本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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午前中は所用のため用件が済んだのは11時過ぎ。
訪城の用意はしておいたので、そのまま川島町の田んぼの蛙に会いに行きました。

老袋城(川越市)午前11時40分から午後1時まで

先週訪れたばかりですが、北側の氷川神社の辺りしか探索していなかったので、今回は南側の消防団の小屋・集会所・墓地(天台宗玉泉寺跡)などの所在する南側から主に川越運動公園の東側を中心にじっくりと1時間以上歩き回ることに。

実際に歩き回ってみると、自然堤防の形成した微高地とそれ以外の低地部分の比高差を含む地形の違いがより明確になりました。
「城館址探訪記」さんの情報によれば、玉泉寺跡周辺が城館跡との伝承があるようです。
確かに全体としてかなり広範囲な微高地を形成していますので、当所想定していた1kmほど北側に所在する氷川神社の辺りよりも、かなりそうした可能性が高そうな印象でした。

実は前回もこの場所に車を停めてそれなりに辺りの様子を窺っていたのですが、地形状の痕跡が見出せないために、そのまま氷川神社の方に向かってしまったという経緯がありました。
「新編武蔵風土記稿」において村の南西に所在する旨が記されていることとも符合しています。

さて、墓地の近くのお地蔵さんの写真などを撮影している最中に、地元の年配の方少しだけお話を伺うことができました。
それによれば以前はこの一帯は度重なる入間川などの氾濫により常に水害の被害を受けていたとのこと。
最近堤防を2mほど嵩上げするなどの治水対策が整備されてからは、水害の心配は無くなったとの事。(尤も最近といっても昭和27年頃の話でしたが)
道理で現在でもある程度古い民家は道路より1.5m前後の嵩上げ造成をしているのが目立つわけです。
現状の地形からでは具体的な所在地の特定ができなかったものの、地元の方から色々と参考になる情報を得ることができたことが大きな収穫でした。

しかし、農薬などの影響かどうかは定かではありませんが、肝心の田んぼの蛙とは逢えず仕舞いに。


道祖土氏館(川島町)午後1時50分から2時30分まで

「道祖土家文書」の所有者のお宅で、約150mほど先の宅地へと至る一本道の県道沿いに「道祖土家文書の文化財の標柱」が設置されていました。
埼玉の中世城館跡などでは城館跡としては収録されていませんが、多数の戦国期の古文書を所蔵されていた旧家なので、地形的に何かそれらしい痕跡は絶対にありそうだとの確信のもとに訪問を。
こちらでもたまたま庭掃除をされていた年配のご婦人に少しだけお話を伺うことができ、「大分以前には構堀が屋敷の四方を取巻いていた」というような事情なども判明しました。

さて肝心の遺構については、東側に所在する善福寺との境に草木に隠れてやや確認しづらい状況もありますが、延長約100m、幅3mから5m、深さ1m以上の一部水を湛えた堀が明確に存在し、屋敷の北東部で直角に曲がって屋敷の西側へと続いていました。
勿論近世以降の用水路などとの関係もあるかもしれないので、あくまでも時代背景などについては断定などはできませんが、一定の歴史的な屋敷の構堀の一部であることはほぼ間違い無いように思われました。
ことによると、南北の用水路などと併せて二重堀のような景観を呈していたのかもなどと、勝手な想像が広がる予想外の見事な堀跡なのでありました。

なお、近くの用水路には今年オタマジャクシからかえったばかりのトノサマガエルがうじゃうじゃと百匹以上棲息中。
何を隠そう自分は40年以上も前の子ども時代には、トノサマガエルを4年間近く金魚の水槽で飼育していたこともある大の蛙好き。
とはいうものの、まさかこの歳で用水路に入り込んで蛙と戯れるわけにも行かず、まずはこれ幸いと蛙の写真撮影に専念。
しかし傍目にはいい年をした人間が、ただひたすら田んぼのトノサマガエルの姿を連写しているというのは相当に不気味な光景かと。


小見野氏館(川島町)午後14時40分から15時10分まで

周囲を用水路で囲まれた市野川が大きく蛇行する右岸の自然堤防の微高地が館跡と推定されており、現在では真言宗の明光山法鈴寺が所在しています。
寺院の方は現在はおそらくは無住の様子で、湧水を利用した大きな池も干上がり、かつては涼しげな光景を呈したと思われる周囲の竹林はものの見事に伐採され殺風景を通り越して侘しさが漂っていました。
遺構らしい存在は強いていえば周辺の用水路あたりかと思われます。
かつての竹林との間の溝は多分張出してくる竹の根切りと雨水排水のためのもののようです。
北側には造成の盛り土が施されているようで地形が大分改変されている印象でした。

さて、水が枯れかかり最早水溜りと化しているどろりとした池の底をじっと観察していると、保護色で見分けがつきにくいものの数匹のトノサマガエルが棲息しているのを発見。
ここでも暫し蛙たちの様子を観察しつつデジカメ撮影を敢行。


日没までの時間には未だ十分な余裕があるものの、諸般の事情により午後4時ごろまでには帰宅していたほうが良さそうな家庭環境が介在。
夕方からの天候も気になっていたこともあり、蛙たちと別れを告げて直ちに撤収を開始。
本日の訪城は心ゆくまで晩夏の草花を撮影し、久しぶりに蛙たちの生態をじっくりと観察し、果たして一体何をしにいったのか分からないような城跡めぐりなのでありました。


道祖土氏館付近のトノサマガエル
2006/08/28 撮影 曇り

拍手[2回]

持病の処方薬がなくなりかけ始めたのでとりあえず病院へ。
診察後、処方箋を受け取り調剤薬局へ。
この時点で時刻は未だ午前11時を少し過ぎたところ。

さて現在服用している薬剤の大半は眠気を催す副作用が。
加えて喘息気味の症状も出始めていることから、資料・準備不足は否めないものの、比較的自宅から近い距離にある比企郡川島町方面の城館跡へ。

老袋城(川越市)午前11時40分~12時00分
既にこのあたりを数回ほど往復しているにも拘らず、その推定地が川島方面への近道の道路沿いに所在していることを最近になって気がつき立寄ることに。
地図上の情報からでは周辺には入間川右岸の水田地帯が広がる中に旧来の集落が点在し、次第に宅地化が進行しているという様子。
このため今まで何度か目にしている地域ですが、かつての面影は全く存在しないとばかり思っていました。
しかし、推定地の北側部分に相当する氷川神社の付近は元来の自然堤防の微高地に明らかに人工的な造成の跡が遺されており、水田面との最大比高差は目測で3mほどを測ります。
ただしこの低い台地上の地形が近世や近代になってから人工的に形成された可能性もあり、西側の水路の存在を含めてその時代背景や経緯については何ともいえない印象でした。


伊奈備前守陣屋(川島町)午後12時05分~12時15分
川島町の出丸小学校付近が伊奈氏の陣屋跡の伝承地のようですが、その裏づけとなる資料はあまり明確ではないようです。
従って堀跡などの関連遺構も耕地の整理や学校建設に伴う造成工事により、もとより確認することは叶いませんでした。
この地域には出丸、中丸、上屋敷、下屋敷など城館に関連しそうな地名があちこちに所在しているという状況にも拘らず、具体的な歴史との関わりを示すような資料は見当たらないようで、これもまた実に不可思議な印象でした。


太田道灌陣屋(川島町)午後12時20分~13時00分
臨済宗養竹院がその陣屋跡とされていて、陣屋跡であることを示す石碑も山門脇に所在。
「新編武蔵風土記稿」の記述によればこの寺の創建自体が太田道灌の供養のために建立されたとの寺伝が記されています。
道灌が一時にせよその陣屋を置いたとすれば、古河公方や長尾景春の勢力に対して攻勢をかけるためのものと推定されます。
周辺は大規模な水田地帯のため構成の用水路などとの関連もあるので、実際に当時の堀跡に関係するものかどうかは判然としません。
しかし、内堀に相当するような幅2間から3間深さ約1mほどの堀跡の一部が境内の南側(約30mの水堀)と西側(約50m以上の空堀)に遺されていたことは意外な収穫でした。
また境内の北側部分にも堀跡状の水路が東西方向に続いていました。

太田道灌陣屋付近の畑に咲いていたゴマの花
「ゴマの花」川島町にて
2006/08/21 撮影
「ゴマの花」の植物図鑑へ

美尾屋十郎広徳館(川島町)午後13時15分~13時35分
鎌倉期の遺構とされ現在は真言宗広徳寺の境内に。
ここには中世城館跡と云うよりも、国の重要文化財に指定されている室町時代の「大御堂」という建築物の方が有名。
それでも寺の参道脇には美尾屋十郎広徳館の古絵図を書き写したものが設置されており、訪れるものにとってはたいへんありがたい配慮。
さて堀跡が遺されているとの情報があるものの、西側や北側の比較的規模の大きな用水路を指すのか南側の細い水路を指すのかが分からず暫し困惑。
しかし、昨今はかなり厚さに弱い体質となり体力・体調は次第に限界点に接近。
頭がボーッとして呼吸も少しずつ乱れ始め、気分も優れない感じになってきてしまい、それこそ熱中症を発症しては元も子もないので当所の予定通り即刻退却開始。


4ヶ所をまわり終えた時点で時間だけは十分に余裕が。
川島町の広々とした何処までも続く水田地帯の光景を眺めて、心も体もリフレッシュすることも今回の訪城の目的の一つ。

最後に車を木陰を探して駐車しておいたのは大正解。
炎天下に駐車したときの車内の気温は摂氏70度を軽くオーバー。
木陰に駐車したときには45度程度にダウン。
自分の体調とこの暑さを踏まえた現状から考えると、所要時間で片道1時間以内での訪城が目安のようです。

拍手[0回]

川越から上尾経由で蓮田市南部の城館跡へ。
当所の予想通り国道17号線の手前でものの見事に1kmを超える渋滞に嵌り、最初の目的地まで2時間近くを要することに。
もっとも渋滞を避けるべく何時ものように国道254線で川島・北本・桶川方面から迂回したとしても、入間川の橋を渡り終えるまでの渋滞が予想されたので今回のルートが最短コースの筈かと。

本日は昨晩の睡眠不足から自宅を出る前から喉の閉塞感があり、この時点ですでに体調不良気味。
しかしこのままでは体力は低下する一方なので、やや強引に訪城へ。
往路の車中では何時もの通り軽い呼吸障害を発症。
もちろん運転中なので副作用のある処方されている薬剤の服用は避けて、メントール系の喉飴で何とか誤魔化すことに。
逆の見方をすれば、この程度の症状のコントロールには自信が。
6月下旬頃には杖が無いと足元が覚束なく、一時は長期の療養と車椅子を覚悟していた状況から思えば体調としては雲泥の差。

桑原堀の内(蓮田市)午前11時20分~11時35分

綾瀬川東岸の島状の大宮台地の南部地域に所在。
水田面との比高差は1.5mから2mで、場所によっては3mを超える個所も。
人工的な堀跡や土塁跡などの遺構の存在は自体は確認できないものの、自然地形の台地の存在は中世城館の形跡を髣髴とさせる風情が感じられます。
なお、北側の公道の急カーブはかつての堀跡の名残のようにも見えなくも無いような印象が。

自宅を出る前の虫除けスプレーが不足していたせいか左手を中心に6か所ほど薮蚊の餌食に。
かといって、「じん麻疹」気味のため余り吹き付けすぎるのも如何かと。
でも、薮蚊に刺されると余計「じん麻疹」が酷くなりそうで、そのあたりのバランスが難しく...携行している痒み止めで対処。
ここでも、残念なことに近くの北側の水田跡には高さ6mほどの産廃の山が横たわり恰も壮大な土塁跡のような地形を形成。


辻谷堀の内(蓮田市)午前11時45分~12時15分

はじめに通称「寅子石」と呼ばれる高さ4mの延慶年間の板碑を見学。
畑の中の墓地に所在しているので全く迷わずに直行。
長瀞町の仲山城の近くの5mを越える応安の板碑に比べれば幾分小さいものの、周辺が全くの平坦地なので目立つことこの上なし。
正面からよく観察すると幾分右側に傾いている印象が。
しかし「南無阿弥陀仏」の6文字の彫の深さと豪快さを感じさせる字体にはなかなかの見ごたえが。

さて、肝心の遺構はというと事前に所在地そのものがやや曖昧。
およその見当をつけて板碑の西側400m付近に所在する民家の屋敷林の北側になにやらそれらしい気配が。
該当個所に近づくに従い次第に期待が。
現状では幅2間から3間、深さ約1mの規模のものが北側で30mほど、西側で20mほどが鍵の手状に確認できます。
しかし、その時代背景については明確ではないようですが、屋敷の北側から西側を囲む水堀であることは間違いがないようです。
ただ付近は水田に伴う用水路がけっして少なくは無いので、中世城館に関係するものと断定するには資料的な裏づけが不足しているようにも思われその判断に迷いました。


さて、過日の浴室の転倒事故によるムチ打ち症状は概ね改善されたものの、未だ従来からの「軽い脳梗塞の後遺症」(慢性的な左半身の痺れ)「過換気」(自律神経の不調による呼吸障害と手足の痺れ)「アレルギー性の喘息」(最長で半年間咳が続く)「帯状疱疹」(珍しいことに時々再発)「偏頭痛」(春と秋の低気圧の影響)のラインナップに新たに「じん麻疹」(ストレスが原因か)も加わり、四肢には常に軽い痺れが付きまとい、暫し体の複数個所に猛烈な痒みも発症中。
 そういえば以前からの「高脂血症」と「大腸のポリープ」の課題も未解決...なとど思案しているうち、天気予報とは異なり巨大な雷雲が発生。このため本日の訪城は予定通り以上の2ヶ所にて撤収。(病気のデパ地下と化しつつあるので、こうして時々確認しておかないと自分でも分からなくなるのであります)

なお本日はこの後、線香の煙が苦手なものの家内の親類宅へお盆のご挨拶へ。
懸念された喘息の発作は発症せず一安心。

ねこさんには逃げられましたので
ネコの顔をしたスズメ除け
2006/08/14 撮影 蓮田市の水田にて

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国道254線沿いの建設会社の敷地に所在している北条氏邦の馬上姿。
しかし何処となく威厳に欠け、馬の表情も明らかに笑を誘うのでありました。
その都度リフォームされているようですが、記憶によれば彼此30年以上になるように思われます。(明らかにネタ切れか...笑)


北条氏邦乗馬像
2005/05/07 撮影

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江ヶ崎城のコスモス
「江ヶ崎城」の秋桜の花
2006/07/31 撮影 晴れ

1ヶ月以上も体調を崩してしまったことと梅雨時でもあったため、6月19日以来の事実上今月初めての訪城を敢行。
この1月以上の間は、運転時間はせいぜい片道40分が限界という情けない状況。
しかし、合計4時間近いと思われた運転自体は目出度く何とかクリア。

凸閏戸吹上遺跡 11時30分~正午
 老人保健施設の建物建設に伴い堀跡と井戸跡などが発掘により確認された中世城館跡とのことのようで、「埼玉の中世城館跡」などにも掲載されていません。
不勉強のためそれ以上の詳細な情報は入手していません。
この場所も東北新幹線の高架橋から僅か150メートルも離れていない見沼代用水が直ぐ西側を流れる綾瀬川の低地をのぞむ台地の西端に所在しています。
現在の台地と水田面との比高差は最大で5mほど。
施設の南側に続く平地林の中が気になり、至る所に張り巡らされた蜘蛛の巣をかき分けて人工的な地形の有無を確認しようとしたものの特にこれといった成果は得られず仕舞いに。
この付近は古墳時代中期の住居跡も検出された複合遺跡らしく、確かに西側に広がる低地の見晴らしは頗る良さそうでした。


凸馬場堀ノ内 12時15分~12時35分
 蓮田市立黒浜小学校の南側の谷津を挟んだ対岸に所在すると思われる城館跡。
別名を野口氏館、新井堀の内などとも呼ばれているようです。
近くのファミリーマートで「午後の紅茶レモンティー500ml」と「ジューシーハムサンド」を購入。
徒歩にて黒浜小学校の南側の細い公道を西へと向かい、途中舗装道路と別れを告げて低地へと下る細道にすすんで行きました。
すると目の前にいかにもそれらしい約比高5mほどの差鬱蒼とした平地林の台地が出現。
さらに堀跡かどうかは全く定かではありませんが規模の大きな水路跡も台地の右手に現存。
これで土塁跡の痕跡でも確認できれば喜び倍増なのですが、残念ながらそれほどものごとは都合よく展開するには至らず。
台地手前の近年のものと思われる盛り土が気になるものの中世初期頃の館跡の立地条件には相応しい環境を備えているようでした。


凸江ヶ崎城 12時45分~13時50分
 城趾近くのセブンイレブンで「濃い目の伊右衛門500ml」とツマミを購入。
駐車した場所の近くには「江ヶ崎城」の看板と立派な石碑が所在。埼玉県知事に就任する以前の参議院議長だった某政治家の揮毫によるもののようでした。
上部には蔦がかなり絡んでいたので、流石にこれでは一見何の石碑か分からない状態。
そっと石碑に絡み付いている数本の蔦を取り除かせていただくことに。
城跡の外郭部のそのまた外側の道を時計回りに一周して、東側の水田地帯の低地部分からその遠景を撮影。
北側の造園業を営んでいると思われるお宅の道路沿いに見方によっては土塁跡のようにも見えなくもない地形が所在。
流石に撮影するのは憚られましたが、脇の方から拝見すると竹林の中に平行して堀跡状の溝のような地形も見え隠れ。
外郭部分の遺構にしてはやや北側に寄りすぎているので、近世の名主階層の屋敷の構堀のように年代的には新しいものである可能性もあるような。
地形的には比高差は3mに満たないものの北側と東側に低地が広がり、南側には用水路が流れるという半ば独立した大宮台地の一部となっていました


体調は概ね回復しているものの体力自体が相当低下していることが予想されたので、訪城した城館数も3ヶ所に抑えて炎天下とはいうものの合計の歩行距離は僅かに5km足らず。
それにも拘らず、最後の方はやや歩き方も覚束なく息も絶え絶えに(^^;
この後、近くの久伊豆神社に出向く予定でしたが、後日のことを考えて断念を。
暑さには特に弱い性質、当面は一日当たりの訪城数をできるだけセーブしながら、気長に体力の回復を目指さなくてはと感じた「城館めぐりの復活」なのでありました。

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