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遠征最終日の3日目は帰宅時間等を勘案して、会津若松市内を起点に湯川村と旧塩川村(現・喜多方市)に所在する比高差の無い平地の城館跡を巡った。
凸神指城(会津若松市) 9時05分から10時15分
会津若松城の北西部に南西角部分を除く大規模な二の丸土塁跡の一部が残存している。
周囲の水田には外郭部の堀跡の名残も伺える。
現在では本丸部分は一部立ち入りが可能とはなっているが、いささか城跡としての景観は損なわれている印象が拭えなかった。
二の丸北側の一部では売却予定地の表示も設置されていたことから、今後の文化財としての景観保持が懸念された。
凸中ノ明館(会津若松市) 10時34分頃
国道49号線中ノ明交差点の南側付近が該当地とされているが、宅地化の進行によりその面影は確認できないもよう。
かくして遠景のみの撮影に終わった。
このあと駐車していたショッピングモールにある市内大型書店2個所にて郷土資料を購入、というよりもこちらの方がメインであったようにも。
凸平沢館(会津若松市) 11時22分から11時24分
神指城から北東へ約800メートルほどの耕作地に所在しているという。
水田の中の微高地となっている神社境内が目印。
凸中地館(会津若松市) 11時31分から11時35分
平沢館から北西へ約700メートルほどの中地集落内に所在している。
凸下高野館(会津若松市) 11時46分から11時57分
中地館から北へ約800メートル地点に位置する下高野の集落内に所在している。
集落の宅地周辺に堀跡の名残と考えられる水路が確認できた。
ここから更に北へ向かい湯川村の浜崎城へと移動。
凸浜崎城(湯川村) 12時14分から12時34分
主郭東側の土塁と堀跡が思いの外綺麗に残存しており感動を覚えた。
しかしこのあたりからいくぶん足取りが重たくなり、60代半ばにさしかかっている管理人は連日の暑さが徐々に体に堪え始めてきたのであった。
一昨日の轍を踏まぬようにこまめな水分補給に加えてタオルを頭に巻いて暑さを凌ぐこととなった。
凸柏木城(旧塩川町、現・喜多方市) 12時34分
浜崎城の北側のこの河川敷付近と推定されているようので対岸から遠景撮影して探訪終了した。
このため寧ろ川幅いっぱいに飾られた鯉のぼりの印象の方が強く残っることとなった。
凸新井田館(旧塩川町、現・喜多方市) 12時47分から12時53分
別名を田辺館ともいうらしい。
屋敷の周囲を中心にして堀跡と土塁の一部が確認できる。
凸鏡ヶ城(旧塩川町、現・喜多方市) 12時58分から13時17分
鑑ヶ城とも。
大字源太屋敷に所在し、集落の北側を中心にして予想以上に大規模な土塁が遺されている。
凸新井田谷地館(旧塩川町、現・喜多方市) 13時26分13時37分
姥堂駅西側の新井田谷集落内に所在する。
土塁にもみえる盛り上がりが道路際に残る。
凸上江館(旧塩川町、現・喜多方市) 13時50分から13時52分
新編会津風土記によれば、天正年間に栗村弾正清政が居住したという。
凸上窪館(旧塩川町、現・喜多方市) 14時06分から14時10分
上窪公民館と古峰神社の所在する北側の民家が該当地とのこと(史進さんよりご教示)
西側の水路沿いを中心に延長50メートル以上の屋敷を取り巻く明瞭な土塁の一部が遺されていた。
このあたりから管理人は次第に遺構名と現実の遺構との間における認識の乖離が始まりかけていたようである。
凸深沢館(旧塩川町、現・喜多方市) 14時18分から14時26分
字深沢の集落内に石塁を伴う堀跡と土塁が遺されている。
宅地周辺の樹木が伐採されており館跡の形状を把握しやすい状態であった。
凸金川館(旧塩川町、現・喜多方市) 14時33分から14時50分
字館ノ内の民家にて土塁のほかに石塁、小口跡も確認できた。
画像は北側から撮影した土塁跡である。
このあとは磐梯河東インターから磐越道経由で帰路につき、途中休憩を含め6時間ほどで帰宅した。
2泊3日の全走行距離は予想通り約750キロメートルであった。