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そういえばもう半世紀以上も前のことになるのだが、1969年に自宅が増改築されて2階建てとなった折のことである
自宅2階の自室からは当たり前のように西南方向に夕景の霊峰を眺めることができた
その当時は郊外に立地する戸建住宅の殆どは平屋建て形式が多かったということに起因している
尤もその後暫くしてすぐ近くに2階建てのアパートが建設されてその眺望は遮られることとなった
更に2005年の半ば頃には100mほど離れた個所に高さ約10m程のホームセンターが建設されて南西方向の眺望は完全に失われた
それでも今でも最寄駅からの直線道路からは南西方向に富士山の姿を捉えることができる
■新河岸川左岸から
300mm望遠使用/2019年12月撮影
東京オリンピックを迎えて路線の縮小が進んでいたとはいえ、依然として都電が都内の主要公共交通機関であった頃のこと。
その当時電車通学していたのだが、西ヶ原停留所での乗車の際に危うく人身事故に遭遇しそうになったことがあった。
乗車の際にステップに左足しか乗せていないにもかかわらず、乗降口が開いたまま都電が発車し結果的に2mほど引きずられてしまった。
直後に急停車し、幸い右手で縦の真鍮製の手摺をしっかりと掴んでいたこともあり、捻挫や擦過傷もなく、軌道の石畳に転倒するようなこともなく、むろん車輪に巻き込まれるようなこともなく、奇跡的にほぼ無傷。
事の重大性に気付いたのは、だいぶ後のことで、冷静に考えれば当方には何らの瑕疵もなかったが、記憶ではその際に安全確認を欠いたと思われる乗務員からの安否を問われるようなこともなかった。
仮にあのとき手摺を掴んでいなければ、あるいは左足をしっかりとステップに乗せていなかったら、その生死も含め今の自分はなかった可能性も少なくないのだろう。
しかし年齢が13歳であったこともあり、都交通局へクレームをつけるというような発想もなかったし、運営者側もまた「乗客に対するサービス」などという発想のない時代でもあった。
その当時は今よりも体も小さく身長は150cm足らずだったこともあり、運転手の位置からは死角になっていた可能性もあったのかも知れない。
記憶を整理すれば、たぶん1964年の夏前ころのことと思われ、路線は19番で王子から日本橋間を走行していた。
そんな苦い記憶を引きずっていたこともあったのか、高校での集団健康診断の際には、会場で高校生を相手に威圧的に怒鳴っていた保健所の職員に、その態度の是非を問い発言態度を改めてもらったことがあった。
これは大学受験の前年なので、たぶん1968年の秋頃のことだと記憶。
美輪明宏氏のコンサートは、今から10年ほど以前に川口市のリリアホールで拝聴したことがありました。
勿論この歌もフルバージョンで歌われ、涙腺が緩んでしまったことを覚えております。
ヨイトマケといえば、小学校の入学前後に区道の道普請などでよく目にしたことがあります。
当時は現在のようなロードローラーのような建設車両などは普及しておらず、商店街のメーンストリートでさえも砂利道で、雨の降るたびにオート三輪が走行すると道に水たまりができるというのは日常茶飯事でした。
ここで登場するのが、ヨイトマケを活用した道路の凹み補修作業。
たしか失業対策事業という表現のあった時代だったかと記憶しています。
また当時の東京都内のゴミ収集の主力は大八車。
東京都のマークが記された人力の木製運搬車です。
なお家庭用のゴミの保管箱は主に木製で、黒いコールタール仕上げでした。
たまたま自宅の隣にこのゴミ保管箱を製造している小さな工場もありました。
放課後に自宅へと戻ると、茶の間では先年に無くなった母親が、1本に付10銭の手間賃となる造花の内職をしておりました。
標準米の米10キロが600円くらいの時代。
6000本の造花を作成するには、それこそ膨大な日数が...
戦後間もない時期だったことも有り、母子家庭の友人も多く、むろん特別学級もない時代、知的障害の子、学校という集団生活に馴染めない子、必ず忘れ物をする子、九九のできない子、漢字の書けない子、教科書の音読のできない子も少なくなかったような...
大八車が、専用のゴミ収集車に変わり、細い区道がアスファルト舗装され、水洗トイレが普及し、東京タワーが完成し路上での紙芝居が消え、日本経済がものすごい勢いで拡大していく過程を子ども心にも明確に記憶しております。
ヨイトマケの光景は日本経済が右肩上がりとなるための象徴的光景だったのかとも。
やがて月日は流れバブル経済が破綻するとともに日本が超高齢化社会に転じ、今後はその経済規模が確実に縮小していくことは避けることのできない宿命におちいっています。
小生の生まれたのはちょうど20世紀の後半の始まり頃。
結果的には、日本経済の発展とこれに伴う公害問題などの社会的な歪み、そして国家経済の長期低落を目の当たりにする世代となってしまったようです。
増え続ける国家財政の借金、原発をめぐる問題、消費税増税をはじめとする社会的弱者に対する理不尽な処遇、社会保障制度の縮小、極東情勢をめぐる不穏な動向、これに加えて大規模地震災害に対する危惧など、決して明るい展望が開けているというわけではないようです。
それでも、地球には明日が確実に訪れます。
来年がどのような年になるのかは、神のみぞ知るかもしれませんが、現実には我々国民一人一人の行動の積み重ね如何にかかっていることも確かなようです。
とはいえ、己を振り返ってみるに、ここ一年は体調不良から少しも解放されることなく終わろうとしています。
己の無力さを思い知らされたこの一年でしたが、年末に当たり世界の平和と世界の人々の幸せを祈念して、2012年のブログを終えようと思います。
この1年間どうもありがとうございました。
みなさん、どうかよいお年をお迎えください。
昭和30年代の半ば頃にテレビで見たクレイジー・キャッツ。
金管楽器担当は彼一人。
確かスライドを伸縮して音程を変える楽器に興味を覚えたのはこの頃だったかと。
中学、高校の6年間、常時人数不足の吹奏楽の部活動。
この間のパートは常にトロンボーン。
社会人となってから、これまた人数不足の吹奏楽団へ2度ほど在籍。
低音部記号の楽譜を見かけなくなってから、どれほどの歳月が過ぎたのだろうか。
最後に楽器のケースを開けたのは、確かもう20年以上も前のこと。
「キングの3B」は今でも屋根裏部屋に眠っている筈。
昔のことを思い出させてくれた谷啓さん。
ご冥福をお祈りして...合掌
訪れたのは既に1年以上も前のこと。
「新撰組」というと、近年のHHKの大河ドラマよりも、TBSの「新撰組始末記」(子母澤寛/原作/1961年放映)。近藤勇役は中村竹弥、土方歳三が戸浦六宏で沖田総司は未だメインキャストとなる前の頃。
ドラマの最終回は鳥羽伏見の戦いで敗北し、海面に打ち棄てられた誠の旗が浮かび大坂から富士山丸で江戸へと敗走するシーンで終了した記憶が。
You-cubeで検索し主題歌を視聴。
既に半世紀前の事ゆえに懐かしさを通り越し感慨もひとしお。
最近の事象はよく忘れることに比して、未だに歌詞の一番だけは完全に記憶。
「♪♪葵の花に吹く時代の嵐~、乱れて騒ぐ京の空...」
亡くなって久しい三橋美智也の主題歌を聞いていると、「怪傑ハリマオ」(♪♪真っ赤な太陽燃えている...)が聞きたくなり、「古城」(♪♪松風さわぐ...)も聞いて...「城館」へと回帰。
しかし更新はかくして遅々として進捗せず(汗)