本来は中世城館跡めぐりがテーマのはずでありました。もっとも最近は加齢と共に持病が蔓延し本業が停滞傾向に...このためもっぱらドジなHP編集、道端の植物、食べ物、娘が養育を放棄した2匹のネコ(※2019年11月末に天国へ)などの話題に終始しております (2009/05/21 説明文更新)
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空堀が存在していたとの伝承のある辺りはどう見ても、高根カントリークラブというゴルフ場のど真ん中に所在している模様。
このためその接近に際しては、いずれにしても公道沿いには立ち入り禁止とあちこちにこれでもかと目立つように表示された見通しの良いグリーンに進入せねば辿り着かないという障害が。
このためあからさまな不法侵入を避けるべく、結局はゴルフ所の林の影から何気なく辺りの様子を窺がい、木立の間から速やかに望遠レンズモードにて「山城沼」付近を撮影。
しかし撮影された画像を確認した限りでは、どう見てもゴルフ場の中によくあるようなごく普通の池にしか見えず。

この程度で諦めてはならじと、北側から500m以上大きく迂回。
南側の沼の脇道から接近しようと試みたものの、道は途中から次第に消失。
加えて下を良く見て歩かないと、そのまま沼へと転落する恐れもあるような細々とした踏み跡が200mほど延々と。
途中には、道幅30cmもなく沼側に向かってオーバーハングして崩落している個所さえあるような心許ない難路...(冷汗)

実は昨日から1年ほど前にあつらえた遠近両用の眼鏡の具合が、とうとう老眼の進行度合いに適合し始めてしまった次第。
このため、この眼鏡を装着しての長い歩行行動は今回全くのが初めて。
遠くはそこそこ良く見えるものの、足元の距離感がつかめないという難点があることから、以前にはほとんど使用を差し控えていたという事情も。
水際の浅瀬が見える場所もあれば、背丈が届くかどうか不明な深さの個所もあり、こうした諸般の状況を総合しその危険性を推し量るならば、自分自身にとっては明らかに危険な場所かと。

さて、漸く何とか山城沼の堤の間近まで接近したものの、予期した通りやはり最終的にはゴルフ場の見通しの良い個所を通行しなくてはならず、不法侵入を試みることなく潅漑用の沼地に映る極めて曖昧なゴルフ場内の「伝承推定地」付近の丘陵を撮影したのち、すごすごと退却した次第なのでありました。

伝「山城沼砦」付近
伝「山城沼砦」付近
2006/09/17 撮影

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明日から仕事が再開。
3連休は年末年始以来かと。
月曜日はともかく昨日今日とのんびりしすぎて、心身ともにリラックス。

閑話休題。

川島町の「中山陣屋」(近世の秋元氏のもの)は現在の中山小学校に所在したとされています。
正門の立派な石碑とは別に、右手の校庭沿いの路地を少し進んでいくと、校庭の端の道路沿いに戦没者の忠魂碑と並んで下記の画像のような標柱がひっそりと立てられていました。
標柱もここまで風雨に晒されて劣化すると「文化財」の仲間入りができそうです。
多分文字数から推定させていただくと、恐らくは「秋元陣屋跡」と記されているのではないかと拝察いたします。

さて、深谷上杉氏の重臣に過ぎなかった秋元氏は主家の滅亡にも拘らず、家康の関東入府後に徳川氏に仕えて、その後は川越藩主、老中などの重職を担い、館林6万3千石の藩主として幕末まで存続します。
もうひとつの「功名ヶ辻」という感もあります。


文化財的な標柱
中山陣屋(秋元氏陣屋)
2006/09/04 撮影

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今月の4日以来の訪城。
前回の訪城は、始めから夏バテなどで体調不良。
実のところ、今回はどのくらい動けるのか確認することも訪城目的の一つでありました。

また、ここ暫くの間、ついつい平地の城館跡ばかりを彷徨していたために平山城の夏草対策を完全に失念。
9月とはいえ、地理的には比企丘陵に属するこの地域は、まだまだ夏草の繁茂は想像以上で、周囲との比高差20m程度でもけっして侮れないということを思い知る結果に。

城原城(比企郡滑川町)比高差約20m弱 午前11時05分~11時50分

登口が分からず、山田下集会所の所在する北西側付近の切岸のような斜面から草木に掴まりながら直登を敢行。
山田城の南東約500mほどの位置にほぼ独立した丘陵を形成し、東側には東松山カントリークラブのゴルフ場が沼池を挟んで隣接。
また、北東約600mには成田氏の家臣で南族23騎に登場する、この辺りの在地領主階層とされる贄田氏の墓所が所在する谷城も指呼の間。
戦国時代の遺構とされる山田城、谷城などとの位置関係を想定すると贄田氏、小高氏などの在地勢力との関わりが考えられますが、城館跡に関する伝承さえもそれほど明確なものではないようです。

しかし、この付近の中世城館の立地条件としては申し分ないようです。
山頂の尾根筋は思いのほか平坦で、地元の方の墓地が各所に所在。
従って、郭跡や平場のようにも見ようによっては見えなくもありません。
年代の古いものでも近世の延宝、正徳年間あたりの墓石が確認されるのみでした。

さて、遺構らしきものは殆ど確認できないのですが、僅かに土塁や空堀跡にも見えなくもない個所や、小口のように見えなくもない地形も所在。
然し何れもそれほど明確なものではなく、希望的観測の域を出るものではありませんでした。
また、墓参のために民家からの登口が何ヶ所かあり、比較的人の出入は多いようですが、秋の彼岸前なので蜘蛛の巣の多さには些か閉口。

なお、一部に竹林が所在することから、その時期になると筍を不法に持ち去る不心得な人間がいるようで、「不法侵入すると警察に通報」する旨の告示が設置され、間違っても筍の時期には訪れないことが肝要かと思われました。
なお、地元の教育委員会に確認した所では、「じょうはら」と読むとのこと。


小高氏館(比企郡滑川町)比高差約20m 午後0時05分~0時40分

こちらも登り口不明ですが、よく見ると麓の民家を50mほど過ぎたところに南側から斜面を斜めに登っていく「道」がありました。
「道」といっても腰の辺りまで夏草が生茂り、全く地面の見えない代物ですが。
館跡と推定される山頂部分は最近までプレハブ小屋のようなものが存在していた形跡も。
その部分は別としても、予想外に平坦で広々としています。
また西側を除いて大きな木も余りないので、東側の稜線との地形上の関係もある程度明確に把握できました。
なお、稜線に繋がる東側に堀切などの形跡があるかどうか念のため確認。
結果は夏草の繁茂に妨害されて不詳。

さて、帰り道にて多少のトラブル発生。
草を掻き分けて登ってきた所をそのまま戻ったつもりが、10mほど北側にずれていました。
このため自分の背丈を越える2mほどの草叢に突入。
ここで強行突破を試みましたが見事に失敗。

「♪すーべる、転がる、立ち上がる。歩く、倒れる、まーた起きるー」という演歌の歌詞どおりの状況に陥ることに。
蔓性の植物が足首付近に絡みつき前進不能。
斜面のため上体のみが前進。
当然の結果として、これがホントの前倒しに。
後から思い起こすと、もしかすると大きく地面が窪んでいたような感じもしたので、ことによると「堀跡」かとも。
しかし、本当に進退窮まっていたので地面を観察している余裕もなく。

このような恥ずかしい行動を繰り返しているうちに、貴重かつ未使用の500mlペットボトルのお茶を紛失。
喉の渇きを癒すことに失敗したのみならず、リサイクルすべき資源ごみを、こともあろうに山中に放置するという初の屈辱的体験。
車に戻ってから紛失に気がついたので、再び戻って探す気力と時間が...
結局、登ってきた場所とは少し別の草丈の低い個所から下山することに成功。
比高20m程度でも背丈を越える夏草は侮れないという貴重な教訓。

もっとも、一応車中には常に「草刈鎌」「鉈」「2リットル入りお茶のペットボトル6本」「耐加重500㎏の30mと50mロープ」「寝袋」「懐中電灯」「ヘルメット」などの各種装備を配備しているのであります。


土井城(比企郡滑川町)不明 午後1時00分~1時20分

「どいじょう」と読むのではありますが、コピーした資料や地元の教育委員会の方の情報によれば、「泥鰌=どじょう」が転訛した当て字などと考えられているようです。
「土井城」と「泥鰌」では、城館跡めぐりにとってはまさに天と地の格差が。
なお、先ほどの失策を取り返すべく、今度は2リットルのペットボトルのお茶をザックの中へと収納。

地名としては滑川町の老人福祉センター「松寿荘」の東側に所在する「土井城沼」(どいじょうぬま)が実在。
また、峠に所在する指道標には「どいじょうぬま」と、わざわざ振り仮名が明記されていました。
このほうが何処となく歴史的ロマンが感じられるので、これはこれで宜しいのではないかと。
南側を除く沼を囲む三方にはそれぞれ城館跡に相応しい地形の丘陵地帯も存在。
その中では西側の地形が尤も人手が比較的加えられていない模様で城館跡に相応しそうな地形をしていましたのでこの辺りで手を打つことに。
なお、地理的には「小高氏館」の北東200mほどの地点に所在していました。


浅間山(比企郡滑川町)比高差最大25m 午後1時20分~1時50分

必ずしも中世城館跡という伝承などがあるという訳ではありません。
源義賢の遺臣が勧請したとの伝承があるようです。
それにしても余りにも見事な水田の中に独立した丘陵。
凝灰岩の岩山であるとの解説板が麓の鳥居の所に設置されていました。
それにしても「砦」「物見」などの小規模な城郭としては正に絶好の地形で、南側以外からの直登はほぼ困難な勾配。
その南側の石段も石が浮いて崩れかけ、凝灰岩の岩盤が露出している個所は苔が繁殖して「♪すーべる...」。
しかし、ここで転がったら間違いなく大怪我に。
結局は蟹の横歩きの要領でトレッキング・シューズの摩擦係数を高め、草の生えている個所を探しつつ参道を登り無事登攀に成功。

山頂の社殿の前には、かつては神水とされた水の綺麗な小さな泉が現存。
トノサマガエルが2匹、慌ててその姿を池の底に隠していました。
さて、よくよく考えれば不思議な光景かと。
何故岩山の山頂に泉が存在するのか。
湧水だとしても何処から湧き出すのか、物理的に全く理解できない現象であり、その意味でもまさに「神水」かと。
なお、下りルートは通行止めの車道のような安全な道から下山。


山城沼砦(比企郡滑川町)不明 午後2時00分~午後2時50分

高根カントリークラブの南側の沼池周辺の丘陵が砦の伝承地の模様。
予想通り肝心の沼池も、空堀跡が所在すると伝わる個所もゴルフ場の中で接近することができませんでした。
大きく迂回して南側の沼池の脇道から北上してみたものの途中で道が消滅。
山城沼の南側に所在する新沼から見た西側の丘陵地帯を撮影することで切り上げることに。

なお、ゴルフ場のど真ん中を町道が横断していることもあり、専用の信号器が設置。
プレーヤーが今まさにドライバースイングをする準備体勢に入っていたので、何故か無意識の内に小走りにコースを横断してプレーのスムーズな続行に協力。
このお蔭で全力疾走はともかく、小走りならば数十m程度の短い距離を走ることができる体調であることが検証されました(笑)。


土井城近くのコスモス
「土井城近くのコスモス」
2006/09/17 撮影


今回は歩く距離をある程度長くしてみた積もりでしたが、合計の歩行距離は僅かに6.5キロメートルほどで、平地換算でも10km未満かと。
比高差の合計も5ヶ所あわせても、せいぜい120m足らず。
従って体調に関してそれほど大きな変化は見られず、この程度の運動ならば殆ど問題がなさそうなことが判明したので先ずはそれなりに一安心。

自分の天気予想では午後3時までは降雨はなく、夕刻遅くから雨になるという前提で行動。
途中で薄日が一時差したものの、基本的には予想通りの湿度の高いやや蒸暑い曇り空。

車での帰路、午後3時45分頃から次第に霧雨模様に。
帰宅後の午後6時過ぎにはやや強い俄か雨が。
このくらい天候のヤマ感が当たると、却って不気味な感じも(笑)

やたらに長いブログであるにも拘らず、画像はたったの1枚のみというアンバランスに自ら呆れる仕儀なのでありました。

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先日、拙HPのトップページを何時ものように何気なくボッーと眺めておりました。
すると訪城した季節や地理的条件により、その地形を含む遠景の構図自体にかなりの共通性があることを今頃になって発見(笑)

冬季に訪れた山城は、大部分背景が青空で山城の遠景が中央付近に所在。
5月以降に訪れている平地の城館跡は、緑豊かな台地もしくは平地林が中心的な被写体を形成。
特に水田地帯の低地に所在するタイプの城館跡は、極めてその遠景が酷似しているために当人自身が時々区別がつかないことも(汗)

もちろん多分に自分の趣向が画像に反映している結果であることには相違ありません。
しかし半面では、現代社会とは異なり地理的情報や道路網が未発達な中世において、地理不案内な地域を軍事的に制圧するということは、想像以上に如何に大変な時間と労力を伴うものであったかということがつくづく偲ばれるのでありました。
また、天候に左右されやすい劣悪な装備のもとでは、まさに「地の利」が非常に大きな要素を占めることが十分に予想され、先導や抜け道などの道案内などが行える在地領主階層の帰趨(調略)が重要であったのかなどについて改めて実感するに至りました。

寺山砦-秩父市根古屋城-飯能市
真冬の「寺山砦」と「根古屋城」

桑原堀の内-蓮田市江ヶ崎城-蓮田市
真夏の「桑原堀の内」と「江ヶ崎城」


さて今月はどちらの方面へ参ろうかと案じていたところ、急遽滑川町(比企郡)のなかでは未訪城で、不詳なことで有名?な「城原城」(じょうはらじょう)「土井城」(どじょう沼の転訛?とも)「小高館」(おだかやかた)「山城沼砦」(やましろぬまとりで)という極めてあやふやな情報しか把握していない伝承地の以上4ヶ所に内定。

さて、その理由はというと滑川町の文化財担当の方の対応が適切かつ親切であったことによるものであります。
自治体の担当者の対応次第で随分とその自治体に対する印象が左右されるということを改めて痛感。
以前訪れたO市では庁舎の敷地内に建立されていた石碑の存在を担当者が認識していなかったり、H市では市史の写真の説明の錯誤について責任を著者に擦り付けたりと見苦しい対応を受けてきたこともあり、滑川町の担当者の対応にはたいへん好印象を持てました。

ということで、白岡町はその次の機会に繰り下げ。
しかし、休みと天候の折り合いがなかなか...
なお、薮蚊どころか、間違いなくマムシなども棲息していそうな池沼地の多い地域なので要注意の模様。

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本日の午前中は、所用時間僅か2分間の説明のためだけに休日出勤の憂き目に。
説明そのものは午前11時前にはすんなりとけりがついたものの、その後事情により、職場に戻りイベントの連絡調整を急遽実施せざるを得ない破目に。
相手先とのコンタクトがなかなかつかず、結果的に体が空いたのは漸く12時半過ぎ。
さて予想外に日中は気温が上昇し始め、訪城の是非に際してやや迷いが...
それでも念のため水分補給だけは抜かりなく用意してあったこともあり、結局は先日に引き続いて予定通り川島町の城館跡へ。
目星を付けていた県道76号線の「道場橋東詰」と如何にも中世城館と関わりのありそうな信号付近のローソンにてお茶と軽食を購入して、まずは「上伊草堀ノ内」へ。

上伊草堀ノ内(川島町)午後1時30分から午後2時まで
 越辺側の左岸地域で県道76号線の両側は元々規模の大きな用水路が存在する地域。
目当ての埼玉県信用金庫側の東側に所在する住宅の道路沿いにも用水路があちこちに。
現在でも大きく蛇行を繰り返す越辺川は、近代に入り治水対策が完備する以前には、大雨が降ると少なからず洪水が発生するといわれた水量の多い暴れ川であったという経緯があり、その後の治水対策や耕地整理により農業用水、排水路などが整備されていった模様で、東西南北方向に規模の大きな用水路が現存。
このためにひたすら目移りのしっぱなしで、「堀ノ内」の地名の語源となったと推定される堀跡の末裔となる用水路は、はてさて何処の辺りにおいでになるのやら全く見当もつかず。
ほとんどの地域が水田上の低地に宅地造成されているらしく館跡としての痕跡を辿ること自体がきわめて難しい状況。

その中で自然堤防上の微高地と推定される、現在は無住の西福寺の墓地周辺が、唯一最もそれらしい雰囲気が残されているような印象をもちました。
辺りの墓石を拝見すると「F氏」という姓がかなり目立ちましたので、この一帯の有力者階層に繋がる一族であったのかも知れません。
もっとも「堀ノ内」という地名が残るというだけで、その伝承・由来などについては全く不明なあくまでも多分に希望的城館跡推定地なのでありました。


このあと、北西に3㎞ほど車を走らせ県道76号線沿いのヤオコーに駐車させていただき、徒歩にて「中山陣屋」と隣接の「比企氏館」へ。

中山陣屋(川島町)午後2時05分から午後2時35分まで
中山地区の中山小学校の校庭付近が川越藩から出羽山形藩へ移封後もこの地域に6千石の所領を有していた秋元氏陣屋跡とされているようです。
校庭の周囲を一周半した限りでは陣屋址に関連しそうな堀跡などの遺構の形跡は皆無に近いような状態。
それでも北側の道路沿いの校庭の隅には、大正期に建立された「陣屋址」の石碑が所在。
尤も道路沿いとはいえ学校の正門の内側なので、一礼して敷地内に入ったのち、速やかに碑文を斜め読みしてデジカメで撮影後に即座に退散。
おりしもタイミングよく「怪しい人を見かけたら、警察や役場に連絡してください」という例の防災無線放送が流れていました。

さらに、小学校敷地の西側の戦没者の慰霊碑付近にも、見かけは実に侘しげな「秋元氏陣屋跡」と記されていたと推定される文化財標柱を発見。
あらかじめ何と記されているのかを知らないとまず読めそうもない、風化の進んだそれ自体が文化財といっても過言ではないような木製の標柱。
長年の風雨に晒され朽ち果てる寸前の、まさしく侘寂の世界を垣間見たような風合いでした。
先ほどデジカメで撮影してきた画像を拡大して、よくよく観察すると「秋元陣屋跡」と記されていた模様です。
また、陣屋の遺構とは恐らく無関係とは思われますが、小学校の東側の民家脇には構堀とも思われる堀跡風の溝が屋敷林に沿う形で所在していました。
しかし、これもよくよく考えれば畑の根切りのための溝(畦堀)かも知れません。


比企氏館(川島町)午後2時40分から午後3時10分まで
中山陣屋の東側に所在する金剛寺周辺の自然堤防上の微高地が「比企氏館」の跡とされています。
鎌倉初期に2代将軍頼家の外戚として大きな勢力を誇った比企氏の後裔の館跡とされている模様です。
その後戦国時代の比企左馬助政員は、岩付城主太田資正に仕えて坂戸の西光寺の所領等を安堵され比企郡代となったとされています。
さて、境内の東側には比企氏一族の近世の宝篋印塔が建立されており、加えて墓所の手前には空堀跡とも見えなくもないような深さ1.5m、幅2間、延長30メートルほどの溝も残されていました。
堀跡といえば確かに堀跡には違いないのですが、中世城館としての遺構の一部かどうかについてはややその判断に迷うところです。
その規模から考えると、頻発した越辺川の洪水などの災害から墓所を守るための溝跡のようなものにも見えてしまうのですが。
しかし、鐘楼などの建立に際して寄付をされた方々の名前が刻まれた石碑に「比企○○」の姓名を見つけたときには思わず、その歴史的な系譜に対して率直に尊敬の念を懐いてしまいました。

しかし本日は仕事先からの訪城のため、虫除けスプレーなどの用意はなく、このためものの見事に竹林の中の墓所にて薮蚊のゲリラ攻撃に晒され、何故か左手の甲だけがボコボコに刺されまくりました。
幸いにして、痒み止めだけは何故か3種類も常備していたので、この際ベタベタに塗りまくって事なきを得たのでありました。


モミジアオイ
「比企氏館」の付近に咲いていた幾分盛りを過ぎた「モミジアオイ」
2006/09/04 撮影


この日は日中は湿度はそれほど高くはなかったものの、予想以上に暑さが戻り、極めて暑さに弱い体質の自分としては僅か4km程度を彷徨していたにもかかわらず、ほぼ完璧なバテバテ状態に突入。
ここまで体力が低下しているとは自分でも茫然自失...
加えて駐車中の締め切った車中の室温は軽く摂氏60度を突破。
このためさらに一層、予定外の疲労困憊の仕儀と相成りました。

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