館跡であるが、現在この城跡には喜多方市立慶徳ふれあい会館が建設されている。
しかしその東側に所在する高さ2メートルほどの段差の存在にその痕跡をとどめていることを確認できる。
凸荒神館(喜多方市) 午前10時00分から
現状の地形からは天然の谷川が堀となっていたことが窺われる慶徳城周辺の城館跡のひとつであるが、近年の周辺の道路整備によりその地形が大きく改変されている。
凸松野館(喜多方市) 午前10時20分から
青木氏、勝氏などの居館と考えられている平地の方形館で土塁跡のようにも見えなくもない地形を見ることができる。
凸見頃館(喜多方市) 午前10時32分から
台地上の西光寺付近が館跡とも言われているが委細不明で、字名として館中の古地名が今に継承されている。
凸岩沢館(喜多方市) 午前10時46分から
「喜多方市史」によれば、「南館」「館下」「向館」などの小字名が残され、「腰巻」という田地も存在しているという。
■佐原十郎義連墓(喜多方市) 午前10時58分から
凸岩尾館(喜多方市) 午前11時11分から
加納荘を治めた佐原氏一族の居館を中心として拡大した城館であると考えられている。
土塁跡、郭跡と思われる地形と比高差にして10メートル前後の段丘地形を確認できる。
凸半在家の遺構(喜多方市) 午前11時45分から
佐原十郎墓の南方、県道336号線の半在家集落内の東西に土塁あるいは堀跡などの痕跡を確認することができる。
凸添田館(喜多方市) 午後12時04分から
凸青山城(喜多方市) 午後12時12分から
山王神社が所在する比高差10メートルほどの小丘陵が城跡で、南北にそれぞれ郭を有している。
とくに北郭にともなう土塁と空堀などの状態が魅力的であり、訪れる時期が異なりさえすれば、格好の地形観察が可能な遺構の保存状況であった。
この時点で日差しは益々真夏の強烈な性格を露わにし始め、徐々に次第に気力と体力蝕んでいったように記憶している。
史進どののお導きにより、今回もまた3日間で都合40か所を超えた城跡めぐりとなった。
資料収集、現地案内、宿泊所手配などなど多岐にわたりお世話になり心より感謝申し上げます。
後になってよくよく考えてみれば、こうした盛夏での訪城は極力早寝、早起きがベストなのかとも思う次第。
いっそのこと午前5時出陣、無理をせずに正午過ぎ頃に転進して昼食と資料漁り、午後5時宿営地到着というような行動モデルがあっても良さそうな気がしたのであった。
秋が深まりを見せたころ、本宮市内と会津盆地再訪もプランニングしてみようと思う昨今であった。
とはいえ出立したのは当方の寝坊のため、午前6時半を大きく回ってしまった。
このため連日の猛暑はすでに早朝から猛威を振るい、はやくも大量の発汗を余儀なくさせていたのであった。
凸鎧召館(喜多方市、旧塩川町) 午前7時50分から
館前の道路で朝から電気工事のため片側交通規制が行われていた。
脇道の農道に入り車を止め、南側堀跡を眺め、次に北東側から土塁と堀跡を拝見した。
凸台慶徳館(喜多方市、旧塩川町) 午前8時05分から
南側の桝形と水堀跡の用水路を眺めた後、脇の農道にすすみ北辺の保存状態が良好な土塁と堀跡を拝見。
凸新宮城(喜多方市) 午前8時25分から
南北を天然の川が東流し西から東にかけて緩やかな傾斜を示す緩斜面に所在している。
予想していたよりも広大な城域だったが、一帯はすでに耕作地となり保存されている主郭部分も一面の草地であり位置関係を理解するのに戸惑ってしまった。
それでも東側を除く三方には堀跡の窪地が残され二の郭の一部には復元された土塁が存在する。
この地を治めていた新宮氏の居城と考えられているが、この広大な城域と集落集落との乖離を感じた。
こののち朝食と水分補給用意のため一時喜多方市内へと移動した。
凸太郎丸西館(喜多方市) 午前9時30分から
撮影した画像は八幡神社境内であるが、居館跡自体はもう少し南側(画像では左側)に位置しているらしい。
凸慶徳城(喜多方市) 午前9時38分から
城域について「中世城館調査報告書」では西側丘陵の麓付近まで広げて捉えているが、これに対して「喜多方市史」では市道の位置を西限として見ているようである。
城跡遺構として現存していると思われるものとしては、慶徳小学校西側の法面と城跡南西部に残されている畑の窪み(堀跡か)が確認できる。
葦名氏重臣である平田氏の一族が慶徳氏を名乗りこの地を治めたとされている。
葦名氏により滅亡したといわれている新宮氏の居城であった新宮城からは北に1.2キロメートルほどの地点である。
凸慶徳新館(喜多方市) 午前9時55分から
慶徳城の東側100メートル足らずの個所に武藤氏により築造された城館跡であるが、現在この城跡には喜多方市立慶徳ふれあい会館が建設されている。
しかしその東側に所在する高さ2メートルほどの段差の存在にその痕跡をとどめていることを確認できる。
凸荒神館(喜多方市) 午前10時00分から
現状の地形からは天然の谷川が堀となっていたことが窺われる慶徳城周辺の城館跡のひとつであるが、近年の周辺の道路整備によりその地形が大きく改変されている。
凸松野館(喜多方市) 午前10時20分から
青木氏、勝氏などの居館と考えられている平地の方形館で土塁跡のようにも見えなくもない地形を見ることができる。
凸見頃館(喜多方市) 午前10時32分から
台地上の西光寺付近が館跡とも言われているが委細不明で、字名として館中の古地名が今に継承されている。
凸岩沢館(喜多方市) 午前10時46分から
「喜多方市史」によれば、「南館」「館下」「向館」などの小字名が残され、「腰巻」という田地も存在しているという。
■佐原十郎義連墓(喜多方市) 午前10時58分から
凸岩尾館(喜多方市) 午前11時11分から
加納荘を治めた佐原氏一族の居館を中心として拡大した城館であると考えられている。
土塁跡、郭跡と思われる地形と比高差にして10メートル前後の段丘地形を確認できる。
凸半在家の遺構(喜多方市) 午前11時45分から
佐原十郎墓の南方、県道336号線の半在家集落内の東西に土塁あるいは堀跡などの痕跡を確認することができる。
凸添田館(喜多方市) 午後12時04分から
凸青山城(喜多方市) 午後12時12分から
山王神社が所在する比高差10メートルほどの小丘陵が城跡で、南北にそれぞれ郭を有している。
とくに北郭にともなう土塁と空堀などの状態が魅力的であり、訪れる時期が異なりさえすれば、格好の地形観察が可能な遺構の保存状況であった。
この時点で日差しは益々真夏の強烈な性格を露わにし始め、徐々に次第に気力と体力蝕んでいったように記憶している。
史進どののお導きにより、今回もまた3日間で都合40か所を超えた城跡めぐりとなった。
資料収集、現地案内、宿泊所手配などなど多岐にわたりお世話になり心より感謝申し上げます。
後になってよくよく考えてみれば、こうした盛夏での訪城は極力早寝、早起きがベストなのかとも思う次第。
いっそのこと午前5時出陣、無理をせずに正午過ぎ頃に転進して昼食と資料漁り、午後5時宿営地到着というような行動モデルがあっても良さそうな気がしたのであった。
秋が深まりを見せたころ、本宮市内と会津盆地再訪もプランニングしてみようと思う昨今であった。