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往復にして6時間以上を要することもあり、折角なので一昨日探訪を諦めた天幕城などにも向かうこととした。
そうはいうものの前日セットしたはずの肝心な目覚ましが機能せず、起床した時刻はすでに午前7時半を回っていた。
このため自宅発の時刻はある程度の支度も必要であることから早くとも午前8時半となった。
そうなると途中の交通渋滞などの事情により現地到着時刻が大きく遅れることになることから、そのままずるずると日延べしてしまうことも考えられた。
こうした事態を数日前頃から、午前6時発、午前8時半発などのパターンについて予め想定し起床時刻の遅延を理由に探訪中止とならないように考慮していたのである。
もっとも直接的な寝坊の原因は目覚ましスイッチの入れ忘れなので、相変わらず自分自身の性格がよく理解できていないことに気が付いた。
凸天幕城(群馬県伊勢崎市)
12時10分から13時05分
こちらも一応は市指定史跡であり、赤堀城や毒島城に比べるとどちらかといえば史跡整備の按排は良さそうな印象があるようなに思えた。
もっとも夏季の蓮園開設と関連しているものであるのかも知れない。
主郭を中心として土塁、帯郭、空堀などの遺構を確認することができる。
主郭の虎口は北西角付近にもそれらしいルートが確認されるが、現在土塁の無い東側にも存在していた可能性も否定できないような気がした。
なお、西側の帯郭周辺に自然石である可能性の高い悩ましい石積も何カ所か確認できる。
ある程度成形された石がまとまって放置されているように見受けられる個所もあるが、これは河川の護岸工事などの遺物なのかも知れない。
南東方向から撮影
凸磯前田遺跡(群馬県伊勢崎市)
13時15分から13時30分
出典は「マッピングぐんま」の「城館」をキーワードに検索した結果からに過ぎない。
もともとが埋蔵文化財の保全等を意識して作成された情報をプロトタイプとするものと思われるが、近年は他の市地理情報含めた総合化したデータベースが作成されていたりすることが珍しくは無くなってきている。
10年ほど以前と比較すると正しく昔日の感がある。
この事例では群馬県全体をカバーするシステムであるが、元々の情報選定を含むデータ入力には当該市町村担当者の力量、知見、姿勢などに依拠するものであろう。
このため大まかに言えば、あくまでも市町村により格差が存在するものであることに留意する必要があろう。
地図システムとの関連については民間事業者である「パスコ」の会社名もよく見かける。
昭和の終わり頃に仕事上の取引等で縁のあった事業者でもあるので懐かしいような気もする。
とはいえ殆ど事前情報は無く皆目不明状態。
強いて挙げれば、一般に「前田」という地名がその土地を支配する一族の本拠地にまつわる事例が存在していることぐらいなのであった。
いちおう屋敷林の伐採直後でもあり、古い石祠が祀られている盛土地形も存在していた。
石祠が祀られた盛土
また遺跡としての捉え方が複合遺跡という性格もあり、余りにも予想通り不明な部分が多すぎた。
そのなかで強いて言えば地形全体としては包蔵地の南限の段丘地形とその東側の段丘地形などが挙げられるのかも知れない。
こうしたこともありいずれにしても徒歩での探訪は、多少時間はかかるけれどもある程度は有効なようだ。
凸宮前屋敷(群馬県伊勢崎市)
13時55分から14時05分
当地に所在している旧家の周辺部を道路沿いに巡りながら拝見をさせていただいた。
強いて挙げれば、北東部(道路沿い)にごく小規模な土塁状地形(長さ約20m、高さ約1.3m程度)が認められた。
ただしその性格や時代背景については今のところ全く分からない。
風除けのための屋敷囲いであるとすれば東側の一部が遺されていることに違和感があり、あるいは土地の境界を示すためのものであるとすると道路沿いからやや引っ込んだ個所に位置しているという意味が理解できない。
直接車で移動していてはまず目にすることのできない状況でもある。
屋敷東側付近の土塁地形
凸白田屋敷(群馬県伊勢崎市)
14時30分から14時40分
大きなビニールハウスのある旧家の辺りがこれに相当するものと思われた。
なお宅地北側には石祠が祀られた区画が存在しL字型をした土壇状の盛土が現存している。
ただしその時代背景は今のところ不明。
付近の近観音堂(市指定重文)
凸板野屋敷(群馬県伊勢崎市)
14時14分から14時50分
手持ちの資料などから概ねの所在地は把握していた。
なお東側にはコンビニも所在している。
当該地には屋敷門と土蔵などが存在する地元の旧家が所在しており、こちらが「板野屋敷」に相当するものと思われたが、それ以外の地表の様子などについては周辺からは確認できない。
さてこの日は天幕城を含めて全て徒歩で探訪している。
むろん極力路駐を避けたいという信念のようなものもあるのだが、何と言っても見落としが少ないことが大きなメリットでもある。
このため今回も徒歩でなければ気づくことのなかった地面の傾斜や地表の凹凸を感じ取ることができている。
〆て約20kmの散歩であった。
この日の気温も一昨日と同様に春を通り越した摂氏25度前後という初夏の陽気であり、極度に暑さに弱い管理人としては一昨日の筋肉痛とも相俟って文字通り足取りの重い探訪であった。
この後の行動計画として何しろ気温の上昇が尋常ではないことから、近県では今シーズン最後の山城的な個所を探訪するべく計画を練っている。
しかし足回りの老化をひしひしと感じていることから、比高差と傾斜角度、道の有無に左右されることはいう間でも無さそうである。
何しろ最近は到底先々の加齢とこれに伴う健康状態が読めないことを認識し、行けるうちに行くことを鉄則にしているのである。
なお、帰路は予想以上に順調に走行し全く同じルート戻っているのだが、帰宅時の混雑を見込んで図書館で少し時間つぶしをしたところ、都合2時間半と往路よりも寧ろ早い結果となった。
今年は1月下旬から頭痛などが続き、漸く小康状態となってきたところで今度は膝の具合がおかしくなった。それらが落ち着い始めたと思えば、風邪や別の偏頭痛気味の頭痛も発生。そして3月に入ればこれに花粉症も加わってしまい、結局のところ1月中旬以降は全く動くことができなかった。
このまま寝たきりになっても困るので、そろそろ意を決して出かけることとしたのだが、今度は気温が上がり過ぎて断念。そのような次第で何と約3か月ぶりの探訪となった。
しかし予定していたのが、本来は1月下旬に予定していた目的地なので下草の成長が懸念されることとなったのであった。
凸久長氏陣屋(群馬県伊勢崎市、旧東村)
午前8時30分から9時20分
県外にしてはやや遅い午前6時15分に自宅を出たこともあり、この季節ではすでに日の出後の時刻ではあったが、途中県道14号線の利根川を渡過する上武大橋拡張工事が完成していた。このため車の流れは極めてスムーズとなっており、行楽日和の土曜日であったにもかかわらず目的地に到着したのは予想よりも遥かに早い時間帯であった。
駐車場は神社西側の公園付属のものを利用できるらしく収容台数も40台位はある。
しかしこの日は土曜日の行楽日和であるにもかかわらず、「市民のもり公園」「華蔵寺公園」なとほかの名所が少なくなく、ややサクラの本数自体も少ないこともあるのか陣屋跡の大東神社および西隣の公園の利用者は全くの皆無であった。
なお当陣屋跡は伊勢崎市指定史跡でもある。
旗本久長氏の近世陣屋であるが、一説によれば中世城館跡としての起源の可能性も想定されるらしい。
陣屋跡の西側から
凸田部井館(ためがいやかた、群馬県伊勢崎市、旧東村)
9時45分から10時20分
この日は目的地の行く先々で桜が満開であった。
旧東村の公共施設ゾーンの図書館利用者用駐車場に車を停めて、いくぶんまばらな花見客と満開の桜を横目にしつつ徒歩にて西の早川方面へと移動した。
川沿いの堤防付近には、これまた今を盛りと言わんばかりに菜の花(セイヨウアブラナ)が咲き誇っていた。
当所は難読地名でもあり、予備知識が無ければ普通は「たべい」と読むものと思われる。
「日本城郭大系」が編纂された半世紀ほど以前には未だある程度の地表上の痕跡を追い求めることができたようなのだが、外見的にも県道68号線で分断されていることも加わり現在では堀跡を含め全くその痕跡が感じられない。
画像左手の辺りが城館跡南東部
そうはいっても折角なので一応かつての内堀跡に沿って辿ってみることとしたが、やはりその地表部や道路の形状などからは城館跡の雰囲気を感じ取ることは困難を極めた。
ちなみに外郭部に相当する個所に位置するカラオケスナックの店名は「たてぼり」であった(^^ゞ
凸斉藤屋敷(群馬県伊勢崎市、旧東村)
11時00分から11時20分
当所は鯉沼と呼ばれている用水池の西側付近に所在している。
おそらく主郭部であろうと想定されている宅地の周囲には、かつては堀跡などが存在していたらしいのだが、やや微高地であることと集落内の一部曲折した道路が確認される以外には中世城館跡に繋がるような形跡を見出すことはできなかった。
北関東自動車道のすぐ南側に位置していることもあり、その建設以前とは周辺の景観が大きく変貌していることが感じられた。
同地区内に所在している共同墓地の墓名を拝見してみたところ、城館跡との関連が窺われる斉藤姓とならび重田姓のお宅が非常に多いことが目立った。
共同墓地内の薬師地蔵同脇の駐車スペースをお借りした。
懐かしのホーロー看板健在
凸赤堀城(群馬県伊勢崎市、旧赤堀町)
12時00分から13時00分
伊勢崎市指定史跡
主郭北辺西側の巨大な土塁と空堀跡、ならびに北辺東側から東辺の土塁とその間に所在している虎口が見どころである。ただし土塁上を見学できそうなのは北東部の一部に限られ、他は急傾斜や樹木の繁茂などにより困難である。
また主郭内自体も耕作地であることから中央部の農道などの一部以外には歩くことのできる部分は限定されている。
なお、「日本城郭大系」ではその北西側にも堀跡などの遺構が記されているが、現在ではほぼ消失している。
手元の資料からは赤堀氏一族については断片的な記述しかなく、通史的な理解が得られていない。このため引き続いて地元の赤堀図書館などを利用し参考・補填して行こうと思う。
北辺土塁と空堀跡
当然のことではあるが、赤木山麓という地形条件なので河川はそのほとんどが南流している。
このため一見平地のように思われる地形でも、実際には北高南低となっていることに改めて認識した。
凸毒島城(群馬県伊勢崎市、旧赤堀町)
13時30分から14時00分
伊勢崎市指定史跡
周囲を低丘陵に囲まれた低地の中央部に取り残されたように所在している独立丘陵に所在している。
その後の地形改変が顕著であることから果たして単郭がどうかは不明であるが、いちおう丘陵中腹に刻まれたやや幅のある帯郭がこの郭を取り巻いている。
虎口を南西部に想定している見方もあるようだが、郭内自体が全面的に耕作地とされていることから、どうも城館跡という印象を強く感じることができなかった。
サクラの時期ではあったが、城跡となる丘陵では折からソメイヨシノが満開で期せずして「花見」の探訪となった。
しかしここでも訪れる人々は少なく、同時刻においでになった人数は数人に過ぎなかった。
もっともソメイヨシノそのものの本数もそこそこの大木ではあるものの合わせても20本ほどとやや少ないことと確実な駐車スペースが存在しないことも影響しているのかも知れない。
道交法の路駐には当たらない箇所は丘陵南東部の土地区画整理記念碑付近の空きスペース約1台分だけであり、丘陵麓ではほかに許容されそうなグレイゾーンを合わせても合計3台ほどである。
北側方向からの遠景
このあと、日没までは約4時間もあり本来ならばそのまま近くの天幕城方面へと徒歩移動をする予定であったが、地元の図書館にも立寄る心積もりと、最早持病と化しつつある左足第五指の痛みがひどくなり始めたこともあり、結局旧赤堀町の図書館へと戻った。
足の痛みのせいもあり、約3kmほどの道程を長く感じてしまった。あらためて色々な意味で年齢の限界というものを感じている。
赤堀図書館では「赤堀町誌」「東村誌」「境町史」「伊勢崎市史」等を閲覧し、必要個所の複写申請を行った。
資料の確保読込並びに付箋処理などに約30分を要した。
この時点で既に午後3時半であり、セルフサービス方式ではないことから、当日の受領が困難と思われたが、まさにその通りとなったことは極めて致し方ないことでもある。
ふと気が付けば日の出が約午前6時、日没が午後6時頃という季節となっていた。
実に分かり易いことなのではあるが、平地ではそろそろ下草も伸び始めており緯度や経度を上げる必要性を感じ始めたが、体力と気力の面で問題が多く花粉症の災いしており、自分の意志と体ではあるのだがこの先の行動は全く読めないでいる。
ちなみに帰途は同じルートをほぼそのまま戻ることとしたが、見事なまでに週末行楽帰りの車列渋滞に嵌ることとなり、伊勢崎市から自宅までの所要時間は何と3時間20分を要した。
目立った渋滞個所は工事によるものを除くと、これも予想通り、熊谷市内、東松山市内、川越市内の以上3か所なのであった。
このルートも約600m足らずの至近距離ではあるが、進行方向は赤城山の山頂方面のため比高差約20mの緩やかではあるが結構足回りに響く坂道であった。
凸小坂子城(群馬県前橋市小坂子町)
13時50分から14時30分
台地先端に鎮座する小坂子八幡神社にてこの日何回目かの初詣祈願。
そういえば久しぶりに出かけたこともあり常時携行アイテムである賽銭用の財布を自宅に忘れてきた。
小坂子八幡神社南参道
城跡へはこの八幡神社の参道から入り境内地を東側に抜け東側の崖線に沿った農道のような細道を北へと向かいそのまま県道34号線まで歩いた。
ひとつ前の兎貝戸の砦と同様に東側の防御線は大神川の崖線部となっている。
東側崖線部(北の赤城山方面)
東側崖線部(南方を撮影)
この辺りからは対岸の「出城」ともいわれる林が目に入る。
出城ともいわれている辺り
主郭付近には土塁跡も残されているらしいが、生憎民家の裏手辺りらしいことから目にはしていない。
画像右手の屋敷林辺りが主郭部
出城付近の様子を県道から一瞥したのち、県道を西へと引き換えし城跡西側の市道を南下しつつその崖線部を観察した。
主郭とその南に続く城域を分ける堀切状地形の麓には小さな解説版が設置されていた。
ただし後世に埋め立てられたのか堀切としてはやや中途半端な印象もある。
堀切地形麓の解説版
さらに市道を南下していくと八幡神社境内へと登る階段があり、登りきった所には古びた木製の城跡標柱が所在していた。
この時点で日没までは未だ2時間ほどの余裕があったが、両膝の具合が変調を来してきたようにも感じたことから、この日の探訪は終了することとして、この後は県立前橋図書館へと向かった。
図書館を退出したのは午後5時前でそのまま上武道路を利用して太田市内へと戻り、往路とは反対に深谷市-熊谷市-東松山市と経由して午後7時半頃に自宅に帰着した。
といっても、道程にして僅か600mほどに過ぎない。
ところが高花台郵便局から芳賀中学校方面に向かう道は比高差は10mほどの緩やかな上り坂であったため意外に時間を要することとなった。
この程度の緩やかな坂道に10分以上も要する自分に呆れた。
赤城山の南麓であることから少しでも北寄りに道をとると必ず上り坂となるのだが、地図やナビ上からは殆ど読み取ることのできない情報でもある。
凸兎貝戸の砦(群馬県前橋市小坂子町兎貝戸)
13時25分から13時40分
「群馬県の中世城館跡」の記載内容を読む限りでは、当該実地調査が行われた1980年代中頃くらいまでは、それなりに良好な状態の土塁を含む空堀などの遺構が現存していたらしい。
しかし現在は一面の畑(主郭)で、その東側(東の郭)には休耕地のような平地が確認できるに過ぎなくなっていた。
下記画像のような城跡の説明版が設置されていなければ、おそらくは所在地さえ把握できずにそのままスルーしてしまいそうな光景でもあった。
「日本城郭大系」や現地の説明版によれば東西100m、南北60mの東西に分かれた複郭であったという。
南北にはそれぞれ民家が所在しその間の畑の一部が砦跡であったらしい。
なお東側には大神川の小流がが南流し谷津田地形を見ることができ、その比高差は5m前後はありそうであった。
主郭の南辺中央付近に設置されている現地解説版で、倒れている木材は古い文化財標柱である。
画像の一段高い個所が西側の主郭部分であったのだろうか(南東方向から撮影)
現地解説版の拡大画像
北側から撮影したもので、画像の右側の少し高い部分が主郭で、左側の低い部分が副郭(東郭)に相当するものと思われるのだが、南辺部の一部を除けば堀跡らしい形跡はほぼ失われているように感じた。
国土地理院航空写真を編集加工
戦後間もない時期に撮影された画像には明確に当該砦跡の形跡が浮かび上がっている。
なお、この日の天候は朝方は冬晴れの快晴であったが次第に薄雲が広がり始め午後からはほぼ高曇りの曇天となった。
図書館も併設されていたので蔵書について複写の可否を訪ねたところコピー機が設置されていないので複写サービスに対応していないとのことであった。
もっとも小型の地域館であることから、ざっと一瞥したところでは「前橋市史」と芳賀地域の郷土史のようなものだけであったので、予定通り夕刻には県立前橋図書館へと赴くこととした。
凸勝沢城(群馬県前橋市勝沢町)
12時30分から13時10分
城跡自体はその西側を藤沢川が、東側を金丸川がそれぞれ南流する台地の南端部に所在している。
「日本城郭大系」によれば、北条氏(きたじょうし)の支配下に置かれていた嶺城の支城と推定されているが、その現状は宅地周辺の整備、集落内の道路整備などにより城跡としての旧情はかなり失われいると形容した方が相応しい印象であった。
また所在地に関しては概ね合致していると思うのだが、実際に現地を訪れ見ると集落内の現在の道路状況と山崎一氏の作成された縄張図の通路の様子がなかなか一致をみないので困った。
同氏が作成された時期からは相応の年月を経ていることを考慮に入れれば、これは別に珍しいことでは無くよくある事例のひとつでもあるのだろうとは思う。
たぶんこの付近が比較的標高も高く本丸とされている辺りではないだろうかと思う。
同集落のやや南寄りに台地を東西に横断するような具合に見えた比高約3mばかりの段差が所在していたが城跡との関連については今のところよく分からない。
城跡西外れに所在する石碑。 右側が秋葉神社で、左側は庚申信仰の青面金剛の文字が刻まれた
石碑であり、ともに前橋市の指定文化財となっている。
たぶんこの辺りが城跡の北西角付近ではないかと推定してみた。道路の左側は新しい高花台の住宅地である。