本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
カレンダー
12 | 2025/01 | 02 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | |||
5 | 6 | 7 | 8 | 9 | 11 | |
12 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | |
19 | 20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 |
26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
カテゴリー
最新CM
中城の歴史の引用について(返信済)
(07/01)
おつかれさまでした(返信済)
(11/09)
無題(返信済)
(12/17)
お疲れ様でした(返信済)
(10/13)
お疲れ様でした(返信済)
(03/22)
最新TB
プロフィール
ブログ内検索
アーカイブ
アクセス解析
フリーエリア
拙HPの通信速度は今のところ漸く安定稼動状態に入れり。
こうしたこともあり、己の体調と天候次第で明日以降は再び美里町方面を彷徨する予定。
閑話休題。
本日仕事関係の会合で寸志を包む場合の金額の目安を明らかに勘違いしていたことが判明。
配布された総会資料の収入部分について、暇つぶしがてらによく見てみると決算額で年間5万8千円ほどの祝金が収入として記載。
来賓人数×招待回数(2回)は延べ18名のはず。
従って5万8千円/18名=3222円が一人当たり一回分の金額ということに。
なお小生の場合には職責上からこの3年間は常に1万円を包んでいたため、これを差し引いて考えると5万8千円-2万円=3万8千円となり、3万8千円/16人=2375円(小生を除く一人当たりの祝金の平均額)ということに。
つまりどうやら一人当たり2千円から多くても3千円というのが相場の模様らしく。
今回はPC関係のトラブルで正に至って手元不如意な状況。
然し日頃仕事関係で大変お世話になっていることから、取り敢えず5千円とさせていただいたものの来賓の末席に連なるものとしては不相応の金額である可能性も。
それにしても文字通り「寸志」とはいえ、平均額にして3千円未満であったとはある意味で驚きの事実かと。
こうしたこともあり、己の体調と天候次第で明日以降は再び美里町方面を彷徨する予定。
閑話休題。
本日仕事関係の会合で寸志を包む場合の金額の目安を明らかに勘違いしていたことが判明。
配布された総会資料の収入部分について、暇つぶしがてらによく見てみると決算額で年間5万8千円ほどの祝金が収入として記載。
来賓人数×招待回数(2回)は延べ18名のはず。
従って5万8千円/18名=3222円が一人当たり一回分の金額ということに。
なお小生の場合には職責上からこの3年間は常に1万円を包んでいたため、これを差し引いて考えると5万8千円-2万円=3万8千円となり、3万8千円/16人=2375円(小生を除く一人当たりの祝金の平均額)ということに。
つまりどうやら一人当たり2千円から多くても3千円というのが相場の模様らしく。
今回はPC関係のトラブルで正に至って手元不如意な状況。
然し日頃仕事関係で大変お世話になっていることから、取り敢えず5千円とさせていただいたものの来賓の末席に連なるものとしては不相応の金額である可能性も。
それにしても文字通り「寸志」とはいえ、平均額にして3千円未満であったとはある意味で驚きの事実かと。
本日は高齢者団体の史跡めぐりのため吉見町方面へ。
ルートは伝大串次郎重親の宝篋印塔⇒吉見百穴⇒武州松山城⇒吉見観音
往復のバスの車内、現地での説明と殆ど喋りっ放しのため咽喉が限界に。
前日までの悪天候が予想以上にものの見事に回復してくれたことが正にうれしい誤算。
参加者は平均年齢75歳の高齢者の集団。
この方々を仮に傘をさした状態で武州松山城を無事に案内するこということになればまさに至難の業にて。
当初の予定通り大手口からアプローチしたこともあり、本郭の登り道も含めて事故などもなく無事に往復。
さて以前から疑問に思っていた本郭の「コンクリートの土台跡」については、昭和30年代の年代に不審火により焼失した神社跡であるとの情報を入手できたことも本日の収穫のひとつなのでありました。
ルートは伝大串次郎重親の宝篋印塔⇒吉見百穴⇒武州松山城⇒吉見観音
往復のバスの車内、現地での説明と殆ど喋りっ放しのため咽喉が限界に。
前日までの悪天候が予想以上にものの見事に回復してくれたことが正にうれしい誤算。
参加者は平均年齢75歳の高齢者の集団。
この方々を仮に傘をさした状態で武州松山城を無事に案内するこということになればまさに至難の業にて。
当初の予定通り大手口からアプローチしたこともあり、本郭の登り道も含めて事故などもなく無事に往復。
さて以前から疑問に思っていた本郭の「コンクリートの土台跡」については、昭和30年代の年代に不審火により焼失した神社跡であるとの情報を入手できたことも本日の収穫のひとつなのでありました。