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今月の末に予定されている郡山・会津遠征の予行演習を兼ねて史進どののご案内で野田、春日部、松伏方面へ。
思えば隣県とはいえ千葉県方面へと足を延ばすのは何と6年ぶりのことであった。
おりしも関東地方の梅雨明けと重なりいきなりの猛暑を体感してしまうことに。
あたりの空気は吸い込むのさえも息苦しく、日差しは容赦なく降り注ぎ、やぶ蚊はこの時とばかりに大量活動中。
その持て余さざる暑さと雲行きのために大事を取り、早くも午後3時前には帰路に就くこととなった。
凸金野井城(千葉県野田市) 午前9時10分から
城跡としての所在地については現状の地形から推定することは容易であり、戦後に移転してきたという西福寺境内がこれに含まれることについては異論の余地のないところであろう。
しかし複廓の構造としてとらえた場合に西側の浄水場を城域として考慮すべきかどうか疑問が残り、むしろ寺の東側平地林内に現存する土塁、堀跡状地形の方にに興味をひかれる。
東側には南北に延びる水路が開削されているために、かなりの地形改変も考慮すべきだが城域としての一体感が感じられ実に悩ましい。
「中世城館調査報告書」のベースとなっていると思われる「埋蔵文化財調査概要1」(野田市郷土博物館)を直接閲覧してみるべく必要性が感じられた。
凸舟形城(千葉県野田市) 午前10時05分から
かつては土塁の一部が確認できたというが、その現状から往時の様子を窺い知ることは極めて難しいと言わざるを得ない。
東側に水田地帯が広がっていることから、当地が低台地上に位置していることだけは理解できた。
凸目吹城(千葉県野田市) 午前11時05分から
一般に城跡といわれている個所の東側に所在している熊野神社の舌状台地は南側の大地続きを除いた三方を比高差約8メートルほどの切り立った崖線に囲まれており当城跡との深い関連が窺われる。
なお以前には設置されていたという民家前の標柱は残念ながら見当たらず。
凸木野崎城(千葉県野田市) 午前11時40分から
水田地帯のなかに独立した低丘陵占地しており、わずかに台地辺縁部を流れている用水路の景観に水濠の名残を感じられた。
凸下河辺館(埼玉県松伏町) 午後12時30分から
赤岩集落の中心地であった小学校跡から東方の東陽寺あたりまでの自然堤防上の地域を推定地の一つとして見て回ったが、現状の地形からは過去におけるそうした形跡をイメージすることの難しさを味わえた。
これも中世城館探訪の楽しみの一つでもあると達観。
凸大河戸館(埼玉県松伏町) 午後13時20分から
春日部市との境界に近い大落古利根川沿いの北岸に所在する微高地を館跡として推定し彷徨。
水田との比高差が目立つあたりに大河戸中央自治会館という地元の集会所が所在している。
凸治郎兵衛屋敷(埼玉県春日部市) 午後13時45分から
大落古利根川右岸の自然堤防上に所在する多田源氏の末裔関根氏の屋敷跡。
碇神社の境内地はその一部であると推定されているらしい。
凸春日部氏館(埼玉県春日部市) 午後14時20分から
春日部氏の本拠で市内の八幡神社が鎮座する独立丘陵が館跡とされている。
丘陵北端に所在する浅間塚からの眺望は木々が茂り幾分視界が遮られるもののおおむね良好であった。
もっともこれを記述しているのは実を言えば遠征後の8月上旬であり、7月上旬から今月の猛暑へと続く文字通りの有意義なる予行演習となった一日なのであった。
毎度のことですが、ブログ書き込み自体が遅延しております。
ひとつ気になることがあると、関連事項を調べまくるうちに収集がつかなくなる性分でございますゆえご容赦願います^^
>地味な場所ですが私としてはかなり楽しめました^^
>予行演習としては申し分ない場所、天候でしたね