本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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「月輪館」埼玉県滑川町
2006/07/22 撮影
家内の運転で江南町の県立病院に入院中の親類の病気見舞いへ。
その途中で約2年ぶりに滑川町の「月輪館」(通称大堀とも)に寄り道を。
この間付近を通過したときに駅に近い地理的条件のため、北側の宅地開発がかなり進行している印象が。
ある程度の遺構の消滅が懸念されたものの、平地林の中に所在している南北方向に延びている延長およそ80m、幅2間から3間、深さ1mから1.5m程度の堀跡そのものは以前同様に健在。
改めて2年ぶりの感動的な再会を果たしたのでありました。
しかし、時節柄薮蚊の大群にも再会。
ある程度予想はしていたこともあり長袖のシャツを着用。
しかし敵は顔面を集中攻撃してきたので、合計10個所以上の被害に遭遇。
それでも小雨にぬれた蜘蛛の巣を払いながら周囲を20分ほど探査。
やはりいずれ11月下旬頃に予定している再再訪城館リストに追加。
「有名メーカーの」虫除けスプレーは常備しているものの、呼吸器と皮膚のアレルギー体質というような事情もあるので使用を躊躇したのが甘かったのでありました。
そのような次第で車に戻り、すぐさま常備している痒み止めの軟膏をぺたぺたと。
人の病気も舞いもさることながら、自分の体調はといえば完全復活には程遠い状態。
職場への送迎の手を煩わせるという必要がなくなったのはせめてもの幸い。
しかし近距離は別としても片道で1時間以上の距離となると、未だに家内の運転でなければ殆ど身動きがとれないという始末。
休みと天候と体の具合の三拍子がどうにか揃って蓮田市方面の訪城へ。最近は従来全くといってよいほど土地勘のなかった桶川、伊奈、菖蒲などの武藏の東部ブロックへじわじわと浸透していることもあり、目的地の近くまで殆ど迷わず到達することに成功。
凸井沼堀の内 午前11時10分~11時30分
水田との比高差は辺縁部分で2m、台地の最高地点では4mほどはあろうかという地形。竹林の中に土塁跡のようにも見える高さ2m前後の高まりも見られます。しかし、堀跡については残念ながら確認するに至らず。水田と台地の境界部分が美しいカーブを描いてとても印象的な風景が展開していました。
すぐ近くに所在する久伊豆神社は館跡の位置からは鬼門の方向にあたり、水田の低湿地に突き出した半島状の地形として一体であることから館跡の一部であったような印象も見られます。辺りは小鳥の鳴声に混じってトノサマガエルの鳴声が水田に響きわたるのどかな田園風景が眼前にひろがり暫し時間の流れを堰きとめていたようにも感じられました。
しかし、梅雨の晴れ間で水田が間近にある竹薮と条件が揃えばやはり薮蚊の襲来。すでにこれまでに十分経験済みであるにも拘らず、このときのために買い揃えておいた肝心の薮蚊対策のスプレー、痒み止めなどのグッズの携行を失念。蒸暑い陽気のため発汗作用が激しく薮蚊の攻撃は間断なく早々の撤退。帰りがけに念のため館跡付近に所在する民家の門柱の表札をそっと拝見。苗字としては日本でもっとも多いとされるものの、「新編武蔵風土記稿」に記されている旧家の姓と同一であったことに改めて感動をした次第。
凸閏戸堀の内 午前11時40分~正午
国道122号線バイパス沿いに所在する遺構で蓮田市の指定史跡であることに加えて、現在でも地表に遺構が確認できるとの情報。ローカルな城館跡ばかりを巡っていることもあり最近明瞭な遺構とのご対面する機会が少ないこともあり少しだけわくわく。しかし駐車を予定していたコンビニがどうやら消滅しているらしく、目に入ったファミリーマートは中央分離帯を挟んだ対向車線側に。このためやむを得ず東北新幹線の高架下近くに幅員に余裕のある個所に駐車し小走りに訪城。
南側に断片的に残るとされる土塁は成長著しい夏草のため確認できず。東側の土塁跡については現在も存在している模様。しかし同様に夏草に覆われてブロックペ塀の内側という事情もあり地面の様子を間近に見ることは叶わず。文化財標柱の所在する北側土塁は明瞭に現存。しかしこれも草木に覆われた宅地内のため全体の様子を確認するまでには至らず仕舞いに。久々土塁らしい土塁を間近にしたものの薮蚊の攻勢にまたしても早々に敗北。
凸閏戸足利遺跡 正午~12時20分
閏戸堀の内にほぼ隣接したような遺構で、国道122号線バイパスの建設に伴う発掘調査によりその存在が確認された城館跡。東側には東北新幹線の高架橋が縦断。従って地表上の遺構を見ることはでず、遺構が確認された個所も現在はパイパスの真下に。ちょうどバイパスを潜る地下道があったので、余り意味はないもののついでに記念撮影。その後は周辺の様子をデジカメに納めて訪城終了。
凸丸城 12時30分から13時10分
「新編武蔵風土記稿」の城村の個所に伝承として記述されていることから城館跡と推定されている模様。東西2か所の広い沼と周辺には台地の先端部分と思われる地形が所在。その中ではおそらく城沼公園通に南側を接し北側を東城沼により守られている独立台地がとりあえずの城館跡と推定を。これとは別に西城沼公園の西側の台地付近も何やら歴史を感じさせる地形が残存。相変わらず資料不足・準備不足の城館めぐりがつづく。
「アジサイ」2006/06/19 撮影
蓮田市閏戸堀の内付近にて
城館跡めぐりを始めたことにより2年近く埼玉のあちこちを彷徨。愛車の走行距離も以前の3倍近くに。元来相当な方向音痴の性質でも、これだけ続けていればそれなりに進歩はするものだと自分自身の内なる変化に改めて感心。
テレビのローカルニュースや新聞の地方版を見ていても地名などから具体的なイメージとして頭に浮かぶことも時々。少しだけ世間が広がったように思えるささやかなもう一つ成果に。
凸井沼堀の内 午前11時10分~11時30分
水田との比高差は辺縁部分で2m、台地の最高地点では4mほどはあろうかという地形。竹林の中に土塁跡のようにも見える高さ2m前後の高まりも見られます。しかし、堀跡については残念ながら確認するに至らず。水田と台地の境界部分が美しいカーブを描いてとても印象的な風景が展開していました。
すぐ近くに所在する久伊豆神社は館跡の位置からは鬼門の方向にあたり、水田の低湿地に突き出した半島状の地形として一体であることから館跡の一部であったような印象も見られます。辺りは小鳥の鳴声に混じってトノサマガエルの鳴声が水田に響きわたるのどかな田園風景が眼前にひろがり暫し時間の流れを堰きとめていたようにも感じられました。
しかし、梅雨の晴れ間で水田が間近にある竹薮と条件が揃えばやはり薮蚊の襲来。すでにこれまでに十分経験済みであるにも拘らず、このときのために買い揃えておいた肝心の薮蚊対策のスプレー、痒み止めなどのグッズの携行を失念。蒸暑い陽気のため発汗作用が激しく薮蚊の攻撃は間断なく早々の撤退。帰りがけに念のため館跡付近に所在する民家の門柱の表札をそっと拝見。苗字としては日本でもっとも多いとされるものの、「新編武蔵風土記稿」に記されている旧家の姓と同一であったことに改めて感動をした次第。
凸閏戸堀の内 午前11時40分~正午
国道122号線バイパス沿いに所在する遺構で蓮田市の指定史跡であることに加えて、現在でも地表に遺構が確認できるとの情報。ローカルな城館跡ばかりを巡っていることもあり最近明瞭な遺構とのご対面する機会が少ないこともあり少しだけわくわく。しかし駐車を予定していたコンビニがどうやら消滅しているらしく、目に入ったファミリーマートは中央分離帯を挟んだ対向車線側に。このためやむを得ず東北新幹線の高架下近くに幅員に余裕のある個所に駐車し小走りに訪城。
南側に断片的に残るとされる土塁は成長著しい夏草のため確認できず。東側の土塁跡については現在も存在している模様。しかし同様に夏草に覆われてブロックペ塀の内側という事情もあり地面の様子を間近に見ることは叶わず。文化財標柱の所在する北側土塁は明瞭に現存。しかしこれも草木に覆われた宅地内のため全体の様子を確認するまでには至らず仕舞いに。久々土塁らしい土塁を間近にしたものの薮蚊の攻勢にまたしても早々に敗北。
凸閏戸足利遺跡 正午~12時20分
閏戸堀の内にほぼ隣接したような遺構で、国道122号線バイパスの建設に伴う発掘調査によりその存在が確認された城館跡。東側には東北新幹線の高架橋が縦断。従って地表上の遺構を見ることはでず、遺構が確認された個所も現在はパイパスの真下に。ちょうどバイパスを潜る地下道があったので、余り意味はないもののついでに記念撮影。その後は周辺の様子をデジカメに納めて訪城終了。
凸丸城 12時30分から13時10分
「新編武蔵風土記稿」の城村の個所に伝承として記述されていることから城館跡と推定されている模様。東西2か所の広い沼と周辺には台地の先端部分と思われる地形が所在。その中ではおそらく城沼公園通に南側を接し北側を東城沼により守られている独立台地がとりあえずの城館跡と推定を。これとは別に西城沼公園の西側の台地付近も何やら歴史を感じさせる地形が残存。相変わらず資料不足・準備不足の城館めぐりがつづく。
「アジサイ」2006/06/19 撮影
蓮田市閏戸堀の内付近にて
城館跡めぐりを始めたことにより2年近く埼玉のあちこちを彷徨。愛車の走行距離も以前の3倍近くに。元来相当な方向音痴の性質でも、これだけ続けていればそれなりに進歩はするものだと自分自身の内なる変化に改めて感心。
テレビのローカルニュースや新聞の地方版を見ていても地名などから具体的なイメージとして頭に浮かぶことも時々。少しだけ世間が広がったように思えるささやかなもう一つ成果に。
先週の菖蒲町に引き続いて上越新幹線沿いの城館跡を探訪。天候は曇りのち晴れ。気温はというと、晴れ間が出たのでやや蒸し暑く感ずる程度。晴れ間が出たついでに堀跡の竹藪ではお馴染みの薮蚊も多数登場し、虫除けグッズの活躍する季節が到来したようです。
先日自宅近所のドラックエースに赴いたところ、時節柄入り口の正面近くに虫刺よけ対策関係の品々が山積み状態に。お馴染みの「虫除けスプレー」「かゆみ止め」に始まり、「虫除けリング」「虫除けパッド」など数十種類はあるようで、暫しその選定に躊躇を。しかし、結局は順当に「虫除けスプレー」「かゆみ止め」「携帯用かゆみ止め」各1点を購入することに。
凸春日山館
岩付太田氏の家臣とされる春日氏の居館のひとつ。現在はニューシャトルの内宿の駅前となっているので、殆どといってよいほどにその面影はありません。堀跡の水路ぐらいは残されているかと微かな期待もあったのですが。地形的には多少微高地であったようにも思えますが、道路の新設や駅前の整備事業などにより以前の状態が全く掴めません。
そうした中、近くの浄土宗桂全寺に所在する春日氏の墓所に参詣できたことが数少ない収穫の一つに。
凸八幡谷遺跡
上越新幹線の高架建設により発掘が行われた結果、堀跡などの遺構が検出され中世城館の存在の可能性が明らかにされたという場所。
したがって、地表からそれと分かるような遺構を目にすることはできずじまいに。民家の北側に広がるやや鬱蒼とした屋敷林にかつての面影を辿るのみかと。
ところがそうした中で高架の北側の竹林の中に南北方向に延びる溝を発見。しかし実際の所では、雨水の流路のような自然地形か土地の境界の目印か、あるいはそれ以外の性格のものか分かりかねました。
凸北遺跡
こちらも同様に中世のものと思われる堀跡が検出された遺構。山林部分が比高差1.5mから2mほどの台地を形成しており、伊奈町の第1号の保存樹林に指定されていました。竹林の中に何か目ぼしいものが見つかるかと思い孟宗竹の生い茂った中を蜘蛛の巣を払い、薮蚊を退治しながら見学したものの当然成果はゼロ。北側の細い水路沿いの低地から見上げると、実にいい地形をしているのですが。
凸細田城
今も細田山という地名が残され、かつては城跡が存在したという伝承が存在するというだけの場所。水田からの比高差は最大で5mほどの台地。しかし現在は一部の梨畑を除いて細田山団地という住宅地に変貌。外周部分の道路の曲折した形状に何処となく歴史の名残を感じさせるものがあるような。
凸戸崎前遺跡
伊奈町の記念公園の北側の堀跡が検出された遺跡。現在は区画整理されており、遺構などが所在していた新しい道路が目立つ住宅地に。記憶容量の関係で本日はここまでのつもりが、これでは余りにも消化不良かと。時刻は午後3時を少しまわった所ということもあり、後日に予定していた伊奈城へ立寄ることに。
凸伊奈城(伊奈氏屋敷・小室陣屋)
周囲を水田や低湿地に囲まれた島状の広大な丘陵で、当時において細い水田の中の道を辿る以外に城跡に通じる道がなかったとすればこの自然地形はまさに天然の要害の地。代官頭伊奈氏が陣屋を定めるに当たり、当時ここに所在していたといわれている寺院を立ち退かせてさえもその陣屋を築いたという事情が現在の地形からさえも十分に理解可能な状況。
地図上では認識していたものの、実際の所在地と城跡とが頭の中で繋がらず。現地に赴き改めて新幹線の分岐点近くに所在していたことに驚きを。
埼玉県の指定史跡となっているものの、現地には十数戸の民家が点在。そうしたなか、文化財としての整備保護などについて十分な合意形成が図られていないと思われる掲示が城跡のあちこちに点在。このため詳細な事情の不明な部外者としては、やや緊張の訪城を余儀なくされることに。
したがって拝見する側としても、デジカメでの撮影を含めてできるだけ遠慮しながら遺構を遠くから眺めるという構図に。けれども土塁・空堀・小口などの遺構について十分に観察するには至らなかったものの、久しぶりに高さ5mを超えようかという土塁群を目の当たりにして本日最大にして唯一の成果となったという次第でありました。
伊奈城(または伊奈氏陣屋などとも)
畝堀が検出されたあたり
2006/06/05 撮影
本日の訪城はやや離れたところに所在する伊奈城を除いて、伊奈町記念公園の駐車場に車を止めて5ヶ所を徒歩にて反時計回りに回遊。このため、おそらく歩行距離は累計で軽く10kmを超えたあたりかと。路面の固さとも相俟って、秩父方面の山城以来久しぶりに長距離を歩いたため最後はよたよたに。ほとんど平地であるにもかかわらずつくづく足腰の衰えは隠せず...駐車違反の無いように心掛けるのもなかなか疲れるものかと。
先日自宅近所のドラックエースに赴いたところ、時節柄入り口の正面近くに虫刺よけ対策関係の品々が山積み状態に。お馴染みの「虫除けスプレー」「かゆみ止め」に始まり、「虫除けリング」「虫除けパッド」など数十種類はあるようで、暫しその選定に躊躇を。しかし、結局は順当に「虫除けスプレー」「かゆみ止め」「携帯用かゆみ止め」各1点を購入することに。
凸春日山館
岩付太田氏の家臣とされる春日氏の居館のひとつ。現在はニューシャトルの内宿の駅前となっているので、殆どといってよいほどにその面影はありません。堀跡の水路ぐらいは残されているかと微かな期待もあったのですが。地形的には多少微高地であったようにも思えますが、道路の新設や駅前の整備事業などにより以前の状態が全く掴めません。
そうした中、近くの浄土宗桂全寺に所在する春日氏の墓所に参詣できたことが数少ない収穫の一つに。
凸八幡谷遺跡
上越新幹線の高架建設により発掘が行われた結果、堀跡などの遺構が検出され中世城館の存在の可能性が明らかにされたという場所。
したがって、地表からそれと分かるような遺構を目にすることはできずじまいに。民家の北側に広がるやや鬱蒼とした屋敷林にかつての面影を辿るのみかと。
ところがそうした中で高架の北側の竹林の中に南北方向に延びる溝を発見。しかし実際の所では、雨水の流路のような自然地形か土地の境界の目印か、あるいはそれ以外の性格のものか分かりかねました。
凸北遺跡
こちらも同様に中世のものと思われる堀跡が検出された遺構。山林部分が比高差1.5mから2mほどの台地を形成しており、伊奈町の第1号の保存樹林に指定されていました。竹林の中に何か目ぼしいものが見つかるかと思い孟宗竹の生い茂った中を蜘蛛の巣を払い、薮蚊を退治しながら見学したものの当然成果はゼロ。北側の細い水路沿いの低地から見上げると、実にいい地形をしているのですが。
凸細田城
今も細田山という地名が残され、かつては城跡が存在したという伝承が存在するというだけの場所。水田からの比高差は最大で5mほどの台地。しかし現在は一部の梨畑を除いて細田山団地という住宅地に変貌。外周部分の道路の曲折した形状に何処となく歴史の名残を感じさせるものがあるような。
凸戸崎前遺跡
伊奈町の記念公園の北側の堀跡が検出された遺跡。現在は区画整理されており、遺構などが所在していた新しい道路が目立つ住宅地に。記憶容量の関係で本日はここまでのつもりが、これでは余りにも消化不良かと。時刻は午後3時を少しまわった所ということもあり、後日に予定していた伊奈城へ立寄ることに。
凸伊奈城(伊奈氏屋敷・小室陣屋)
周囲を水田や低湿地に囲まれた島状の広大な丘陵で、当時において細い水田の中の道を辿る以外に城跡に通じる道がなかったとすればこの自然地形はまさに天然の要害の地。代官頭伊奈氏が陣屋を定めるに当たり、当時ここに所在していたといわれている寺院を立ち退かせてさえもその陣屋を築いたという事情が現在の地形からさえも十分に理解可能な状況。
地図上では認識していたものの、実際の所在地と城跡とが頭の中で繋がらず。現地に赴き改めて新幹線の分岐点近くに所在していたことに驚きを。
埼玉県の指定史跡となっているものの、現地には十数戸の民家が点在。そうしたなか、文化財としての整備保護などについて十分な合意形成が図られていないと思われる掲示が城跡のあちこちに点在。このため詳細な事情の不明な部外者としては、やや緊張の訪城を余儀なくされることに。
したがって拝見する側としても、デジカメでの撮影を含めてできるだけ遠慮しながら遺構を遠くから眺めるという構図に。けれども土塁・空堀・小口などの遺構について十分に観察するには至らなかったものの、久しぶりに高さ5mを超えようかという土塁群を目の当たりにして本日最大にして唯一の成果となったという次第でありました。
伊奈城(または伊奈氏陣屋などとも)
畝堀が検出されたあたり
2006/06/05 撮影
本日の訪城はやや離れたところに所在する伊奈城を除いて、伊奈町記念公園の駐車場に車を止めて5ヶ所を徒歩にて反時計回りに回遊。このため、おそらく歩行距離は累計で軽く10kmを超えたあたりかと。路面の固さとも相俟って、秩父方面の山城以来久しぶりに長距離を歩いたため最後はよたよたに。ほとんど平地であるにもかかわらずつくづく足腰の衰えは隠せず...駐車違反の無いように心掛けるのもなかなか疲れるものかと。
菖蒲町の中世城館跡を探訪。
天気は時々薄日のさす曇り空。
途中弱い俄雨がポツポツ。
やや蒸暑く感じる無風。
凸鳩井氏館 午前11時50分~12時、午後13時15分~13時25分
最初に鳩井氏とかかわりのあると推定される正法院へ。
墓地にはざっと見た限りでは、年代の古い五輪塔・宝篋印塔は見当たらず。
さて現地の遺構は限りなく皆無。
北側のパチンコ屋の駐車場から萱間赤堀川の様子を撮影したのみ。
この付近の風景がもっとも館跡に相応しいような印象が。
しかし、この辺りは近世以降に治水や新田開発を目的として新たな用水路が建設されているので早速資料確認をしなくては。
毎度のことながら事前準備不足を露呈。
凸下萱間陣屋 正午~午後12時50分
菖蒲町の萱間小学校と工場の跡地が陣屋跡。
陣屋の外郭の形状と水路となった堀跡の一部が明確に残存。
一度工場敷地となりながらも外周道路の形状はそのまま。
外郭形状が掲載された資料を睨みながら周囲を一周半。
足取りも軽くまさに至福の時間。
小学校の南側には現地解説板も設置。
現在埼玉県住宅供給公社が所有との立て看板。
開発後、外郭形状は消滅必死であることが残念の極み。
帰路、陣屋跡南側の内藤氏菩提寺である善宗寺へ。
領民の建立した高さ3mほどの宝篋印塔を始めとして内藤氏一族の墓石22基を確認。
地盤の関係からか一部傾きかけた宝篋印塔も所在。
近年、墓参が途絶えているような印象が。
凸小林氏館 午後13時~13時10分
館跡としての確証は全くなし。
単に「新編武蔵風土記稿」に記された妙福寺過去帳の記述が唯一の手掛り。
当然ながら遺構も不在。
ここでも同様に五輪塔・宝篋印塔などを探したものの見当たらず。
凸菖蒲城 午後13時20分~14時15分
予想通りまさに水田のど真ん中の城趾。
高齢者事業団のお年寄りの方々が石碑の周辺を整備中。
このため資材・機材が点在。
写真の撮りようが...それでも何とか角度を変えたりして。
城主とされる金田氏の墓石などが所在する永昌寺へ。
後裔の方の墓所は何とか見つけたものの、古い墓石などは見当たらず。
今回はネコには遭遇せず、その代わりにチャボが境内をウロウロ。
永昌寺の帰路再び菖蒲城へ。
雨がポツポツ落ちてきたので、作業中止を期待...
しかし、今度は「軽トラ」が石碑の前に来て作業は本格化の一途...
凸菖蒲陣屋 午後14時30分~15時
ここも周囲は水田地帯。
長福寺の周辺が陣屋跡の模様。
北西側に堀跡乃至は用水路が所在。
堀跡を用水路として活用しているようにも。
周辺の道路の形状は明らかに堀跡の印象が色濃く残存。
道路の形状からは二重堀の予感が。
しかし、陣屋の主が今のところ全く不明。
凸萱間氏館 午後15時15分~15時30分
曹洞宗幸福寺が館跡。
元荒川北岸の河岸段丘上に位置し、今回の訪城の中で唯一台地に所在。
古い山門付近では比高5mほどを測る。
遺構は不在。
しかし、周囲が平坦な低地のため思いのほか眺望が優れる模様。
寺院の防犯センサーが作動して、やや懲りたこともあり遥か遠方から参拝。
さて、防犯センサーにも色々なバリエーションが。
ご詠歌の流れるタイプ、照明がついて梵鐘が聞こえるタイプ、ご本尊を拝むため扉を開けるとアラームが作動するタイプ、そして今回は人を感知しただけでアラームが作動するタイプ...人間不信もここまで来るとかなり深刻な社会状況。
しかし、本堂に参詣しようとすると甲高い電子音が響き渡る仕組みの場合心臓の弱い方にとっては一命に関わりかねないような危惧も。
「紫蘭」(シラン)
ラン科シラン属の多年草。
寒暖の気候の変動に強く別名をベニランとも。
花期は5月でそろそろ花の終わりかと。
花の名を聞かれたときの「駄洒落のネタ」にはなりそうですが。
菖蒲城近くの永昌寺山門前にて撮影。
往路は国道17号の坂田交差点で渋滞。
恒常的な渋滞らしく愛用の「でか字」の道路地図にも明記。
このため帰路は迂回して北本経由で帰還。
お蔭でこの辺りの道路事情にもそこそこ精通。
天気は時々薄日のさす曇り空。
途中弱い俄雨がポツポツ。
やや蒸暑く感じる無風。
凸鳩井氏館 午前11時50分~12時、午後13時15分~13時25分
最初に鳩井氏とかかわりのあると推定される正法院へ。
墓地にはざっと見た限りでは、年代の古い五輪塔・宝篋印塔は見当たらず。
さて現地の遺構は限りなく皆無。
北側のパチンコ屋の駐車場から萱間赤堀川の様子を撮影したのみ。
この付近の風景がもっとも館跡に相応しいような印象が。
しかし、この辺りは近世以降に治水や新田開発を目的として新たな用水路が建設されているので早速資料確認をしなくては。
毎度のことながら事前準備不足を露呈。
凸下萱間陣屋 正午~午後12時50分
菖蒲町の萱間小学校と工場の跡地が陣屋跡。
陣屋の外郭の形状と水路となった堀跡の一部が明確に残存。
一度工場敷地となりながらも外周道路の形状はそのまま。
外郭形状が掲載された資料を睨みながら周囲を一周半。
足取りも軽くまさに至福の時間。
小学校の南側には現地解説板も設置。
現在埼玉県住宅供給公社が所有との立て看板。
開発後、外郭形状は消滅必死であることが残念の極み。
帰路、陣屋跡南側の内藤氏菩提寺である善宗寺へ。
領民の建立した高さ3mほどの宝篋印塔を始めとして内藤氏一族の墓石22基を確認。
地盤の関係からか一部傾きかけた宝篋印塔も所在。
近年、墓参が途絶えているような印象が。
凸小林氏館 午後13時~13時10分
館跡としての確証は全くなし。
単に「新編武蔵風土記稿」に記された妙福寺過去帳の記述が唯一の手掛り。
当然ながら遺構も不在。
ここでも同様に五輪塔・宝篋印塔などを探したものの見当たらず。
凸菖蒲城 午後13時20分~14時15分
予想通りまさに水田のど真ん中の城趾。
高齢者事業団のお年寄りの方々が石碑の周辺を整備中。
このため資材・機材が点在。
写真の撮りようが...それでも何とか角度を変えたりして。
城主とされる金田氏の墓石などが所在する永昌寺へ。
後裔の方の墓所は何とか見つけたものの、古い墓石などは見当たらず。
今回はネコには遭遇せず、その代わりにチャボが境内をウロウロ。
永昌寺の帰路再び菖蒲城へ。
雨がポツポツ落ちてきたので、作業中止を期待...
しかし、今度は「軽トラ」が石碑の前に来て作業は本格化の一途...
凸菖蒲陣屋 午後14時30分~15時
ここも周囲は水田地帯。
長福寺の周辺が陣屋跡の模様。
北西側に堀跡乃至は用水路が所在。
堀跡を用水路として活用しているようにも。
周辺の道路の形状は明らかに堀跡の印象が色濃く残存。
道路の形状からは二重堀の予感が。
しかし、陣屋の主が今のところ全く不明。
凸萱間氏館 午後15時15分~15時30分
曹洞宗幸福寺が館跡。
元荒川北岸の河岸段丘上に位置し、今回の訪城の中で唯一台地に所在。
古い山門付近では比高5mほどを測る。
遺構は不在。
しかし、周囲が平坦な低地のため思いのほか眺望が優れる模様。
寺院の防犯センサーが作動して、やや懲りたこともあり遥か遠方から参拝。
さて、防犯センサーにも色々なバリエーションが。
ご詠歌の流れるタイプ、照明がついて梵鐘が聞こえるタイプ、ご本尊を拝むため扉を開けるとアラームが作動するタイプ、そして今回は人を感知しただけでアラームが作動するタイプ...人間不信もここまで来るとかなり深刻な社会状況。
しかし、本堂に参詣しようとすると甲高い電子音が響き渡る仕組みの場合心臓の弱い方にとっては一命に関わりかねないような危惧も。
「紫蘭」(シラン)
ラン科シラン属の多年草。
寒暖の気候の変動に強く別名をベニランとも。
花期は5月でそろそろ花の終わりかと。
花の名を聞かれたときの「駄洒落のネタ」にはなりそうですが。
菖蒲城近くの永昌寺山門前にて撮影。
往路は国道17号の坂田交差点で渋滞。
恒常的な渋滞らしく愛用の「でか字」の道路地図にも明記。
このため帰路は迂回して北本経由で帰還。
お蔭でこの辺りの道路事情にもそこそこ精通。
土曜日に予定していた日高市方面へ。
凸女影ヶ原古戦場
予め霞野神社の辺りかと見当を。
神社はメンテナンスのため社殿の扉が半分空いた状態。
浄財38円で、いつもどおり世界平和と家内安全を祈願。
運転中に僅かな腰痛の予兆を思い出す。
慌てて無病息災も追加。
神社の境内自体も自然地形などとの区別が難しいものの中世的雰囲気が。
古戦場の石碑が直ぐには見つからず、ほんの少しだけウロウロ。
道路沿いとはいえ鬱蒼とした林なのでひたすら陰気な画像に。
凸女影氏館
遺構の規模としては小規模なものの、「日高市史」掲載のほぼ30年前の調査資料どおりの土塁・空堀の遺構に対面できて感激。
人家が近いことから、既に消滅したものと誤解していたので嬉しさ倍増。
二重の水路は水堀の役割を果たし、水田と深田の間に浮かぶ半島のような景観かと。
唯一の弱点である南西側の尾根側には、堀切などが備えられたのかも知れない。
遺構の時代背景は、折のある形態から考えて戦国期のものと推定するのが無難な模様。
内堀に沿ってぐるっと反時計回りに一周。
途中、高さ10mの巨大な産廃の山に遭遇しテンション低下。
凸三枝氏屋敷と長松寺
三枝氏菩提寺の長松寺にて三枝氏一族の墓を墓参。
そのあと、目星をつけておいた三枝氏屋敷へ。
こま川団地近くの高根中学校のすぐ裏側。
とはいえ天候の影響もあり、周囲の空気がやけに重たく...
浄財と墓参の効用は如何...
凸愛宕山の旗塚
一転して、人気の多いこま川団地の丘陵地帯最高地点へ。
現在は団地の中の道路の一部に。
しかし、付近には少し驚くほどの急な坂道が所在。
まさに新田義貞が旗幟を立させたという伝承に相応しい地形。
凸中鹿山の陣屋
カーブを描いた長さ60mから70m、高さ2mから3mの大規模な土塁と空堀跡が所在。
現在北側で宅地造成進行中。
今後予想される住宅の建設により、以後この遺構を目にすることは事実上不可能に。
周辺の道路形状から推定する限り、館跡の規模は更にひとまわり大きかったようにも。
凸内村屋敷
「日高市史」によれぱ、下鹿山の諏訪神社境内が屋敷跡とのこと。
石鳥居と古い祠のみの小さな神社。
何故か本殿に園芸用ネットがすっぽり。
祠の左側の踏み跡を進むと何やら遺構の趣が。
まず、高さ60cmの土塁風の連続した土の高まりを確認。
これに並行して幅約5m、深さ1m前後、長さ30m以上の堀跡風の規模の大きな溝も。
時代背景は不祥なもののそれほど新しいものとは思われず。
ほんのついでに寄ったにしては予想外の成果が。
テンション再び上向きに。
以上館・屋敷跡4ヶ所+古戦場関係2ヶ所を探訪。
この時点で雨が降らないことは経験的に明確。
しかし城館関係も目標の4ヶ所をクリアしたものの、全く晴れ間が出ないやや重苦しい曇天。
湿度がとても高く空気が重たく感じてきたので記憶力の限界も考慮して退城決定。
帰宅途上になりやっと青空が広がり始め、涼風とともに湿度も低下して爽やかな陽気に...
凸女影ヶ原古戦場
予め霞野神社の辺りかと見当を。
神社はメンテナンスのため社殿の扉が半分空いた状態。
浄財38円で、いつもどおり世界平和と家内安全を祈願。
運転中に僅かな腰痛の予兆を思い出す。
慌てて無病息災も追加。
神社の境内自体も自然地形などとの区別が難しいものの中世的雰囲気が。
古戦場の石碑が直ぐには見つからず、ほんの少しだけウロウロ。
道路沿いとはいえ鬱蒼とした林なのでひたすら陰気な画像に。
凸女影氏館
遺構の規模としては小規模なものの、「日高市史」掲載のほぼ30年前の調査資料どおりの土塁・空堀の遺構に対面できて感激。
人家が近いことから、既に消滅したものと誤解していたので嬉しさ倍増。
二重の水路は水堀の役割を果たし、水田と深田の間に浮かぶ半島のような景観かと。
唯一の弱点である南西側の尾根側には、堀切などが備えられたのかも知れない。
遺構の時代背景は、折のある形態から考えて戦国期のものと推定するのが無難な模様。
内堀に沿ってぐるっと反時計回りに一周。
途中、高さ10mの巨大な産廃の山に遭遇しテンション低下。
凸三枝氏屋敷と長松寺
三枝氏菩提寺の長松寺にて三枝氏一族の墓を墓参。
そのあと、目星をつけておいた三枝氏屋敷へ。
こま川団地近くの高根中学校のすぐ裏側。
とはいえ天候の影響もあり、周囲の空気がやけに重たく...
浄財と墓参の効用は如何...
凸愛宕山の旗塚
一転して、人気の多いこま川団地の丘陵地帯最高地点へ。
現在は団地の中の道路の一部に。
しかし、付近には少し驚くほどの急な坂道が所在。
まさに新田義貞が旗幟を立させたという伝承に相応しい地形。
凸中鹿山の陣屋
カーブを描いた長さ60mから70m、高さ2mから3mの大規模な土塁と空堀跡が所在。
現在北側で宅地造成進行中。
今後予想される住宅の建設により、以後この遺構を目にすることは事実上不可能に。
周辺の道路形状から推定する限り、館跡の規模は更にひとまわり大きかったようにも。
凸内村屋敷
「日高市史」によれぱ、下鹿山の諏訪神社境内が屋敷跡とのこと。
石鳥居と古い祠のみの小さな神社。
何故か本殿に園芸用ネットがすっぽり。
祠の左側の踏み跡を進むと何やら遺構の趣が。
まず、高さ60cmの土塁風の連続した土の高まりを確認。
これに並行して幅約5m、深さ1m前後、長さ30m以上の堀跡風の規模の大きな溝も。
時代背景は不祥なもののそれほど新しいものとは思われず。
ほんのついでに寄ったにしては予想外の成果が。
テンション再び上向きに。
以上館・屋敷跡4ヶ所+古戦場関係2ヶ所を探訪。
この時点で雨が降らないことは経験的に明確。
しかし城館関係も目標の4ヶ所をクリアしたものの、全く晴れ間が出ないやや重苦しい曇天。
湿度がとても高く空気が重たく感じてきたので記憶力の限界も考慮して退城決定。
帰宅途上になりやっと青空が広がり始め、涼風とともに湿度も低下して爽やかな陽気に...